親子の日 エッセイコンテスト 2024 入賞作品

開催・応募期間:2024年5月1日〜8月31日

親子の日特別賞

  • カオハガンキルトラグと写真絵本「たいせつなもの」

趣味で作詞を始めて、当時あった作詞のネットに投稿し出した頃、娘は幼稚園の年長さんになっていた。僕が描いた演歌や流行歌を買ってに曲をつけて歌っていた。

そんなある日、「パパ、お歌作ったよ。パパ、歌うから聞いててね」と言ってきた。

「歌って!パパ、それをノートに書いていくから。」と返事をすると、歌いだした。

『ままのおなかにいるときね
いつもまま がんばれがんばれって
ままのおなか ぬくかった
ありがとうまま
ままのおなかにいるときね
いつもぱぱ がんばれがんばれって
ぱぱのこえ おおきかった
うるさいよぱぱ』

娘は、何度も何度も笑いながら歌ってくれた。不思議なことに、毎回曲は違うのに詞は変わってなかった。

パパのことまで歌にしてくれてるのが、嬉しくて涙が出てきたことを今でもさっきのことのように覚えている。そして、その夜、娘の寝顔を見ながら、返答の歌を描いた。

『君を初めて抱いた時
パパはワンワン泣きました
パパにそっくり可哀そう
少しはママに似てほしかった
パパはワンワン泣きました
ホントはホントは嬉しくて
パパにそっくりが嬉しくて
パパと君の物語
ママになは内緒の物語

君に名前を付けた日に
パパは一人で月見てた
パパはワンワン泣きました
・・・・・・・・・・・・・』

気が付いたら四番まで描いていた。

光陰矢の如し、あれから二十五年、四半世紀が過ぎた。もう忘れているだろうな。

DAC賞

  • Fruity Weekend ジュースセット

私は母の後ろ姿を見たことが無い。
私のためを思ってなにかしてくれるときは正面。
家族のことを考えているときは横顔。
母が見せる姿は決まってこの二種類だった。

母が、母自身のことだけを考えて、勝手気ままに振る舞っているところを見たことが無い。それは、うちが母子家庭だったからなのか。
私が物心付く前に、母は離婚していた。
経済的状況に加え、そのような結果になってしまったという負い目が、いつも彼女の心にブレーキをかけていたように思う。

私が高校生のとき、同居する祖父が脳梗塞になって、自宅介護が始まった。
祖母が対応できることは限られていた。
約10年後に祖父が亡くなるまで、母が旅行に行くことはできなかった。
年に1回出向けるかどうかという友人との大切な会合の日も、夜10時には必ず帰ってきた。
そして、毎朝5時には起きていた。

私のお弁当を作るために、そして、祖父の介護をするために。
いつも登校ギリギリに起きる私は、母の後ろ姿を見たことが無い。
机に置かれたお弁当を掴み、「おはよう。」と言って出ていくだけ。
私が産まれてからこれまで、母はずっと、誰かのことを考えながら、生きてきた。
そんな母に、私は甘えて、生きてきた。

迷惑をかけないようにと意識してこそいたが、自由気ままに人生を歩んできた。
これからは、母が気ままに生きる手助けをしていきたい。
母が、私のことや、周囲の人間のことなど忘れて、少女のような足取りでどこかに駆け出す姿。
そんな後ろ姿を目に焼き付けられるように。
他者に対して尽くす姿勢。
それこそが、私には見せなかったその背中で、母が語ってきたことなのだろうから。

CHOYA賞

  • Gold Edition

父は53歳で胃癌で他界した。僕が17歳の夏だったからもう半世紀以上前のことになる。勤めていた鉄道会社を50歳前に人間関係のもつれで退職し、義兄の紹介で電力会社の集金の仕事に就くことができた。
もともと生真面目な性格だったので、性に合ったらしい。

ある時、夕食を食べ終わった後、「ほら、こんなものをあるぞ」と卓袱台に一枚の大きな硬貨をのせた。
「すごい、オリンピックの1000円銀貨じゃない」
母親が驚くと「集金先のお婆さんが、今千円札がないからと、これをくれたんだ」という。すぐに自分の千円札と交換して、この記念硬貨を家族のために持ち帰ったのだと分かった。
「それって、お婆さんの宝物だったんじゃない」と姉が言う。
「きっと後で家族の人に怒られたよ」と母。
父の顔色が変わった。みんなが喜ぶと思っていたのに、自分が責められている気になったのだろう。茶の間の雰囲気が重たくなった。
小学生だった僕だけが、それを裏返したり蛍光灯の光に当てたりしてはしゃいでいた。

