親子の日 エッセイコンテスト 2022 入賞作品

開催・応募期間:2022年5月15日〜8月7日

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

  • EPOS H3PRO Hybrid ワイヤレス密閉型ゲーミングヘッドセット

「将来の夢はブタ」
こんな文集の1ページを今も時々思い出す。
あれは小学校卒業前。
『花屋』と書いたはずの夢がなぜか『ブタ』に書き換えられていた。
こんなことを一体誰が。
もし母が見たら泣いて先生に訴えるかもしれない。一心不乱に犯人探しをするかもしれない。私はしばし悩み、悩んだ末に文集を持ち帰るのをやめた。
しかし、その状況を母はすぐに察知した。
何せ好物のカレーをほとんど残すもんだからおかしくないわけがない。
私がしぶしぶ白状すると母はすぐに担任の先生に連絡した。
翌日全員分の文集が回収され、これをどうするかの検討がなされた。
再版は不可能。
回収した文集に手を加えるしか術はない。
そんな中、母が「つけ足してもいいですか」と言い出した。
「つけ足すって何を」
周囲はそう言いたそうな表情。
担任の先生がペンを差し出すと母はすぐさま何かを書き足した。
『ブタイジョユウ』
ブタ、がブタイジョヨウ、に。
母は私への誹謗を希望にかえた。
「この子は歌も踊りも一級品なんです。舞台で輝くこと間違いありません」
母はちょっとはにかんだ。
私も嫌じゃなかった。
確かに『ブタ』と言われたら傷つく。でも『ブタイジョユウ』なら嫌じゃない。どんな容姿でも輝ける可能性があるのなら。母がそれを認めてくれるなら。舞台女優を目指すのも悪くない。
そう思えた。
あれから劇団員の道を歩み、ちいさな舞台に何度も立った。
『食いしん坊』を演じることもあれば『ぽっちゃりマダム』の時も。
それでも輝き続けられたのは母のまなざしというスポットライトがあったから。
私を信じてくれた母のおかげだ。
とはいえそんな母もまもなく百寿。今は認知症で私のことも『ジョー(兄の名前)』と間違える。それでもいいと今は思う。
ブタが舞台女優になれたように、ジョーはジョークにして笑い飛ばせるはず。
母の笑顔がそう思わせる。

オーティコンみみとも賞

  • EPOS GSP 601 密閉型ゲーミングヘッドセット

「お前の母さん、いつも着物着ててきれいだったよなぁ」田舎の小中学校の同窓会で男子が口を揃えて言う。
「着物じゃないよ。モンペだよ。」私は心の中で呟いた。
もう六十年前になる。
今、秘境駅一番になった北海道の小幌で私は生まれ、小学校へは隣村の礼文へ汽車で通った。四人姉兄の末っ子で親子六人、貧しいながらもそれを感じる事なく幸せな日々だった。
母との一番の思い出は小学一年生の初めての参観日だ。
沢山のお母さん達が少し着飾って教室の後ろは少しザワついていた。
その中にひときわ小柄な上下モンペ姿の母もいた。
農家の豊ちゃんに今日も「おばさん」と呼ばれていた若く声の大きい先生が教室に入ってきた。
授業は算数だったと思う。
美智子ちゃんのお母さんは美智子ちゃんの次に私のノートを覗きに来た。そして国鉄官舎の小島君のお母さんが子供の机につきっきりで「これはこうで」とじっくり教え始めたのだ。するとそれを合図にそれぞれのお母さんも我が子の所につきっきりになった。
自由な雰囲気の中、先生もただ見守るだけだった。
私の席は一番後ろ。
だがいくら待っても母は来ない。
たまらず後ろを振り返ると壁を背にした母は静かに微笑んでいた。
窓から差し込む暖かい日差がスポットライトのように母を照らしていた。口紅だけの化粧とよそ行き用の真新しい上下のモンペの紺色が母を美しくさせていた。
家に帰って母の膝枕で耳掃除をしてもらった。
「今日母さんだけ来なかったけど、どうして?」まったりした時間の中、素直な質問をした。
「陽子は母さんが教えなくてもわかるでしょ?」想定外の答えに返す言葉がなかったがうれしかった。と同時に、回りに流される事なくたった一人で後ろで立っていた母が誇らしかった。
母が亡くなって四十年。
今も母を思い出す時、あの教室の母が浮かんでくる。
まるで映画のワンシーンのように。

