親子の日 エッセイコンテスト 2023 入賞作品
開催・応募期間:2023年5月1日〜8月31日
親子の日20周年特別賞
- カオハガンキルトラグと写真絵本「たいせつなもの」
母は思いもよらぬ贈り物を残してくれた。
私が還暦の誕生日のことだ。母は88歳の米寿を迎えていた。
認知症が進み、体力も衰えが目立っていた。
「今年で最後にするよ」
目の前には、炊きあがったばかりの赤飯がある。
湯気が甘い香りを漂わせている。
母は60年間一回も欠かさず、私の誕生日に赤飯を作り続けてくれた。それ以外の誕生祝いをもらったことは、子どもの頃にもない。大人になってからもこの日だけは、母が作ると言えば勝手にまかせていた。
「味はどう?今年も元気に迎えられたね」
出来たてのあったかい赤飯。
小豆の甘みが口に広がる。
これが最後の赤飯になった。
母が亡くなって自分の誕生日を迎えた。
赤飯はないが、作り続けてくれた赤飯の記憶が甦る。
赤飯を蒸す母が見える。
田植えをする母の姿も見える。
小豆を蒔く母の姿も。
若い頃の、そして年を重ねていく母の姿がうかんでくる。
60回の赤飯は、その数だけの「記憶」をいう贈り物を添えてくれた。
そして、気づく。
愛されていたことに。
私の成長を見守り、自分が産んだ命の無事を、赤飯に託し願い続けてくれたことに。
私はあと幾つ年を重ねるのだろうか。
誕生日が来る度「記憶」がよび起こされ、感謝を重ねていく。
母さん、長い間ありがとう。
命をくれたこと感謝しているよ。
CHOYA賞
- Gold Edition
中学で不登校になった息子は、引きこもってゲームばかりしていた。
お互いイライラして、ぶつかり合っていた。
ある日バイトを始めると急に言いだして自分で応募して決めたのが魚類市場だった。
朝早く起きて自転車で30分、水揚げされたばかりの魚類をトロ箱に入れたり運んだりという力仕事だったが声も大きくなり日に焼けて逞しくなってきた。
暑い日が続く中、背中に背負ったリュックから鰹一尾が顔を出していた。
「お母さん、お土産」と、嬉しそうに背中を向いて見せた。
笑って、泣いた。
大きな魚一匹おろすのは大変だったが、息子の気持ちが嬉しくて三枚におろして刺身にし、頭は煮付けにして味噌汁までつくった。
息子は「おいしい、おいしい」と言って食べた。
苦しんだ日々、ぶつかり合った日々が少しずつ溶かされていくようだった。
あれから数年、魚ではないが日々私に笑顔と元気をくれる大切な息子。
ありがとう。
CHOYA賞
- The CHOYA Gift Edition(The CHOYA1年+3年のセット)
「うちって普通じゃないの?」と母に訊いた時、母は悲しそうな顔をしていた。
私は父親の顔を知らない。
それは私にとって普通のことだったし、悲しい思いをした覚えもない。
けれど周りの友達には父親がいて、幼い私はただ疑問に思い、「うちって普通じゃないの?」と母に訊いた。
女手一つで私を育ててくれた母。生活に余裕なんてなく、母は余計な出費が出ないよう努力していた。
そんなことはお構いなしに、私はよくゲームセンターで駄々をこねていた。
もう一回やりたいと言っても、やらせてもらえなかった。
みんなが持っているおもちゃも、ゲームも、私は手に入れることができなかった。
子供ながらに、周りとの格差に不満を抱くようになっていた。
「父親がいれば……」なんて発想はなく、不満はすべて母にぶつけていた。
小学校高学年になった頃、母が初めて遊園地に連れて行ってくれた。
テレビや友達の話でしか聞いたことのなかったジェットコースター。
ワクワクしながら乗ると、あまりのスピードに驚愕し、怖すぎてトラウマになった。
だが、特別な体験が出来てとても嬉しかった。
高校生になり、アルバイトをするようになった。
初めてのお給料。
母の日が近かったこともあり、プレゼントをあげることにした。
しかし、母が何が好きなのかが分からず、コンビニでおいしそうなシュークリームを買った。
母に渡すと、食べる前から満足そうな顔をしていた。
その後、今まで無縁だった父の日にもプレゼントをあげた。
母は困惑していたが、一人で父親も母親もこなしてきたのだから、貰えるプレゼントが二倍になるのは当然だと思った。
「うちって普通じゃないの?」と母に訊いた時、母は嬉しそうな顔をしていた。
CHOYA賞
- 梅しぼり
私の家では少し前から私の家の中だけで運動会を開催している。