「それなら、明日返してくるよ」と父は1000円銀貨を財布の中にしまった。
寂しそうな横顔だった。
遠い記憶であるが、オリンピックの開催が近づくと、あの日の出来事を思い出す。
僕はとっくに父が他界した年齢を超えてしまったが、家庭を持ち子供が生まれ、家族で囲む団欒の幸せを知った。
あの時の父の気持ちが痛いほどわかる。
みんなの笑顔が見たかったんだなと。

CHOYA賞

  • The CHOYA Gift Edition

その日は長男の12回目の誕生日だった。
会社を定時に終え家族の待つ家へ急いだ。
長男のリクエストのプレゼントは既に用意してある。
しかし折角の誕生日当日に手ぶらで帰宅と言うのもどうもドラマチックでないと言う事で家の近くの本屋で追加プレゼントを物色する事にした。

長男が好きなモンスターが成長していくゲーム関連本に目星をつけて店内をうろうろと歩いた。すると棚の向こうから長男の名前が聞こえた。長男の名前は学年内では重複はしない、ある意味少し変わった呼び名だった。なので、その声は確実に長男を意図したものだった。私はその声の先を覗き込むと、小学生高学年位の三人組がヒソヒソ声でまた長男の名前を呼んだ。
「なんだ?長男は学校でイジメられているのか?」と訝しんで棚の陰に身を潜めて3人組の様子を窺った。「まさか万引きでもするんじゃないだろうな?」暫く物陰に隠れて聞き耳を立てたがイジメも万引きの証左は得られなかった。
3人組は何かサッカー雑誌を買って店を出て行った。
胸の引っ掛かりが解消されないまま私もゲーム関連本を買って、ラッピングして貰って家に帰った。
帰宅すると長男は誕生日プレゼントに妻の手作りのケーキに追加の本のプレゼントを前に顔をクシャクシャにして喜んだ。3つ歳下の次男もオコボレのプレゼントに預かり一緒に飛ぶように喜んだ。
私は喜ぶ家族を見ながらビールと料理を楽しむと、胸のつかえ等すっかり忘れてしまった。
翌朝、寝室からリビングに行くと既に長男がリボンの付いた紙袋を持ってソファーに座っていた。
私が「なんだそれ?」と聞くと、長男が破顔しながら応えた「玄関の新聞受けに入っていたんだ。誕生日プレゼントみたい。
サッカー雑誌!」息子はサッカー部で同級の3人の名前を続けた。
私は「はっ」と気が付くと共に己の愚かさが恥ずかしくなった。
そう昨日の本屋の3人組は長男への誕生日プレゼントを物色していたのだった。

CHOYA賞

  • 梅しぼり

息子は一人っ子のせいか、誰かと競い合うことが苦手で、何かを欲しがることも少なかった。たまに欲しいものがあると、周囲の大人が喜んで希望を叶えてくれるので、自分からこれが欲しいと強く主張する必要がなかったせいでもある。
幼稚園の年長さんクラスになって初めての七夕お泊まり会を迎えるにあたり、園より事前お知らせがあった様々なものを息子と確認しながらリュックに詰めていった。
息子は初めてのお泊まり会に小さな不安と、大きな期待の入り混じった顔をしていた。
お泊まり会では保護者会の方で「縁日」の模擬店をだすので、首にかけられる小さなお財布に十円玉五枚、五十円玉三枚、百円玉三枚の計五百円のお小遣いを持たせて欲しいと指示があった。
親と離れて初めてのお泊まり、初めてのお買い物と息子にとってはささやかな夏の大冒険であった。
翌日、お寝しょしなかったかしら‥‥と心配しながら迎えに行くと、少し胸を張った息子の姿を見て、楽しかったのだと安心した。
息子は目をキラキラさせて話し出した。
「お買い物タイムの前に先生が皆を縁日の教室に連れて行ってくれて、何があるのかを教えてくれたの。お買い物の時に迷わないようにね。そして始まった時、僕、女の子に負けないようにお店まで走ったんだよ!」