「かか、にんにん。」「あ。」
娘は物心つく前から私のお目付け役だ。
ASDという障がいを持つ私は、物事を同時進行したり、優先順位を付けて効率よくこなしたりするのが苦手だ。
それに、よく「うっかり」するので、新品のリップクリームは山のようにたまるし、忘れ物・遅刻も常習犯だ。
私の失敗を未然に防ぐのは、いつも側に居る娘。
切ったまま放置されたにんじんがあれば声をかけ、つけっぱなしの電源を切って歩き、お願い事は一つずつ伝える。効率や準備が悪く、時間がかかっても、焦る私に構わずマイペースに一人で遊んで、急がず待つ。
誰が教えたわけでもないのに、娘は私との付き合い方をよく知っていた。
しかし、いつでも都合よく助けてくれるわけではない。機嫌が悪い日や疲れている時は、はっきりと「イヤ」と言うし、駄々をこねる。
2人してパニックになって、人目も憚らず一緒に大泣きしたことだって山ほどある。
だが、良くも悪くも、私が障がい者であることを気にしていない娘は、私の失敗談をいいネタだと思っているようで、よく笑い話として発表してる。
一年生になった今では、作文にまで書いている。
恥ずかしくないかと聞かれるが、変な母との生活を「普通」として受け入れてくれているらしい姿に、私は大いに救われている。
「親は子の手をひくもの」という常識は、我が家では通用しない。
それはもしかしたら恥ずかしいことなのかもしれない。親としての自信を失う瞬間は、今まで何度もあった。しかし、そのたび、娘は笑いかけてくれた。
『できなくてもいいんだよ、わたしがたすけてあげるから(つかれてなければ)。しっぱいしてもいいんだよ、わらいとばしてあげるから。』お手紙や作文の中の娘は、いつも私を励ましてくれる。
お互い、手を引けない時もある。
でもいつだって、手を取り合って笑い合う。
それが私たちの親子の形だ。

何かあるとすぐヘッドホンをつける父。
それも無理はない。うちは六人きょうだいで毎日が揉め事の連続。お替りの唐揚げをめぐって取っ組み合いになることもあるし、お下がりは嫌だと号泣したこともあった。
大抵母がカミナリを落とし事態は収まるが、そんな時父は決まってヘッドホンをつけた。
何だかまるで「うるさい」と言わんばかりの表情。
子どもながらに少し冷たく感じた。
そんな父に余命宣告が下っていたことを知ったのはすでに亡くなる直前だった。
「なんで言ってくれなかったの」
「親父、なんで」
「どうしてよ、お父さん」
私たちは慌てふためいて、動揺した末に、父に怒りをぶつけた。
「迷惑をかけたくなかったから」
最初はそう答えていた父も、次第に面倒くさくなったのだろう。最後はヘッドホンをつけてそっぽを向いた。
「ねえ、お願いだから生きてよ」
「死んだら恨むからね」
口々に漏れる悲痛な声。
それでも父は黙ったまま、そっぽを向いたまま音楽を聞き続けた。
そんな父の四十九日のあと遺品を整理していると、あのヘッドホンが見つかった。
よく見るとケーブルが切れている。
「お父さん、あなた達のこと、全部聴いてたのよ」
母が懐かしむように言った。
聞けば父はあの日私たちが帰宅したあと、緩和ケアでなく延命をしたいと言い出したらしい。つまり父は私たちの思いを叶えようとした。
かつてランドセルのお下がりが嫌だと泣いた時も父はこっそりローンを組んで新品を買ってくれた。聴こえないふりをして本当は誰よりも私たちの声を聴いていた。
「なんだよ。こんな壊れたヘッドホンなんかしやがって」
兄が悔しそうにボロボロのケーブルに目をやった。
私も言葉がない。だけど父を思うと心がじんわり温かくなった。
本当は生きたかったはず。
みんなとこれからも。
きっと、今だって、本当は。
「お父さん、ありがとう」
最後はこみ上げる涙をヘッドホンが受け止めた。
泣け、と言わんばかりに。