内容は運動会らしいリレーとか借り物競走とか。
でも、一風変わったものもある。
それは「おんぶリレー」だ。
ペアを作って片方がもう片方をおんぶして家の周りを一周してタイムを競う。
小さい妹が考えたのだが、これはなかなかにいい競技である。
この日は、母さん&妹 VS 父&私というペアになった。
母さんチームはもちろん妹をおんぶすることになったのだが、こちら側は揉めに揉めて僕が父をおんぶすることに。
これは確定で負けやんと思っていたが、いざおんぶしてみると、軽い。
初め、僕が強くなったんだと思ったが違った。
明らかに父が軽いのだ。
そういえば、最近腰が痛い痛いと喚いていたし、髪の毛がどんどん抜けていくのを気にして海外から謎の薬を取り寄せていた。
「ひょうきんな性格の父が、また面白いことしてるよー。」と笑い流していたが、おんぶして分かったことは、父は確かに年を重ねていたこと。
父は、「とーちん(父)の仕事は家族を守ることや。とーちんは転勤してどっか行くけん。次に強いんはマー君や。やけん、みんなのこと守ってよ。」と言っていた。
でも父が年を取れば、父が転勤してようが家にいようがずーっと僕が一番強くなる。
おんぶリレーの軍配は僕らに上がった。
「マー君。力強いなー。」家族みんなが驚いてくれた。
父が「これからの運動会はもうマー君がとーちん背負ってな。」と言った。
これは、今まで家族をおんぶしてくれていた父から僕へのバトンパス。
僕のおんぶリレーは、この瞬間始まった。
円谷プロ賞
- Blu-ray 『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…』
小学校3年生になった甥に好きな食べ物はなにか聞いてみた。
うーん、うーん、と悩ましい顔をして考えている彼は、やがてぱっと顔をあげると
「ラーメン!ラーメンが一番好き!」と言った。
えっ、他にもいろいろ作ってあげてんじゃん、と義妹が肩を落とす。
皆が笑った。
だってこの前みんなで映画を観に行った帰りに食べたラーメンさ、美味しかったんだもの、と照れながら甥が答えた。
その笑顔で思い出すことがあった。
もう20年以上も前、私と弟は「どんな食べ物が一番美味しいか」で口論していた。
祖母の作る茶碗蒸しが世界で一番美味しいと主張する私に対して、弟が推したのはラーメンだった。ラーメンなんて!どこだって食べれるじゃん!とやや強い口調で茶碗蒸しの素晴らしさをごり押しする私に対して、弟はひるまずに反発する。
「この前みんなでおでかけした帰りに食べたラーメンが一番美味しかったんや!」
「みんなで。」
弟の口をついて出た言葉にどきりとしたことを今でも忘れない。
そうか、ラーメンが美味しかったからじゃなくて、皆と食べたから記憶に強く残っているのか・・・。
そう考えたら普段憎たらしい弟がなんだか可愛く思えてしまって、私はそれ以上言い返すことをしなかったような気がする。
改めて目の前にいる甥を見る。
好きなものは、ラーメン。
それが美味しい記憶として残っているのは、単に味が美味しかったからではないことを私はすでに知っている。
小さかった弟の顔にそっくりな笑顔を見て、ああ、親子だ、と妙に感慨深くなって、そしてそれがとても愛おしかった。
毎日新聞社賞
- もったいないキャンペーングッズ
来年八十歳の傘寿を向かえるこの歳になっても忘れる事の出来ない、母から届いた一枚のハガキがあります。
その中の一枚なのですが、今でも脳裏に焼き付いている言葉があるのです。
「大学卒業、ありがとう」
「大学卒業おめでとう」ではなく「大学卒業ありがとう」なのです。
それにハガキの一カ所文字がにじんでいました。
母の涙だと直ぐに解りました。
私が中学三年生の時だったのです。
大企業の誘致と並行して港着工工事を進めていたのが急に具体的になり工事が始まりました。二本の川が合流して海に注ぐ河口を掘り下げ港とし、その土砂で農地を埋め立て広大な土地に企業誘致に成功したのでした。
農地の買収に応じた農家の子供は優先的に採用される仕組みがあり、両親はその話に乗ったのです。
中学卒業の二年後、私が高校に行きたいと両親に相談しまたところ、母親は二つ返事で賛成してくれました。中卒で就職させた責任をいつまでも引きずっている様でした。
地元の高校には二年遅れて入学するのには抵抗があり単身東京の高校を探し入学しました。
二年間の遅れを取り戻すため必死に勉強した高校時代を過ごしたのです。
