親子の日 エッセイコンテスト 2020 入賞作品

開催・応募期間:2020年5月25日〜7月27日

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

ゼンハイザー MOMENTUM Ture Wireless 2

弁当買ってくる
殺風景な無菌室にポツリ、父の声。
9歳の時白血病と診断された私はそんな父を悲痛な眼差しで見つめた。化学療法は副作用による苦痛の連続。何より恐ろしかったのは骨随穿刺。太い針を背骨にこじ入れるたび壁を突き抜けるほどの強さで泣き叫んだ。
そんな時も父は病室を出て弁当を買いに行った。
私は無菌室にひとりぼっち。痛みに泣き、恐怖に泣き、孤独に泣いた。
だけど退院してから知った。病院にお弁当屋さんなんてないこと。
「弁当が売り切れてた」と言って戻ってきた日。父は血を噴いたように真っ赤な目をしていた。本当は病院の外で泣いていた。
母の前では「代わってやりたい」といつも泣いていたという。
それでも私の前では涙を見せまいと必死だった。
いつだって気丈に振る舞い、決して弱いところを見せなかった。
一度だけ本当に泣きながら戻ってきた日。その時も「最後までとっておいた玉子焼きをカラスに取られた」と嘘をついた。
だけど直後「カラスにやるくらいならお前に食べさせてやりたかった」と泣いた。
ちょうど無菌室での絶食が七日を迎えた時だった。
そんな父を世間は浅はかな人間だと言うかもしれない。親なのにと言う人もいるかもしれない。だけど私はちがう。私に対する父の愛はいつだって強く温かかった。今では医師の前で「俺にもこの針を刺してください。俺も娘と痛みを共有したいんです」と頼み込んだ父を誇りに思う。
白血病という運命を背負っても生まれてきて良かったと思えるのは父のおかげだ。この先どんなに感謝を伝えても、父の流した汗や涙の価値を越えられないと思う。
「ありがとう」よりも強い言葉があればといつも思う。
それでも父の顔を見ると自然と口にしてしまうのだ。
「ありがとう」の言葉を。

オーティコンみみとも賞

ゼンハイザー ヘッドホン HD 350BT 3

小学一年生の時の日記 に 「いつまでも笑い続けていました」と、母との1場面が書かれている。
それは、回覧板を持って行った帰り道の出来事。
サンダルが川に落ちて長い物を家に取りに行ったけれど、全く届かなくて大笑い。やっととれたのに、手と足がぶつかってサンダルが又落ちてしまうハプニングがあり、また大笑い。
実は私達親子は、いまでも、大笑いする事が 度々ある。
子どもの頃は、二人が笑っているとう 「また始まったな」と父は言い、兄は、笑っている姿を見てはニヤリと笑って部屋を出ていったものだ。
あれから、30年近く経つが、変わらない母と笑い合う関係。
結婚して、たまにしか会えなくなくなったけど、時々起きるハプニングで笑いのスイッチが入るとしゃべれなくなるくらい笑い、笑いがとまらなくなる。
今も昔も変わらないこの笑う関係で、私は、安心感と幸せ感に包まれる。
しかし、変わったこともある。
それは、母と私が笑う姿を見つめる子ども達や夫という存在。
みんな一緒に笑う訳でもなく「どうしたの?大丈夫?」と言うだけだ。
それでも、 母と私は、答える余裕もないほどお腹をかかえ、声も出せず笑う。
笑いのツボが同じなのは、親子の特別な繋がりなのだろうか。
この頃は、一緒に過ごす時間は減ってしまったけれど、笑いあう時間が変わらずに続いていることは、何よりも幸せなんだとしみじみ思う。