毎日新聞社賞

  • MOTTAINAIキャンペーングッズ

私の名はサチコ、幼い頃から母にサッチャンと呼ばれてきた。だが90歳で思い認知症となった母は呂律も回らず、サッチャンとはもう呼べず、今は私をサーチャンとやっと呼ぶ。若き日の母は気丈で頑張り屋、「サッチャン、ご飯よ」「サッチャン、ワンピース縫ったから着てみて」「サッチャンそこ空いたよ」と電車の席取りまでしてくれる世話焼きで60過ぎまで私はボーッと生きる事ができたのだ。少々甲高い母の「サッチャン」は私に何かしてくれる合図で私は安心してその呼び声を聞いていた。だが80代後半から母の認知症は徐々に進んだ。リウマチの絶えまない痛みに苦しみ遂に寝たきりとなったが「サッチャン、痛い、助けて、お水」などまだ自分の意思を伝える事ができた。だが認知症は90歳を越すと急速に進み遂に一切の言葉を失った。だがたった一つ残った言葉があった。「サーチャン」である。おむつを替えてもらいたい時も腰をもんでもらいたい時も水を飲みたい時も母は「サーチャン」と呼ぶ。
昼間もずっと深夜も目ざめると「サーチャン、サーチャン」と何十回も呼び続ける。いいかげんうんざりしてほおっておくと弱々しくサーチャンと呟きいつの間にか寝入っている。
やせ細り小さくなった母を見ていると、いつも気弱だった私を叱咤激励してくれた若き日を思い出す。「サッチャン」と強く呼ばれると私は「しっかりガンバレ」と鼓舞される様な気がして元気が出たものだ。
今は一日に100回は呼ばれる「サーチャン」は私に助けを求める唯一の言葉だ。
私を育み成長させ愛を注いでくれた「サッチャン」。今の「サーチャン」は私に何とかしてほしいと訴えている。
母の頭の中残った唯一の言葉の意味や思いを汲みとりながら、私は今日も愛ある介護に取りくみたいと念じている。

夜,ベッドの中でスマホを見る。ニュースやSNSを見ていると,いよいよ眠気に負けて指がすべる。ああ,今日もこのまま寝入ってしまうのか,そんな心地よい時間帯に,階下で静かに足音が動き出す。そう,息子の起きてくる時間である。
我が家の息子は,いわゆる不登校であり,引きこもりである。夜起きてゲームをし,朝になると寝てしまう,そんな生活を続けている。したがって,ほとんど会話がない。
そして私はまたSNSに目をやる。見ているのは同じ境遇の不登校の本人や親のつぶやきだ。どこを間違ったのか自分を責めたり,励ましてみたり,「学校行けば」「この先どうするの」と訊いてみたり,きょうだいにまで伝染してみたり…。うちも全部やった。全部いつか通ってきた道だ。そして今,まあええんちゃう?なるようにしかならん,の境地である。
それでも,息子の将来に不安がないわけではない。ほとんど時間的な接点がない中で,短い言葉で効果的に伝えられるように言葉を練り,選び,社会との接点を持つことを促しているが,そのような言葉で結果が出るとは考えていない。むしろもう一つ大事にしているのは,親がどれだけ楽しんで生きているか,その姿を見せることだ。「背中を見せる」といった,昭和臭が漂い,ともすればパワハラ的なニュアンスも含むような方法ではなく,とにかく親が,生きることを楽しんでいる,いろんなところに出かけ,新しいことにチャレンジし,毎日の帰り道の寄り道にわくわくし,自分で選択し,思いっきり楽しむことを目指している。
どうやら息子は,意味のあることだけを選択し,メリットのある決定をしようとしているため,人生の意味を見極められず,選択も決定もできなくなっているようだ。
人生に意味を考えるのは死ぬときでいい,先に意味を考えることなんて無意味だ。それを押しつけではなく,先人の知恵として感じてもらえるよう,思いっきりナンセンスに生きたいと思っている。

うちの母は、おしゃべりが好きだ。
一方、父は無口で、いつも話を「うんうん」と聞いているだけだった。
先日、父が急死し、母と私は会社から二か月ほど休みをもらった。深い悲しみの中にいても、母のマシンガントークは続いた。「ようしゃべるなぁ」と感心すると、「お母さんがしゃべらんようになったら病気や」とすぐ返事があった。
「お天気悪いなぁ」「今日おやつ何食べよ」といつもの会話をしつつも、「お父さん、先に逝ってしまったなぁ…」と寂しそうにするのが心配だった。
休みの間に、母を予防接種に連れていく機会があった。
車で送り、終わるまでは、駐車場で待たせてもらった。
待ち時間には、自然と父のことを思い出していた。
私も同じ予防接種を受けたことがあったのだが、「貧血ぎみやし、倒れたら困るから」と父が運転して病院へ送ってくれたのだ。
注射の痛みを何とかこらえながら車に戻ると、父が「痛いか」と聞いてきた。私はこらえきれず、「痛い!」とわめいてしまった。
「ちょっとみっともなかったな」。そんなことを考えていると、母が戻ってきた。
車に乗り込むと、早速、友達ができたという話が始まった。
同じ予防接種を受けた六十代の女性と、意気投合したという。ふさぎがちになっていたが、新しい出会いに喜ぶ母に、私もうれしくなった。
「で、痛い?」と聞くと、母は「痛い!」とわめいた。
なんだかデジャヴだった。
そういえば、父がよく言っていた。
「話し方、どんどんお母さんに似てきてるわ」と。
私も、あんなマシンガントークをするようになるのかな。
母のようなおばちゃんが二人並ぶところを想像すると、ふふっと笑えた。