大学に合格すると母親は本当に喜んでくれました。
学生時代は社会悪との対決など弱者の味方でありたいと思う様になりました。
卒業式の後アパートに帰ると一枚のハガキがポストにありました。
母親からのハガキです。
体をきずかう文章の最後に、「大学卒業ありがとう」と書いてあって、一部が母親の涙でにじんでいました。
この言葉で母親の肩の荷が降りたのだと思うと、目頭が熱くなりました。
母親のしわくちゃな笑顔が浮かんできました。
同時に身が引き締まる思いもありました。
「大学卒業ありがとう」
これに勝る言葉を今まで聞いた事がありません。
大切な一枚のハガキは一生の宝物です。
母の名前を書く。
箸や茶碗や歯ブラシや衣服や、母の持ち物ひとつひとつ、一着一着に母の名前を書く。
心を込めて書く。
丁寧に、はっきりとした字で書く。
書きもれがないよう、読み難い字になっていないかどうか、注意深く見直しながら書く。
重度の認知症になってしまった八十九才の母は、しばらく精神科の病院に入院していたが、もうこれ以上の改善は見込めないので退院し、専門の施設に移ることになった。寂しがりで怖がりの母。長いこと一緒に暮らしてきた仲良しの父を喪い、これからは施設の個室で、独りぼっちで毎日を過ごす。
最近よく言われる人生100年とは、こういうことなのだろうか。
医療技術や医療品、インフラや社会の機能が発達して、確かに人の寿命は延びた。
その結果、人は一生のなかで昔の人が見ることのできなかった光景を目にできるようになった。例えば孫や、ひ孫の成長や、想像を超えた科学の発達の現場などだ。
なるほど素晴らしい。
だが、その裏側には本人の思ってもみない苦しみや家族の悩みが多く置き去りにされていることを、母の問題に直面した私自身が今、感じている。
その昔、私が小学校に入学するとき、母は私の持ち物すべてに私の名前を書いてくれた。
上履きと草履袋、算数セットの時計や足し算引き算カードの一枚一枚に、そして筆箱に入っている鉛筆は頭の塗料を削った小さなスペースに。
きっと、色んな願いを込めて書いたのだろう。
私は母の願いに応えられたのだろうか。
そのことを思い出しながら、今度は息子の私が母の名前を書く。
ありがとう。もう何も心配することはないんだ。そう呟きながら。
ある日突然、妻がケガで入院することになった。
結婚して初めてのことだ。
娘には生まれつきの障害があり、成人した今でも言葉を発することが出来ない。
そんな娘を育ててきた妻がいなくなる。
娘は果たして平常心でいられるだろうか、そして作ったごはんをちゃんと食べてくれるだろうか、私はそれが心配でならなかった。
娘は特別支援学校を卒業して、今は施設に通っている。
施設との間に連絡ノートというのがあり、それによると娘は普段と変わりなく過ごしているようだ。それは帰宅してからも同じだった。
特に取り乱すような態度をすることはなく、何より作ったごはんを一つ残らず食べてくれた。
私の心配は杞憂だったのか。
しかし何度か気になる光景を目撃する。
娘が突然、涙を流すことがあったのだ。
声を出して泣くわけではない。
涙はすぐに止まった。それでもやはり淋しかったのだ。
今まで一日もそばにいなかったことのない人が突然いなくなって、淋しくないはずがない。
いつ帰ってくるのだろうという不安もあったはずだ。
それでもいつもと変わりなく過ごしてくれたのは、娘なりにこの状況を理解していたからに違いない。
「お母さんがいないからお父さんがごはんを作ってくれている。だから私もしっかりしなければ」。
淋しさや不安と必死に闘いながら、きっとそう思っていたのだと思うと、今にも涙が出そうになる。
娘に障害があると解った時、私はショックだった。娘を見るのが辛かった。
しかし人間である以上、誰でも必ず成長する。
そしていつしか親を思いやるまでになってくれたのかと思うと、私は大きな驚きと親としての喜びを禁じ得なかった。
妻が入院していた二ヶ月間、それは娘とのかけがえのない時間となった。
娘はいつも笑顔を絶やさない。
それは家族全員が暖かく見守っていることを解っているからだ。
それに対する感謝の気持ちを忘れなければ、きっと娘なりの幸せな人生を送ってくれると信じている。
親子の日賞
- 親子の日オリジナルグッズ
現在、26歳の息子は、私のことを「精神年齢2歳」だと言う。
外出先で2歳くらいの子供を見つけると「ほら、友達がおるよ」と教えてくれる。
なぜ、私が2歳と言われるようになったのか?