いろいろ尋ねたい事はあったけれど、息子が話してくれる順序を待ってきいていた。何を買ったか話す前に、息子はリュックの中から初めてのお買い物を取り出して私の手に乗せてくれた。
少し重量感のあるピンク色のネックレスだった。
「それでいいのってお尋ねされたけれど。お母さんへのお土産って言ったら素敵ねって言われたんだよ。残りはお菓子を買ったの!」

初めての競争の場で、その勝利の証としてのピンクのネックレスを捧げ持つ息子は、小さなナイトとして私の胸に焼き付いている。

毎日新聞社賞

  • もったいないキャンペーングッズ

私が20歳になったからなのか、姉が社会人1年目で、一人暮らしを始めたからなのか、母は、私が知る由もなかった過去の話を話してくれるようになった。
曾祖父の代から続く会社を経営していた父は、親から跡継ぎとなる男の子が欲しいとせがまれていた。だが、姉が生まれ、私が生まれた後、母は、2回の流産を経験した。

高齢出産も心配になり、母が40歳を超えた時、「男の子は大丈夫だよ」と父が言ってきたらしい。だが、母は寿退社して嫁いだ身。異父からの男の子を産んで欲しいという期待は、プレッシャーになって追い打ちをかけ、母は一人、新宿の寂れたアパートの扉を叩いた。そこで待っていた盲目の占い師に問いかけた。「私は男の子産めますか?」と。

「趣味も性格も似ていないのに、あなたたち夫婦は決断するタイミングが一緒。それはとても良いことだ」「可愛い小さな女の子が二人、荷車に乗っているのが見える。あなたたちが同じ大きさの車輪を同じスピードで回して、2人はよっとと、よっととって楽しそうにその荷車乗りながら進んでいる」と言ってきたそうだ。
そこで初めて、娘2人で十分だと安心した、と言う。

母が流産を経験したことも、男の子を欲していたことも初めて知った。家族の中で、大きな決断をしなければならないタイミングが沢山ある。娘2人分となれば、お金もその分かかる。次から次へと決定打を打たなければならない。今まで何の疑問も持っていなかったけど、両親がお互いに食い違って、険悪な雰囲気になっているのを見たことが無い。

2年前、父はコロナ禍の不況で潔く会社を閉じた。今はガーデニングや写真、山登りなど、趣味を謳歌している。母は父を好きなようにさせ、のんびり生活している。
もう何だって平気な2人。

結婚したいと思えるような人を見つけたら、まず母に見せてじっくり聞いてみたい。
どんな道でも、雨風にさらされても、荷車を前へ前へと進ませられる秘訣を。

それは衝撃の一言だった。
「お母さん、今日から塾の前じゃなくて、一つ向こうの電柱の影で待っていて。」
「えっ、なんで?」
「どうしても。」
当時小学5年生の息子を塾に送迎していた。私はその為にわざわざ2人乗りのSという外車を購入した。塾前の路地は道幅が狭く、子どもたちが多く行き来する。夫の所有するRV車は大き過ぎて危険だと考えたからだ。その点小さくて丈夫なSは送迎には打って付けのはずだった。しかし塾から出てきた息子は隠れるように車に乗ったかと思うと、身を屈めて「早く出して。」と言い放った。
「いったい何がダメなの?」と聞けば、
「へんな車で、しかもお母さんが迎え来ているのが、ダメ。」と言う。どうやら友達にからかわれたらしい。
それからというもの息子は私と歩かなくなった。服を買うにも現地集合、現地解散。「イオン2Fのあの店に10時半ね。」という具合だ。買物がすめば「ありがとう。じゃ、ここで。」と別れて同じ家に帰る。
「反抗期?思春期?これって何なの。」ため息交じりにママ友に話すと
「そんなの可愛いほうよ。うちなんか『うざい、きしょい。』だよ。」と笑う。
「どうすればいいの?」と聞けば
「ほっとけばいいの。男の子がいつまでもママにべったりだとそっちのほうが心配だよ。」
まあ、それはそうだ。それからは息子に無下にされても
「成長の証、成長の証。」と自分に言い聞かせた。
だから息子が高校生になったある日
「車でアウトレットまで乗せてってよ。」と言われた時は、心底驚いて
「い、いいんですかぁ?」と間抜けな声が出た。
彼はちょっと恥ずかしそうに「うん、お願い。」と言った。
無事反抗期を卒業し、大人になった息子が今年10月、結婚式を挙げる。素敵な娘さんとよいご縁をいただいた。デレデレして、実に幸せそうだ。
彼らにもまた、新しい家族の物語が始まるのだろう。おめでとう。