CHOYA賞

  • Gold Edition 1名 (20歳以上の方限定)
  • The CHOYA Gift Edition(The CHOYA1年+3年のセット)1名 (20歳以上の方限定)
  • 梅しぼり 1名 (1ケース/125ml紙容器30本入り)

自分が親になってから気づく。
たくさんの奇跡に守られて今まで生きてきたことに。
例えば事件、事故にあわないこと。
世の中では毎日センセーショナルな事件や事故があり、私はたまたまそれらに巻き込まれてこなかった。
例えば、食事。
一人で住むようになって、今までどれだけ考えながら作ってきた人が周りにいたか気づく。自分一人ではお金があっても作れなかったから。
例えば教養。
充分な勉強をする時間。
それはあたりまえではなく、時間もお金がないと確保できない。塾や参考書でたくさんの教養を手に入れる。お金は必要だ。
そう、奇跡という名の親の保護だ。
私達が無事大きくなっていくために、親がどれだけ努力したかは、子供の時は気づかない。少しずつ大きくなっていく上で実はあんなこともこんなこともできない、もどかしい自分に気づく。そしてそれは自分が親になるともっと知ることになる。
自分の幸せを少し横においといて、「この子が‥‥。」と考え始めています。うまくいかないことも、腹がたつことも全て、よかったと思える記憶にいつかなるのでしょう。だから思います。
今度、顔 をあわせた時は感謝の言葉を伝えようと。
「おかん、子育てはむずかしいわ。だから今までほんとありがと。」と。
多分私が泣くでしょう。

八畳の和室には、たくさんの物が溢れていた。
洋服、下着、タオル、コップの類…。
そのすべてに記名を始めた。
明日は、両親が揃って老人ホームに入所する。
施設から渡されたリストに沿って、二人分の持ち物を用意し、全てに記名する作業は、思いのほか大変だ。
こんな経験は、いつ以来だろう。
娘の保育園や小学校入学時の準備以来かもしれない。
算数セットの記名に気が遠くなったのを思い出した。
けれど、入学準備には、これからの明るい未来が想像できる。
この筆箱や鉛筆を使っての楽しい学校生活を思い浮かべ、大変な作業にも心が躍る感じがした。
記名自体は、同じ行為だけれど、今日の作業はことのほか、気が重い。
末期の癌を宣告されている父、手足が思うように動かず骨折を繰り返す母。
二人だけでの生活は限界に来ていた。
施設に入れば、二十四時間必要なケアが受けられる。
家事一切から解放されるが、六十年近く暮らした自宅を出て生活をすることに、両親はどんな思いでいるのだろう。
娘として、この選択は良かったのか、他に方法は無かったのか、何度も自問自答する。
今は、この選択がベターだと信じよう。
施設の生活に慣れるまでに、大変なこともあるかもしれないが、きっと身体や精神面で良かったと思うこともあるはずだ。
娘として、せめて明日からの生活がより良いものになるように、不自由な思いをしないように準備をしよう。
五十余年前、鉛筆一本一本にナイフで切り込みを入れ て名前を書いてくれた父。
私や兄の持ち物一つひとつに、丁寧に名前を記してくれた母。
そのことを思い出しながら、心を込めて記名作業を進めた。
親子とは不思議なものだ。
いつの時点からやってもらっていたことを、やってあげるようになったのだろう。
私が受けた愛を二人に少しずつでもお返ししよう。

「もしもし、お母ちゃん?あのなぁ、俺を産ううんでくれてありがとう」
これは、僕が自分の誕生日に母に電話で伝えたセリフだ。
誕生日というものは、周りの人に祝ってもらう日ではなく、自分を命がけで産んでくれた母親に感謝する日だと聞いたからだ。
これまで50回も誕生日を数えてきたというのに、一度も口にしたことのないセリフだった。

僕は中学校を卒業すると高校の学生寮に入った。卒業すると実家とは離れた会社に就職したので、両親と一緒に暮らしたのは15年間しかない。やがて結婚し、子どもを連れてお盆と正月には、帰省するようになった。遠慮することも気を使うこともない、ごく一般的な親子関係だ。「便りがないのは元気な証拠」といいながら母に電話することもほとんどなかった。
久しぶりの電話で、冒頭のセリフをいって母を感動で泣かせてやろうと思ったが、いざ言おうとすると、なんだか照れくさくていきなり「産ううんでくれて…」と噛んでしまった。
焦った。
こんなはずじゃない。感動させて泣かせる作戦は不発に終わった。妻や子どもがいない部屋でこっそり電話をかけたことがせめてもの救いだった。
電話を受けた母はというと、驚くわけでもなく「誕生日おめでとう。私の方こそ、私のところに生まれてきてくれてありがとう」と優しく返してくれた。
吉田松陰の歌に「親思ふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらん」というものがある。子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深いという意味だ。
母の言葉そのものだと思った。
その言葉に感極まり、不覚にも僕の目から涙がこぼれた。