 働き始めて五年ほど経った頃、私は母と北海道を旅行した。母との二人旅行は初めてのことだった。友人とは休暇の予定が合わず、その夏は母を誘ったのだ。釧路湿原を散策し、車で知床半島を目指す、道東の旅。釧路でレンタカーを借り、助手席に母を乗せてアクセルを踏んだ。北海道の乾いた空気が気持ちのいい日だった。それまで家族旅行のドライブと言えば計画は母、車の運転は父、一人娘の私は後部座席に乗ってついて行くだけだったのに、いつの間にか変わっていた。
最初は私の運転を少し怖がっていた母も、だんだんと慣れて上機嫌だった。北上して知床に向かう途中、ちょうど中間地点くらいで入った売店やカフェで口々に「摩周湖には行かれましたか」と尋ねられた。摩周湖は旅程には入っていなかったのだが、せっかくだから行こうか、と寄り道をしていくことにした。
展望台から見下ろすと、摩周湖の湖面にはうっすらと霧がかかっていた。その霧の切れ目から、青にも緑にも見える不思議な深い色の水が覗く。何とも神秘的な風景だった。
やっぱり来てよかったね、と話しながら駐車場に戻る途中、母が私を呼んだ。
「知ちゃん」
振り向いたら、見たことがないような母の眩しい笑顔があった。
「摩周湖は確かに神秘的だけど、私にはあなたの方がずっとずっと神秘だよ。あんなに小さく産まれた子が、こんなに大きくなったんだから」
その瞬間、ああ、私は自分を粗末にしてこの人を悲しませるようなことをしてはいけないんだと強く思った。母にとって、母としての出発点は小さくてやわらかい私を胸に抱いた瞬間。そこから長い間、母は私を慈しみ、守ろうとし、守ってきた。私はそのことを母の言葉から感じ取ったのだ。
ふとした夏の寄り道が、北海道の景色だけではない、忘れられない思い出を作ってくれた。

 今年母は九十一歳になります。耳と膝が少し悪い程度で心身共に極めて健康です。母には感謝の言葉しかありません。ただ一つだけやめてほしいなぁと思うことがあります。それは、デパートやスーパー、公の場にいるときに大きな声で私の名前を呼ばないでほしいということです。独身時代、母をデパートに連れて行った時の出来事でした。私は店の前で母を先に降ろし、駐車場に留めてからデパートの一階に入りました。すると遠くの方から「たかしちゃーん!こっちよ!こっち!」という声が聞こえてくるではありませんか。その甲高い声は明らかに母の声です。嫌だなぁ恥ずかしいなぁと思いつつ知らんふりをしました。すると「ここよ、ここぉ!」と言いながら手を振るではありませんか。さすがに店員さんやお客さんの私への視線が気になりました。呼んでいる相手が子供ではなく、いい年をしたおっさんだとわかり笑われているような気がしたのです。さり気なく母に近づいて「大きな声で呼ぶのはやめろ!子供じゃないんだから」すると母は「何が悪い、お前は私の子供だよ」「そういうことじゃない。恥ずかしいじゃないか。何度言えばわかるんだ」てな調子でした。
その後結婚して妻と母、私の三人で大きなスーパーに出かけることがありました。そこでも「たかしちゃーん!」が始まりました。勝手知ったる妻が笑いながら「ほらママが呼んでるわよ」と茶化しました。もう溜息しか出ませんでした。十数年が経ち娘三人と妻と母、私の六人でお出かけして、いつものパターンが展開しました。娘達はクスクス笑いながら禿げ頭の私に向かって「たかしちゃん、ほらママが呼んでるわよ」妻の真似をするではありませんか。もう苦笑いするしかありませんでした。市役所、病院、公園等々枚挙にいとまがありません。呼びたがっているとしか思えません。
今ではもう母親とはこんなものだろうとあきらめていますが、こんなものでしょうか?

毎日新聞社賞

MOTTAINAIキャンペーングッズ

 二年前、初婚の主人と子連れ再婚したばかりで、まだぎこちなく暮らしていた私たちの部屋の下に、軽快な広島弁の一家が越してきた。夫婦と、藍ちゃんという女の子で、息子と保育園のクラスが一緒になり、子どもたちはすぐに意気投合。つられて親同士も仲良くなった。
『天真爛漫』は、藍ちゃんのためにあるような言葉だ。嬉しいことがあると話に割り込み、何度でも自慢するし、面白くないことがあるとすねて頬を膨らまし、口も聞かなくなった。
「ジジイ! このドアホ!」
さすがにお父さんに向かってその口の利き方は、と思い振り返ると、うちの主人に向かって発した言葉だったこともある。彼に気を遣い、遠慮がちに甘えていた息子の、目を丸くした姿は忘れられない。
けれども、素直で大胆な藍ちゃんと、控えめで慎重な息子は良いコンビだった。このまま二人の成長を見守りたいと思っていた。しかし、残念なことにわずか一年半で、藍ちゃんのお父さんが転勤になり、離れることになってしまった。心に空いた穴を塞ぐように、残りの時間をなるべく多く、両家一緒に過ごした。
一年生の二学期の終業式が最後の日になった。直前まで荷造りができるよう、藍ちゃんの両親には家にいてもらい、式の迎えは我が家が担当した。帰り道、子どもたちは大人しかった。そこで笑いを取りに行ったのが主人だった。
「お前たち! 元気ですかー!」
「元気なワケないじゃろが! ボケ!」
主人を蹴り上げながらも、じゃれて抱きついた藍ちゃんに、息子も、
「あー! ずるーい!」と言って割り込んだ。
思えば、この一年半で息子と主人の距離はだいぶ縮まったな、と感じた。ちょっと図々しくて無邪気な藍ちゃんのおかげで、息子も子どもらしく振る舞えるようになったのかなと、ほほえましく思えた瞬間だった。
あれから半年。私たちは傍から見ると本物の家族だ。親子の絆を深めてくれた奇跡の一年半に、感謝の気持ちでいっぱいだ。