二人の父は似ても似つかぬ性格だと思っていた。

厳格な昭和の親父を絵に描いたような父に育てられた。
厳しかったが何不自由なく育ててもらった。
部活の試合の応援は欠かさず来てくれたし高校時代は毎日送迎もしてくれた。キャッチボールとかランニングとか父との思い出はどちらかといえばスポーツ関連のものが多い。毎年高校野球の時期は二人でリビングの大きなテレビの前に並んで座り観戦した。
ほどよい距離感というよりは溺愛されて育った感じだ。

それでもう一人の父は、結婚してからできた義父。
料理上手で掃除好きでゴミ捨ても忘れずするし、息子の友人ともフレンドリー。父の硬いイメージとは真逆の柔和のイメージだ。初孫の誕生に目尻を下げ、お世話も楽しみながらやってくれた。孫と愛犬と毎日お散歩に行く。田舎の穏やかな父と言った感じだ。

一見すると真逆だが、二人は似ていた。
よく言えば自分を愛し、自分の決めた道を歩む人。悪く言えば、超絶頑固で自己中といったところだ。

父の場合は、休日の地元チームでのソフトボールの練習。毎日のように大好きなお酒を浴びるほど飲む。自分のやりたいことにはとことん時間もお金もかける。
義父の場合は、魚釣り。海辺だけでは飽き足らず船に乗って沖まで行ってしまう。これまた時間もお金もかける。こんな二人の父の背中を見ているとなんだか羨ましかった。直して欲しいようなそのままでいてほしいような複雑な気持ちだ。

少年がそのまま古くなっただけの父、二人。
結構面白いし、憎めない。夫は着実に父たちの背中を追いかけている。
我が子は、その背中をおいかけるのだろうか。

兎にも角にも、私の自慢の父たちだ。

円谷プロ賞

  • 『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』Blu-ray特装限定版

ワーママの私にとって、保育園からの帰り道は1日の中で最もわくわくする時間。家に帰れば、やれ夕飯の支度だお風呂だと時間に追われ、ゆっくり息子と話す時間がない。
だからこの帰り道が息子との大切な時間なのだ。

大人の足なら10分程の帰り道を、3歳の息子のペースで15分から20分かけてのんびり帰る。その時間、私はたくさんの可愛いや面白い、時にはうんざり…なんて気持ちを息子から貰うのだ。

車好きな息子は道路を走る車に、かっこいいねー!あの車はめずらしいね!なんてコメントし、大好きな消防車やパトカーが通れば2人で「ラッキーだね!」と大喜びする。
夏には蝉を探し、冬はイルミネーションを観て「きれいだね」とスマホでツーショットを撮ってデート気分。階段ブームの時期には(みんなあるよね?)帰り道にある階段を何度も昇り降りする息子をただただ眺めていた…

息子が2歳になりたての頃、いつもの道で突然「牛乳屋さんにお買い物行く?」と言い出した。牛乳屋さん?と息子の目線の先を追うと、そこには某コンビニエンスストアの青い看板…
確かに牛乳缶のマークがあって笑ってしまった。
と同時に、令和産まれの息子がなぜ牛乳缶を知っているのか?と疑問が浮かぶ。なんであれが牛乳って知ってるの?と聞いてもはっきりした答えは返ってこない、2歳児なんてそんなもん。
それから息子と私の間ではこのコンビニは牛乳屋さんと呼んでいる。

あと数年後には小学生になって、こんな風に手を繋いで歩くこともなくなるのだろう。そう思うと、この時間が余計に愛おしく感じる。
家に帰ってから寝かしつけまでのバタバタを考えると、自転車の後ろにひょいと乗せ、さーっと帰ってしまいたい気持ちにもなるが…