それは息子の教科書に「ゆずる心が芽生えるのが3歳」と書いてあったから。
息子の思春期と私の更年期が同時発動していたあの頃。
息子は、その教科書を心の支えにし、自分の母親は「ゆずる心が芽生えていない2歳」だと言い聞かせていたのだろう。
息子を妊娠したのは、不妊治療、流産を経て、結婚6年目にやっと授かった大切な命だった。
いつからか一人っ子の彼のことを「たくましく育てなければ」と思うようになっていた。
4歳から武道を習わせ、「息子は成長している」と信じていた。
「ボクは、闘うことが嫌だ」と言いだしたのは小学4年生。
無理をさせていたと初めて知った。
その後、武道はやめさせたが、夫に似て繊細な彼のことが理解できなかった。
そして息子は、自分の考えを優先する私のことを「精神年齢2歳」と言うようになった。
彼の相談相手はいつも私の母。
私に相談しても、「そんなこと気にしなくて良い」としか言わないから何の解決にもならない。
「一生、ボクの気持ちは理解できない」と言われ続けてきた。
しかし最近、様子が違う。
私の性格を「うらやましい」と言うようになり、自分の気持ちを打ち明けるようになった。
社会に出て、色々な経験を重ね成長している息子。
「たくましく」と気にしていたあの頃が懐かしく思える。
私は今後も息子から「精神年齢2歳」と言われるであろう。
それで彼の心が軽くなり前を向けるなら最高の褒め言葉である。
私の父には両親がいない。
それをはっきり知ったのは多分小学4.5年生のときで、きっかけは親戚についての友達との話をしていた時だ。
「そういえば自分は父の両親に会ったことがないな」と気づいた。
疑問に思っていた私は家で早速父に聞いた。
「なあなあ、父ちゃんの親はどこにおるん?」
少しわくわくしながら聞くと、予想外の答えが帰ってきた。
父はさらっと「あぁ、俺の親は物心がついた時にはおらんやんだよ。」と言った。
その後に続けて「やからなぁ、他にもいっぱいそういう子供がおった施設で暮らしとったんやで。」
私は「へぇー」となんともいえない返しをしていたけど、内心思考が止まるくらいにはびっくりした。
そんな出来事から時が経つにつれて日常生活の中でも時々その頃の生活について話してくれるようになった。
何かしらの事で私や兄が無茶なわがままや駄々をこねると、当時の父の苦労した体験談を話し、「お前らはな、当たり前に塾に行けたり、欲しいものを買えたり、行きたい学校に行ったり出来とるやろ、俺の時には考えれやんだものや、今ある当たり前に一つ一つ感謝して生きるんや。」と言った。こんな風に昔からちょっとずつ語られてきた話は、私の生活の中にある当たり前はありがたい物なんだと感じさせてくれる。それに、こんな話をして日々のありがたさを教えてくれた父にも感謝しないといけないなと思う。
私の父は細かい所に気が回る。
いつもは大雑把な性格だけど、母の荷物は必ず持つし、家族がしにくそうにしている事は父が率先して行く。父は家族思い。寂しそうにしているペットの鳥をよくかまってあげるし、休みが週に一回あるかないかでも行きたい所が有れば何も言わず連れて行ってくれる。
施設で育った父はお手本となる父を見ることが無かったかもしれない。だけど私は父を最高の父だと思うし心から尊敬する。
高校2年(昭和28年)の時、父は55歳の定年を迎えた。
そして、大学進学を目指して励んでいた兄へ進学をあきらめてくれと言いわたした。
兄は寂しそうであった。
仲の良い同期生の多くが進学するのになぜ俺だけが進学できないのかと、父に詰め寄っていた。父は兄の言葉を無言で聞いていた。
兄の卒業式には母が出席した。
いつも地味な服装をしていたが償いの意味もこめていたのか、きりりと覚悟の帯をしめていた。玄関を出る正装の母は今までしたこともない薄い化粧をしていた。
進学出来ない息子の姿を瞼に残しておきたかったのであろう。
母と兄が帰宅した後も家では卒業の喜びよりも寂しい雰囲気が漂っていた。
庭のウメだけがひっそりと咲いていた。