円谷プロ賞

  • 『ウルトラマントリガー エピソードZ』Blu-ray特装限定版

私には4歳になる息子がいる。
仕事の都合上平日は家にあまりいないので、毎週という訳にはいかないが2~3週に一度週末に息子がやりたい事を思いっきり付き合う日を意識的に設けている。

まず朝起きて彼の好物のワッフルを食べ、好きなアニメを観る。
その後は家にあるありったけの玩具を出してきて電車遊び。
飽きたら公園まで遊びに出かける。公園ではブランコにラジコン、滑り台に鬼ごっことなんでもござれ。
昼は近所にあるおにぎり屋さんまで、おにぎりと鶏の唐揚げを買いに行く。
午後の部は電車の旅だ。
隣町にある大きな駅まで向かい、行き交う電車を散々みた後、帰りに大好きなドーナツを買って帰る。夜ご飯を食べ、お風呂で遊び、今日の感想を聞きながら彼を寝かしつける。
私は常に隣で、彼が飽きるまで遊び相手に徹する。

息子にとって最高の休日だ。
子供の体力は無限だ。よくこんなに遊べるなと感心するくらい。
楽しくて、楽しくてたまらないそんな時、彼は決まってこう聞く。

「まだ、朝?」

昼ごはん食べている最中でも夕方の公園でも、彼はこう聞く。

「ねぇ、まだ朝なの?」

質問をするその目はいたって真面目だ。
時間の感覚もある程度分かっている年頃だが、
楽しい時間がずっと続いてほしい。まだ朝だったらもっと遊べる、
という純粋で、素直な混じりっ気のない気持ちから生まれる、子供ならではの質問だ。

もちろん答えは「NO」なのだが、答えを聞いて残念そうにする顔や、その質問をする顔は愛くるしく、たまらなく親心をくすぐる。

いつの日からか、その質問が来るかどうかが、彼の“楽しみ度合”を測るバロメーターになっており、その言葉を聞きたく親の私も一生懸命に遊んでいる節がある。
いつか聞けなくなるのは分かっているからこそ、今この時期を大切にしたいと思う。

明日は久しぶり予定のない日曜日。
また「まだ、朝?」を聞けるだろうか。

TSUTAYA賞

  • Tポイント1万ポイント

柔らかく愛おしい温度があるのだということを知ったのは、一昨年と昨年の真冬だった。
一昨年の12月、驚くほど綺麗な朝焼けの赤が窓から差し込んでいた日。
父が急死した。
ちょうど私たちの結婚式2週間後のことで、気持ちの整理もつかないまま全てが駆け足で流れていき、父の葬儀が終わった。
その帰り道、膝にすっぽり収まるほど小さくなってしまった父の遺骨を両手に抱えながら、車の中から外をぼんやり眺めていた。
まだ残っている温かさと、じわじわと沈み込む程よい重みが、膝から体全体にゆっくりと伝わって、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこしたらこんな感じなんだろうなぁと思った。
直前まで喧嘩ばかりしていた父だったのに、優しくて愛おしい気持ちが湧いてきて、悲しいはずなのに温かなひと時だった。きっと人はその命の役割を終えた時、生まれた時の姿に戻るのかもしれない。そんなことを感じた。

お腹に新しい命が宿っているとわかったのは、その半年後のことだった。
父が空へ旅立ったその次の真冬。
真っ青で透き通った空が綺麗だった日、第一子の男の子を出産した。
初めてその小さなふわふわを抱っこした時に身体中を包んだ愛おしい温もり。

一歳半になった息子のおーちゃんは、いつも楽しそうににこにこ笑っている。
不思議だけれど、会ったことのない父の写真を見て「じいじ」と指を指している。
「きっと2人はお空で会っていたんだよね。みんなが悲しくないように、お父さんがおーちゃんに、あのお母さんの赤ちゃんになってあげてってお話してたんだと思う」
おーちゃんを眺めながら夫がそう言った。
胸に駆けてきてくれる息子をぎゅうっと抱きしめるたびに感じる愛おしい温度。
あの時赤ちゃんに戻って膝に乗っていた父の温度を時々思い出す。