今は親子のこの貴重な時間をもう少し楽しみたい。

親子の日賞

  • 親子の日オリジナルグッズ

92歳になったばあちゃんの物忘れが最近激しい。戦争体験や若い頃のことは、こちらがびっくりするくらい覚えている。
長期記憶は強いが、短期記憶はめっぽう弱くなった。1日1日と衰えていく様が切ない。
ばあちゃんは母ちゃんに、しょっちゅう「どうやったっけ? もう覚えちょらん」と昼間どう過ごしたのか、薬をきちんと飲んだか確認する時こぼす。
私は気が短い方で、そんなばあちゃんにイライラするが、母ちゃんは「きちんと薬は飲んだよ。私が見てたから」とか「今日はヘルパーさんが来てたやろう。どうやった?」等、ばあちゃんに優しく声をかける。
私が「母ちゃん凄いね。私、仕事で認知症の人の相手するのはなんにも思わんけど、休みの日ばあちゃんとずっと一緒におるとこっちまでおかしくなるわ」と愚痴をこぼす。
そうすると母ちゃんは「私も全く何も感じていないわけじゃないのよ。イライラすることもあるし。でもばあちゃんだって、わざと忘れたわけじゃないのよ。それを責めたら可哀想じゃない」と答える。
子と孫では受け取り方や、感じ方の違いだろうか?
そんなことを言っていた母ちゃんが最近は「どうしようかね。困ったねぇ。」とこぼすようになった。
どうすればよいか分からないように、「忘れてしもたわ」と言う。
あ~、母ちゃんにもこの時が来たかと思う。
一緒にいるのはイライラする時もある。でもそれ以上に喜びも与えてくれる。一緒に旅行もいけるし、食は細くなったが、美味しいものを一緒に食べれる。
忘れてもいい。分からなくなってもいい。一緒にいよう。あなたは大切な人だから。

「いい子だね。今日も元気でね」と、朝の散歩の帰路、シルバーカーを止めて自宅前の小学校の入り口に鎮座するお地蔵さんに挨拶をするのが母の日課であった。
母は旅の途中で出会ったお地蔵さんにも、必ず頭をなでて久しぶりに再会したわが子のように親しく言葉をかけた。
雨風に打たれ、太陽の光で色褪せたお地蔵さんの体を洗い、ひと針ひと針縫いあげた赤い帽子とよだれかけをかけてあげ、遠く離れて暮らす子どもたちの健康と無事を祈っていたとつい最近になって母が話してくれた。母は自分のもとから去っていく子どもたちの無事をお地蔵さんに託しつつ、心の空白を埋めていたのだろう。
日本各地のお地蔵さんと並んだ母のいくつもの写真が母との旅の思い出を鮮明に蘇らせてくれる。母の表情は年齢を重ねるにつれ、隣に写るお地蔵さんのように穏やかになり、美しさを増している。それは計り知れない多くの労苦も栄養にして人生を育んできた証であろう。
今は、介護施設に暮らす92歳の母の日常生活からお地蔵さんが失われてしまっている。それを埋めるものを思案しつつ面会をしていると、母は「これ見て!」とブラウスの胸元のボタンをはずして、自分で作ったというやや厚手の筒状に丸めた白い紙を見せてくれた。それは手拭き用の紙で作ってあった。一枚に娘の名前を一人ずつ記載し丁寧に丸めて、懐に入れて置きやすいように3人分をまとめて紙紐で結んであった。
入浴の時以外は、肌身離さず懐に入れておくのだという。
母はお地蔵さんを手拭き用の紙に代えて、自分が生み出した命を全身で守ろうとしているのである。母は顔つきだけでなく「全ての生き物を育む大地のように大きな慈悲の心で人々を包み込んでくれる」というお地蔵さんそのものになっているようであった。
そのお陰で私たちは大地の上で独り立ちして人生を歩むことができた。
母の願いを深く胸に刻んで、受け継いだ命を全うしようと改めて強く思うのであった。

出て行った父親がこの映画のビデオテープを僕宛に送ってきたのは小学校6年生の頃だった

洋画など観たことのないジャッキー・チェンとドラゴンボールに夢中の離れて暮らす息子に、何の意味を持ってそのビデオテープを送ってきたのか、解らなかったが、初めて字幕で観た洋画だった

そして、中学生になった僕に父親が「夏休みにアメリカに一緒に行こう」と言った

夏休みと冬休み、2度連れていってもらった

だけど、決して父親はお金があったわけじゃなく、家を出て行ってから身ひとつで、車の生産工場のライン作業で、指の関節が曲がるほどボルトを1日何百本も締め夜中も働き、寮に住んで節制して貯めたお金で僕を連れて行ってくれたのだった