もう四十年近く前の話である。大学受験に失敗した。第一志望どころか、第二志望も第三志望も落ちた。両親とも慰めてはくれたが、言葉が耳に入ってこない。僕は、ショックで部屋に閉じこもり、蒲団を頭からかぶり、心を閉ざした。
そんな僕を父親は部屋から引きずり出そうとした。力づくで蒲団を引きはがし、リビングへ連れて行こうとした。うっとうしかった。放っておいて欲しかった。僕は父の手を振り払い、家を飛び出した。受験対策の一環で体作りのために毎朝三十分は走ることにしていた僕に、父は追いつけるはずはなかった。普段運動は全くしていないし明らかなビールっ腹だ。無理に決まっていた。でも、父親はついてきた。僕はスピードを上げた。振り返ってみると、足元がもつれ、必死の形相で僕を見つめ、離されまいと腕を大きく振りながら父親はついてくる。
「何なんだよ。どこまでついて来るんだ」
父親から逃げようと走っていたが、そのことが馬鹿らしいように思えて来て、僕は公園に駆け込み、そこにあったベンチに座った。父親もやがてやって来て、僕の横に腰掛けた。父親は肩で息をしていた。
「速いなあ。もう倒れるかと思ったよ」
「ついて来られるなんて思いもしなかった」
「いやあ、これは奇跡だな」そう言って父親は笑った。
「受験なんて、人生の中では一瞬のことだよ。今年がダメなら来年もう一度受験すればいいじゃないか。来年がダメなら再来年、再来年がダメならその次の年、それでもダメなら」
「いや、さすがにそんなに落ち続けることはないでしょ」
「そりゃそうか」父親はまた大声で笑って見せた。僕もつられて笑った。

この日の父親のお蔭で僕はすぐに立ち直り、翌年の受験に向けてまた歩き出すことができた。感謝してもしきれない。

仕事の予定で埋まるカレンダー。
運動会も、参観日も、卒業式にも父が姿を見せたことはない。誕生日やクリスマス。一緒にハッピーバースデーを歌った記憶も、チキンを食べた思い出もない。あるのはいつも父がいないという事実だけ。寂しかった。本当に。心の底から。だからこそ夫になる人は父とは正反対の人が良かった。「給料なんか低くてもいい。一緒に食卓を囲めればそれでいい」
これが私の切なる願いだった。
その父のカレンダーも時代と共に携帯電話のスケジュール帖に移行した。相変わらず休みはないし、文字変換も「し」と打てば「出張」と出る有り様。残業時間が伸びるたび、寿命は縮んでゆく。そんな仕事ぶりだった。
定年退職をした翌年のことだった。父が脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。まさに人生これからというとき。父の無念は計り知れなかった。
四十九日の法要を終え、父の部屋を片付けていた時だった。解約したはずの父の携帯電話が鳴った。
「えっ。まさか電話?」
「なんか気味悪い」
母も兄も携帯電話を取るのを躊躇った。私が恐る恐る画面を覗くとそれは着信ではなくスケジュール帖のアラームだった。
画面に表示されたメッセージを見て言葉を失った。
『ゆみの誕生日』
父は私の誕生日をカレンダーに設定していた。驚きと戸惑い。それ以上に言いようもない感謝の気持ちが溢れ出た。いくつになっても父は私の誕生日を忘れなかった。傍にいなくても心までは離れなかった。そんな父を憎んでいたことを心から悔やんだ。
本当は一緒に居たかったよね。
家族ともっともっと生きたかったよね。
だから思う。
切なさや恋しさと一緒に。
お父さん、私をこんなに愛してくれてありがとう。