当時の父や母の年齢をはるかに超えた今、兄に進学をさせてやれなかった父母の無念さとやりきれなさがよく分かる。
兄よりも進学させてやれなかった両親の方が辛かったに違いない。
明治生まれの父母は一切言い訳をしなかった。
進学資金のため、苦しい生活の中から預金に励んでいたが、戦後の通貨改革と激しいインフレで、反故同然になってしまったという。
そのことを姉から聞いたのは、父母が亡くなった数年後のことである。
就職のため家を出る兄を家族全員で見送った。
父は一言「体に気を付けるんだぞ」と言った。
母は大きな風呂敷の包みを手渡して、「汽車の中で食べなさい」と言った。
夜を徹して作った2段重ねの弁当であった。
兄は「ありがとう。元気で頑張ってくるよ」と言った。
兄の頬に一筋の涙が流れていた。
私たちは姿が見えなくなるまで見送った。
兄は振り返らなかった。
私にとって、父とのつながりは写真だった。
本棚の上に、父が撮った写真が飾ってある。
中東らしき場所で、ターバンを巻いたおじいさんと、その横で孫らしき子供がこちらを見て笑っている写真。私が父の命日にパネル写真にしたものだ。
私の父はフォトジャーナリストという職業で、ニコンのカメラを首からぶら下げ、世界中の虐げられた人たちを撮り続けた。
父と遊んだり、家族で何かをしたという記憶はあまりない。家にはたまにしか帰ってこなかったし、ドアを開けるなり、現像用の暗室に直行することも多かった。
一度、その暗室を開けたことがあった。
「光が入ると、お父さんの写真がダメになるからね」と母から何度も聞かされていた。だから、開けてはいけないことはわかっていたはずだった。
でも、どうしても開けずにはいられなかった。「一体なにをしているんだろう」という幼い好奇心も手伝って、私はそっとドアを開けた。
部屋の中は、うす暗かった。壁に付けられた赤い電球の光を受けて、せわしなく作業をしている父の背中が、ぼうっと浮かび上がっていた。それが、何か不思議な薬を調合している魔法使いのように私の目には映った。
私はドアのすき間から胸を高鳴らせながら、じっと父の背中を見上げ続けていた。父はなかなか私に気付かなかった。それだけ集中していたのだろう。
ようやく私の視線に気付き、目が合った時、父はふっと笑ったのだと思う。
くわえ煙草の口角が、ぐっと持ち上がって、目じりに深いしわが寄ったその表情を覚えている。そして、手招きして私を部屋の中に入れてくれた。その赤いランプの世界で、私は父の背中をずっと眺めていた。
時々、本棚の上の写真をながめて、父のことを思い出す。私にとって父はその時のイメージのままだ。不思議な色の部屋で、薬を作っている魔法使い。
父はもうこの世にはいない。しかし、私の記憶の暗室の中、私を見ながら、ふっと笑ってくれている。
「おはようのタッチ!」
私が差し出した手に、息子は満面の笑みで自分の手を合わせる。
これが私達の1日の始まり。
端から見たら別にどうでもいい姿かもしれない。
でも、母親の私からしたら、とってもとっても嬉しい出来事なのである。
現在、息子は生後8ヶ月。
まだ言葉は話せない。
私の言葉をどのぐらい理解しているのかも分からない。
でも、名前を呼ぶと反応するし、気になるものがあったらハイハイで突っ走る。
楽しい時は笑って、不機嫌な時は泣く。
羨ましいぐらいに自分に正直に生きている。
出産して初めて知ったのだが、赤ちゃんの手はグーの状態の時が多い。
成長するにつれて手の存在に気付いて、じっと見たり舐めたりする。
指一本一本を上手に動かせるようになると、近くにあるおもちゃを掴んだり、ベビーサークルの柵を掴んでつかまり立ちにまで発展。
手だけでも沢山の成長を感じる。
自分の手の存在すら分かっていなかった息子が、今は私の言葉に反応して手を合わせてくれる。嬉しさと愛おしさと尊さで胸を締め付けられる。
おはようのタッチはいつからやり始めたか覚えてないが、親子のスキンシップの時間として続けていくつもり。
合わせた手から成長を感じるこの瞬間を大切にしていきたい。
「おはようのタッチ!」
今日も1日が始まる。