祭エンジン賞

  • 伊勢海老/「日和佐八幡神社の秋まつり」のある徳島県美波町の海から 1kg(サイズ選択不可・傷物含む)

何年か前のお正月、実家に帰省もしないから家族で何かお正月らしいことを一つくらいはしなくちゃと、元旦は早起きして家族三人でお雑煮だけ食べて明治神宮に初詣に出かけた。その帰り、普段よりぐっと人の少ない表参道を歩いていたら、急に夫が息子を肩車して私の前を駆けて行った。
当時夫は病気のせいでいつも苦しそうで不機嫌で、私は彼をどう扱えばいいか分からずにいたし、そんな夫を見るのがつらくて彼の存在を心の中から締め出していた。彼は育児には殆ど参加しなかったし、息子に興味も無いのだと思っていた。だからその日も私は、夫はいてもいなくてもいいや位の気持ちだった。
私達なりの幸せにたどり着くことが出来ますようにと神様に祈った初詣の帰り、いつもとちょっと様子の違う表参道での夫と息子の肩車はやけにキラキラして見えて私は心を震わせた。
「ほら、幸せはもうそこにあるよ」と神様が伝えてくれているみたいだ。
その時、記憶の中の活発で優しかった夫が蘇った。私はその時のことを思い出すと今でも泣いてしまうのだけど、幸せっていうのは目に見える何かを幾つ所有するかで決まるではなく、心が震える瞬間の積み重ねでできているのかもしれないと感じた。
その日から少しずつだけど私は自分のやり方にこだわることを手放し、夫の心のままに息子と関わってもらうようになった。
それが自然で一番いいと思ったからだ。
二人の肩車のあの笑顔に比べたら、夫の病気と闘い自分一人で育児を頑張ってきたんだぞ!という私の意地とかプライドなんて何の意味もなくなっていた。
今息子は小学二年生になり、もう夫が肩車をするにはだいぶ重くなって、男同士の恥ずかしさもあるのか夫には少し反抗的だ。
でも先日息子が私に近づいてきてそっと耳打ちした。
「ぼくね おとうさんのことが だいすきなの」
それを聞いた私は確信した。やっぱり、私の幸せはずっと前からそこにあったのだ。

親子の日賞

  • 「親子の日」スペシャルグッズセット

父と一緒に風呂には入らなくなったのは、いつ頃だったろう。中学生ではもう入らなくなった。第二次性徴を迎えた時期だったから、仕方がないだろう。
思えば、それまでは二人で風呂に入っていた。母は妹と入るから、私は自然父と入った。普段はもの静かな父だったが、風呂では饒舌だった。
「最近どうだい。学校は楽しいのか。」
「友だちはいるんか。どこの友だちだ。」
私も素直だったから、正直に父の質問に答えたものだった。今思うと、口下手な父だったから、何か言わなくてはという思いから声をかけてくれたのかもしれない。
そんな父がある日、小学生の私を釣りに誘ってくれた。いつもなら朝五時に起床し、一人で出かけていくところなのに。面倒だと思ったが、せっかくだからとオーケーした。父はにっこりと笑った。
「明日の朝は早いぞ。早起きしろよ」。
翌朝、私は起きられなかった。母に世話してもらって着替え、車の中で二度寝した。目覚めたら父に叩き起こされ、渓流釣りに出た。寝ぼけ眼で釣り竿を操っていたら、忽ち釣れた。かかったのは大きな魚で、必死に抵抗してきた。それで目が覚めた。
父が私の体を支え、二人で戦った。長い間粘って最終的には糸を切られた。川面に投げ出された私たちはずぶ濡れになって笑った。
帰宅したらもちろん、風呂に入った。
父と一緒だった。
「さっきの魚、ありゃあ岩魚だな。マスだったらあんなに力は強くないからな」。
お互い、獲物を逃したことで共通項が生まれ、距離が縮まったらしい。以来私は父と出かける釣りが楽しみになった。
その父は五年前に他界した。形見の釣り竿は未だ父の部屋にある。「使っていいよ」と母は言うが、使おうにももったいなくて使えないまま置いてある。