TSUTAYA賞

図書券

「あんよはじょうず♪」「あんよはじょうず♪」
誰かと手を繋いだのはいつぶりだろう。
左に私の手、右に私の母の手を繋いだ1歳の甥っ子がやや前傾になりながらよちよち歩く。柔らかいほっぺたが弾けそうな笑顔をときどき私たちへ向けてくる。母も側で見ていた父も顔がほころぶ。
姉の妊娠が分かってから今日まで両親と協力して子育てをサポートしてきた。大人4人がかりで沐浴したらおしっこをかけられたり、下ろすと泣くので交代で抱っこして腕がパンパンになったり。手がかかるほどかわいいと聞くがこれほどだとは思わなかった。たちまち両親と私は『孫(甥っ子)溺愛チーム』となった。
無口な父と二人きりで少し気まずさを感じていた空間も「つみきを3個積めるようになったんだよ」「今日は拍手ができるようになったみたいだよ」と甥っ子の成長を語り合い楽しい空間に変わった。
母は「オムツを早く替えられなくて甥っ子をよく泣かせちゃう」と落ち込む私を「最初は誰でもそんなもんだよ」と励ましてくれた。
ある土曜日の午後。自分の思い通りにさせてもらえなくて怒った甥っ子が私を思いきり叩いた。私は「痛いなあ」と笑うだけだったが「私の大事な娘を叩かないで?」と母がすかさず窘める。
驚いた。
私は4年前に難病を発症した。夢を叶えるために大学まで通わせてもらったのに、実現できなかった。両親はさぞかしがっかりしているだろう。たくさん褒められていた過去の私はもういない。両親にとって孫が一番なんだと思っていた。
「今のお母さんにも私は大事な存在だったんだね。」咄嗟に出てきた母の言葉が温かくて、私は涙を浮かべた。目に見えない手を母はずっと繋いでくれていたのだ

スマホで鳴らせる鳩時計賞

OQTA HATO(Wi-Fi)

確か小学生の時だった。
父が一度だけ、お弁当を作ってくれたことがある。
理由は忘れてしまったが母が家にいなかったのはぼんやりと覚えている。

早朝、ふと目が覚めて台所を見ると父の背中が見えた。
ソーセージの焼ける匂いでお弁当を作っているのが分かった。
それが私のお弁当であることも、すぐさま気付いた。

当時住んでいたのは、ぼろく狭いアパート。
ただでさえ狭い部屋の、さらに狭い台所に立っている父。
肥満体の広い背中が小さく見えたのは、背中を丸めていたためだろうか。

記憶にある限り、父が包丁を持つのは好物である焼き豚を切る時だけだった。家事は全て母任せで、昭和の親父を具現化したような父が台所に立っている。
私はその光景をただ見つめていた。
嬉しさも驚きもなかく放心状態だった。
白い光の下、眠気と戦いながら、不器用な手つきでお弁当を作る父の背中。

お弁当の内容は残念ながら覚えていない。
母が作ったものと変わらなかったかもしれないが、とても美味しかったことを何故か覚えている。

円谷賞

『かいじゅうステップ ワンダバダ』DVD3巻セット

 夕飯を食べていると、七歳の長女がはにかみながら言った。
「ママ、ちょっと目をつぶってて」
「うん」
言われた通り十秒数えてまぶたを開けると、すてきなプレゼントがテーブルに並んでいた。
お花に、クッキー、にがおえ、おてがみ!
「まあ、うれしい。どうもありがとう」
感激して長女をぎゅっと抱きしめたら、次女がすかさずまねをして言った。
「ママ、お目目つぶって」
「うん、わかった」
ゆっくり十秒数えて、明るく訊ねた。
「もういい?」
「まだだよ、まだだよ」
そうモソモソ呟きながら、ガサゴソ、ガサゴソ……。何をくれるのだろうと、わくわく胸を弾ませて待ち続けた。
「もういいよ!」
かわいらしい声を合図に目を開けたら、おやおや?
にこにこ笑顔の次女の口に、海苔がぺったりくっついているではないか。
ちいさな手には、焼き海苔の大袋!
「ほう、そうきたか。こっそりつまみ食いするとは、参りました!」
たまらず家族みんなで顔を見合わせて、ゲラゲラ大笑いした。次はどんなお茶目なことをして笑わせてくれるのか、とっても楽しみだ。

親子の日賞

親子の日オリジナルエコバッグ

赤ちゃんが生まれた。長時間に及ぶ出産も大変だったがオムツを替えてもミルクをあげても泣き止まない赤ちゃんのお世話は想像以上に大変で、文字通り寝る暇もなかった。だから母から父と一緒に面会に行くと連絡がきたときは思わずため息が出てしまった。私は父が苦手だった。顔を合わせても何を話したら良いのか分からない。

二人は午後2時の面会開始時間ちょうどにやってきた。母は赤ちゃんを見て大喜びで抱いたり話しかけたりしていた。対照的に父は所在なげに立っていて赤ちゃんを眺めはするものの、抱こうとはしなかった。沈黙が気まずくなった時に思い切って父に声をかけてみた。「せっかくだから抱いてみたら?」父は「いや、いい。」と拒んだが興味がある様子は赤ちゃんをちらちらと見る視線から感じた。私はもう少し強く父に勧めた。「生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこする機会はもうないかもしれないから抱いてみたら?」

父は母に助けられて赤ちゃんを抱いた。緊張のためか肩が上がっていた。ぎこちなくて不格好、でも美しかった。もし看護師さんが部屋に入ってその姿を見たら思わず涙ぐんでしまうような美しい光景だった。父は「かわいい、かわいい。」と小さな声で繰り返した。誰に言うのでもない。独り言でもなく、目の前の赤ちゃんに伝えるのでもない、心から出たため息のような言葉だった。

両親が帰った後の病室で私は赤ちゃんを抱いた。ふと父の顔が思い浮かんだ。私も赤ちゃんの頃に父に抱かれたのだろうか。父は私の顔を見て「かわいい。」と言ったのだろうか。見ている人が涙ぐむような純真さで赤ちゃんだった私の顔を眺めたのだろうか。およそ30年前の病室で母に寄り添う父の姿を思い浮かべると胸がギュッと痛んだ。父に愛されていることを忘れて意固地な態度をとり続けたことを悔やんだ。絶え間なく愛情を与えてくれた父を思って私は赤ちゃんを抱きながら子供のようにわんわんと泣いた。

「出て行くと決めたら二度と帰って来るなよ」
あの時親父はそう言った。いわゆる勘当ってやつだった。親父がそう言うのも無理はない。俺は突然大学を辞め、付き人の道を選んだ。
出発の朝、見送ったのはお袋だけだった。「何かあったら帰って来なさい」と言いながらお袋は涙を拭った。
一方姿を見せない親父の自己主張もひしひしと感じた。
上京後すぐに付き人生活は始まった。師匠の食事作りに加え、お茶出し、掃除、洗濯、荷物持ち。何をやっても叱られ、何を作ってもヘマをした。多忙どころか過酷な世界。一ヶ月後には頭にハゲができ、三ヶ月後には帯状疱疹があちこちに出た。半年後には突然激しい動悸や手の震えに見舞われ、一睡もできない日が続いた。忘れもしない師匠との稽古の日。俺は正座したまま師匠の前で気を失った。
目覚めたのは倒れてから五日後。そこには両親の姿があった。俺は何も言えなかった。勝手に上京して勝手に倒れて。すでにもう親父から「辞めろ」と言われる覚悟はできていた。
しかし親父は言った。「一度家に帰って来たらどうだ」
その言葉が耳ではなく心に響いた。思わず泣いた。人目も憚らずに泣いた。悔しかったんじゃない。ありがたかった。勝手に出ていった俺を受け入れてくれる親父が。本当に。
親父って頑固で融通が利かないものだと思っていたが、違った。厳しさの中にもちゃんと愛のある人。つまり世界で一番最後に「おかえり」を言ってくれる人が親父なのかもしれない。そんな風に思った。
いつか親父を寄席に招待したい。目標はステージにあがることじゃない。笑いを届けることでもない。感謝を伝えることだ。