 老衰からくる痴呆は、人格の変容をきたす。とりわけ、心を抑え、情を堰き止めて生きてきた、九十六歳の母。
母が口ずさむ。「逢いたさ見たさに、怖さを忘れ、暗い夜道をただ一人。」多くの歳月を生き過ぎたと嘆く声に、僕は何も応えてやれなかった。朝から病棟中に聞えるほどの母の歌声。奇怪な抑揚をもって歌詞を朗読しているような歌声。
生涯の鬱積してきたものが、歌の形を借りて吐き出される。母の唄は普通の歌ばかりではない。心に浮かぶことを次々と奇妙な節づけで歌う。「わたしゃ長生きし過ぎた、わたしゃこの世の穀潰し、あの世じゃ閻魔様の帳汚し。」
母の唄は脈絡を欠いていることが多い。僕はそれを取り合わないふりをする。真剣に母の眼をみると、意志もなく涙が溢れてくる。「海がみえるよ、真赤な海が、古い木の櫛が浮かんでいるよ、毛のちびた歯ブラシが浮かんでいるよ。」
血の色に泡立つ海。
心の闇に沈んでいたものが、今の母に苦しげに浮かびあがってくるのだろうか。
僕は、母が貧しかった暮らしをおおかた知っている。古い鏡台の抽斗にあった椿油に黒ずんだ木の櫛、僅かに毛を残した歯ブラシ、歯みがき粉の代わり使った塩の壜。僕の思いをよそに、母の表情は明るい。母は歌い続ける。明るい病室の光に心を晒す。
母のあずかり知らぬところで歌は生まれるのか。僕はあえて思い込む。母の無口で過ごした生涯に復帰するかのように、歌を作っているのだ。本当は、母は僕だけに聴いてほしいのかもしれない。
「お前を産んだのは私だよ」。
そんな眼で僕を見つめる時がある。
僕は母の痩せた手足を洗う。
真っ白な髪を梳く。
「死んでも親子だよ」。
まだその言葉は出ない。

私の実家は盛岡で小さな印刷屋を営んでいた。店舗は古めかしく、私が通っていた学校の通学路に面していたこともあって、級友からは好奇の眼差しで見られることも少なくなかった。それでも、働く姿を間近で見続けてきた私にとっては、自慢のお店、自慢の両親であることに揺らぎはなかった。

社会人になり、私は親元を離れて仙台の企業に就職した。内勤の事務職のため名刺を使う機会は全くなかったが、ある時東京への出 張が急に決まり、名刺を作らなくてはならなくなったことがある。だが、本当に時間がなく、これから業者に頼んだところで間に合うかは怪しかった。

「急で申し訳ないけど、名刺を作って欲しい」 私がそう言うと、電話の向こうの親父は飄々とした口調で「いいよ」と即答した。その時期は年賀状の印刷で忙しくしているはずだ ったが、ほどなくして「これでどうだ?」というメールが届き、添付されていたPDFファイルには名刺のイメージが数パターンも載せられていた。校正をして、好みのパターンを伝えたところ、その二日後に速達で名刺が二百枚も届いた。
お礼の電話をすると、親父は「足りるか?」と言った。
「正直二十枚くらいでよかった」と伝えると、親父は照れくさそうに笑っていた。

出張が無事に終わってしばらくしてから、母親から電話をもらったことがあった。
「お父さんね、あんたから名刺をお願いされて、すごく嬉しそうにしていたんだよ。仕事が早かったでしょ? いつそんな日が来てもいいように、デザインはずっと前に完成させていたみたい。あんたの名刺を作るのが、お父さんの夢でもあったんだよ。ありがとうね」
それから十年以上が経ち、その間に何度か人事異動があった。
だが、あの時に作ってもらった名刺は大切に残してある。
使う見込みのない名刺が、まだ百八十枚くらい残っている。

昔から、父のことが嫌いだった。
いわゆる「悪い男」だったわけではない。
どんなに体調が悪くても仕事に行き、飲みにもいかずに定時で帰ってくる。
休みの日は黙々と庭仕事をして、学校に遅刻しそうな時には送り迎えもしてくれた。
ただ、如何せん不器用な男だった。
たしかに、外から見れば優しい父親だっただろう。
けれど、私は寡黙な父に不満を抱えていた。
自分から話しかけてくることはほとんどなく、無言で黙々と食べるだけの父が本当に嫌だった。
そして極めつけは成人式の日。
朝4時から着物をきて、式の時間を待っていた私に対して父が言った言葉は、「きつそうだね」。
綺麗だねなんて照れくさくて言えないのなら、娘の晴れ姿をカメラにおさめるくらいのことはしてほしかった。
それからは父のことを避けて生きてきた。
だから、人生の分岐点で父に相談をすることはなかった。
大学を卒業して就職をし、会社を辞めて起業した。
20代前半での独立、それは20年ちょっとの経験では想像することもできないほど大変で、お金に困って空腹と自分の情けなさに打ちひしがれて泣き明かした日もあった。
けれど、父に相談することは思い浮かばなかった。父はどうせ私のことなんてどうでもいいのだから。
そうして迎えた25歳の誕生日。
もうすぐ1日が終わろうとしている夜に一通のLINEが届いた。
「誕生日おめでとう。大丈夫か?」と、父からの連絡だった。
不器用な父からのそっけない短文。
それでも、父とのこれまでの会話の中で、一番嬉しい言葉だった。
私はいつの間にか、勝手に父を嫌っていた。
だから、父みたいな人とは結婚したくないと言っていた。
しかし、28歳になった今年、父によく似た人と結婚する。
不器用な男2人が、笑いながら酒を酌み交わす食卓。
「これがずっと続けばいいのに。」私が心で願うこの言葉は、次に会った時には言葉に出して伝えることにしようと思っている。

久しぶりに母とランチを食べに出かけた日のことだった。人の多いレストラン街の中にて、わたしの少し前を歩く母。
ふいに母は、まるでリレーでバトンを受け取る人のように前を向いたまま、手の平を上に向け、ひらひらと動かした。
何をしているんだろう、一瞬首をひねったが、わたしは強烈な懐かしさとともに、タイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
わたしは好奇心旺盛で、周りの何にでも興味を示す子どもだった。どこかへお出かけすると、勝手に走り出しさえしないものの、周りへの興味が尽きず、あちこちきょろきょろ眺めてばかりだった。そこで、母はわたしが迷子にならないように「こっちこっち」と言わんばかりに 前を向きながら、手をひらひらと動かすのだった。
わたしは、そんな母の手が見えると、泳ぐ金魚を捕まえるがごとく、母の手を捕まえに行き、つないでいた。
目の前のその手が見えるところにいれば、迷わない。ひらひら泳ぐ手は、いわば目印のようでどこか安心感を覚えていたことをかすかに記憶している。
でも、わたしはとっくに手をつないでもらうような年じゃないのにな。
おかしくなって、笑いながら「もう、子どもじゃないのに。」と声をかけた。
けれど、母は「え?」と、驚いたような顔をする。
どうやら無意識だったようだ。
何年もそうしてきて、染み付いた行動なんだろう。
母にとっては頼りない小さかったわたしが、まだ心のどこかに住み着いているのかもしれない。
20年近く前のことにも関わらず、とっさにその手の意味が分かったわたしも、また心のどこかに、幼き日のわたしを宿して大人になったようだ。
いつかわたしにも子どもが出来たら母がそうしてきたように、「こっちだよ!」って手の平をひらひらと泳がす日が来るのかもしれない。
そのときは「おばあちゃん」の話をしてあげようと思う。

– 海外 –

ブルース・オズボーン賞

The first time I learned I would not be with my family forever, I cried. I was six. It was mother’s day, and the song we sang that day was about leaving home. The idea of being alone scared me.
With time, I came to realize that change was inevitable. Not only did children leave, but also parents, siblings, grandparents. Sometimes willingly, sometimes not. However, in a sense, families are forever. Even if people leave, something remains with you. Further than memories, what stays with you are little things. Lessons, feelings, ways of thinking; invaluable gifts that are a memento of people important to us.
It is thanks to my family that I am who I am today.
My older sister, who taught me family could also mean friendship. Being siblings does not mean constant rivalry, instead it is a bond filled with chatting, philosophizing and endless laughter. She taught me that books were powerful and entertaining; the constant presence of her books around me made me interested in picking one. It was a compelling experience that would change my world forever. The continuous sound of her Japanese tv series made me intrigued in the language they spoke.
My dad, who taught me comfort and discipline. I would do my best in school and come home to show him my results. His proud smile would make all the effort feel worth it. Strict and comforting at the same time. He would come home from work at night, and I would lay my head on his lap while he patted my head. It was in those moments when I felt the safest. He was, and is, a constant reminder of what a safe place feels like. For me, that place is my father’s arms.
And finally, my mother. There aren’t enough words nor paper to write my gratitude for her. She taught me to believe in myself when I couldn’t. “I would like to learn Japanese but I don’t think I’m capable,” I said to her one day. “Why don’t you try it?” She told me. “I would love to help indigenous people around the world but maybe in another life, I don’t think I can in this one,” I commented when writing my career proposal. “Why not in this life?” She answered. And here I am, with a N1 JLPT certificate, applying to an anthropology major in a Japanese public university. “Don’t leave things incomplete” was her motto. If it weren’t for her, I would have left my dreams to be only that: dreams. Instead, she taught me that aspirations could become reality. It is not “I would like” but “I will.”
I am nineteen, and I am still scared of being alone. But all I need to do is remember their lessons, smiles and the love they gave me to realize I will always have my family with me.
We are walking legacies; a collage of mementos from our loved ones.

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