あなたを初めて抱いた時、私は親と呼ばれる存在になった。
あなたが産まれてからは三時間ごとにおっぱいをあげ、あなたが眠るまで抱っこをした。
寝ているときももしかしたら息が止まってないか心配で何度も確認した。
あれから一年が経ち、後追いが始まった。
娘はなにをしていても私が動こうとすると片時も離れずついてくる。
トイレに行こうとしても、しがみついて離れない。
洗い物をしようとすると大声で泣きわめく。眠っているときも私が少しでも離れると起きて探し始める。
ある日、夕ご飯の準備で手が離せないといつものように娘が「はいっはいっ」と抱っこをせがんできた。私は目も合わさずに「ちょっとまってね」と言って準備を続けた。しばらくして娘を見ると涙を溜めてじっとこっちを見ていた。私が「お待たせ。抱っこしようか」と言うとこれ以上にない幸せそうな笑顔を向けてきてくれた。そして、小さな手を私の首に回し抱きついてきた。もちろん私も抱きしめ返し、これ以上にない幸せを感じた。
きっとこの子は、ただ私が笑って側にいてくれたらそれだけで最高に幸せなのだ。無償の愛は娘がいつも私に向けていてくれたものなのだ。
娘は今、この瞬間に人生をかけている。自分の全身で一生懸命気持ちを伝えようとしている。なので、私もそれに応えたいと思う。今この瞬間、娘が幸せであればそれで十分ではないか。その瞬間、瞬間が、すべてであって、娘の笑顔を守ることを何よりも大切にしていこうと思う。

六歳になった息子はひょうきん者だ。私が少しでも笑うと、何度も何度も同じことをやって笑わせてくる。特に、ヘンテコなダンスや面白い替え歌が大得意だ。息子から見ると、長い闘病で病床の時間が多い私は、つい顔がこわばってしまっているのがよくわかるのだろう。そんな気配や空気感を感じるのか、息子は私が笑うと、褒められたように幸せそうに微笑む。
そんな無邪気な息子を見ながら、ふと思い出したことがある。
私も幼い頃は、同じような子どもだったことを。

私が小さい頃の両親は、よく夫婦喧嘩をしていた。ちょうど父が転職をしたのだが、それが母は嫌だったようで毎晩のように言い争いをしていた。年の離れた兄もちょうど思春期真っ盛りの時期で、さらに両親とぶつかって三つ巴の争いのようだった。家庭にはいつもギスギスした空気が張り詰めていて、何かあればすぐに喧嘩が始まった。当初の私はただ泣くことしかできなかった。だが、だんだん大きくなるにつれ、私はそんな空気を変えたくなって、懸命にヘンなことをするようになった。両親や兄が私の動きを見てちょっとでも笑えば、私は嬉しくなって何度も繰り返し踊り、家族を和ませていた。家族にひょうきん者と呼ばれた私の心の中には、「みんなに笑っていてほしい」という願いがいつもあった。そしてその願いは時と共に徐々に叶えられ、我が家にも幸せな家庭が戻っていった。
そんな私もいつしか結婚して親となったが、病の苦しみであの頃の童心もどこかに吹き飛んでいたようだ。気づけば私の家庭にも、静かな緊張感が流れてしまっていた。確かに、今の人生は思い描いたものではないし、病気の現在から未来を考えると不安や心配にもなってしまう。だが、毎日支えてくれる家族のためにも、私ももう一度できる限り笑って生きようと決意した。

息子よ、大切なことをパパに思い出させてくれてありがとう。一緒に笑って、楽しい我が家にしていこうな。パパ、みんなとがんばるからね。

三十年振りに父に会ってどうですか、それともまだ時間がかかっているのでしょうか、母さん。
ずっと臥せていたのに、亡くなる一週間前になったら突然最後の願いを聞いてほしいと手を合わせ、冥土へは杖なしで歩いて行きたい、ハワイで買ったシャツを着て行きたい、とぽつりぽつりと語り始めましたね。
それから・・・と促すと、お化粧して最後の橋を渡りたい、お弁当はおいなりさんを持って、と。
小声でしたが淀みありませんでした。
でも、ぼくにはすぐに分かりました。
自分のためでなく、みんな父に会う時のためだったのですよね。
元気な姿を見せたい、だからお化粧もしていたいのはもちろん、シャツは父とペアルックのものだし、おいなりさんは父の大好物だったのですから。
それならとお葬式の時、おいなりさんはもちろん化粧道具にシャツをお棺に入れて差し上げましたよ、さらに父に会ったときに渡す花束も。
亡くなったのがまだ七十過ぎて間もない父だったので、九十半ばになる母さんを見てどんな様子を見せてくれたのかぼくには興味がわきます。
お線香を手向けながら、どうだったかお尋ねしようと思ってますから、お得意のうふふで誤魔化さないでちゃん聞かせてくださいね、母さん。
そうそうそれから母さん、母さんが最後まで気にしていた二点、ふたつとも嫁はマスターしましたよ。母さんのカレー味と庭の菜園です。母さんが生きてるのかと錯覚してしまうほどです。どうぞ安らかにいてください。

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