やっぱり一番思い出に残ってるのはニューヨーク

20ドルを渡されて「日が沈むまでにホテルに帰って来い」とだけ告げられ、1$バスで色んな所を1人で回った

交差点
信号機
落書き
ホームレス
イエローキャブのタクシー
遠くに見えた小指の先ほどの自由の女神

まるで映画の中の世界に迷い込んだようだった

ニューヨークに来れば、そこで呼吸してる人は皆、僕も含めて、紛れもないニューヨーカー
日本人でもなくアジア人でもなく、白人でも黒人でもない、みんなノーボーダーだという寛容な心を僕に与えてくれた

ニューイヤーの晩
タイムズスクエア近くのホテルのラウンジで酔っ払ってご機嫌な父親が言った

「俺が子供の頃、アメリカに行くなんて、月に行くようなモンだった
だから、お前は子供を月に連れて行ってやれ」

父親がこの映画のビデオテープを送ってきた理由が、その時、ようやく解ったような気がした

まだ結婚前の独身時代に父と2人で日帰り旅行をしたことがあった。占い師に聞いた、旅行で開運する方法を試すことにしたのだ。たまたま開運の方角が同じだった父が一緒に行くことになった。
場所は千葉の勝浦。漁港の料理屋で食事をして、日蓮上人が生まれた「誕生寺」を訪れた。2人で入口の案内図を見ると端のほうに「太田堂」というお堂がある。旧姓が太田だった私は思わず「太田堂だ!」と声を上げた。すると、父はお堂の絵を指さして「ここにうちの先祖がいる」と言う。「近くに住んでいる親戚が管理している」へえ、と驚いたが、特にお堂は見ずに帰宅した。
数年後、婚約した私は太田堂のことを思い出した。「先祖に結婚の報告をしないと」普通はお墓参りに行くと思うのだが、なぜかその時は太田堂しか思いつかなかった。婚約者(夫)に声をかけ、今度は彼と2人で勝浦に向かった。
初めて見る太田堂は拍子抜けするほど小さく、失礼ながら寂れた雰囲気でかなり古い。小さなお堂に、小さな鐘が一つ。到着が遅れたせいで、日も暮れて幽霊でも出そうだ。とにかくあいさつをということでお堂に一礼し「ご先祖様、この度結婚が決まりました。こちらが婚約者です」と報告し、せっかくなので鐘を「コーン」と突いた。お堂の前でピースサインをして記念写真も撮ったが、現像した写真は暗くて、心霊写真特集で紹介されても違和感がなさそうな代物だった。
帰宅後、居間で新聞を読んでいた父にその日のことを話した。
「太田堂に行ってきたよ」「ん、何でそんな所に」「ご先祖がいるっていうから、結婚の報告をしてきたんじゃん」。
父は読んでいた新聞を机に置き、顔を上げ、私を見て言った。

「ああ、それ、冗談」

はあ?っとのけぞった。
親の言うことが全て正しいわけではないですね。
遅い自立の一歩でしょうか。
いや、意味が分からない冗談を言うな。
石像のように無表情で、つまらない冗談を言う習慣があった、父の思い出でした。

今年の1月、父が亡くなった。
81歳だった。
生前、父には何もしてやれなかったとずっと悔やんでいた。
「あんなに近くにいたのに・・・」今となっては後悔の連続である。
父の死後、半年ほど経つと、そんな気持ちも少しずつ整理ができてきた。

7月になった。
初盆の準備を始めた。
初盆には多くの地域の方々が自宅にくる習わしがあるため、父の書棚を整理することにした。
父の葬儀以降、全くの手つかずであった場所だ。

父の書斎に入った。
懐かしい父の匂いがした。
子供のころ、大好きだったのが父の匂いだった。
そして、書斎からは、多くの懐かしいものが出てきた。

まず、父がたくさん撮ってくれた写真が出てきた。
写真が大好きだった父。
コニカの写真機とともに、古く色ばんだアルバムからは多くの思い出が蘇ってきた。父の会社の方と行った旅行の写真。家族の写真。
いつ、どんな時に撮った写真なのか、父らしいしっかりとした文字で几帳面に書かれた文字を見ると、なおのこと思い出が心に突き刺さった。
「懐かしい」と思わず声が幾度も出た。

次に、パンフレットやチラシ、新聞の切り抜きが出てきた。
家族で行った映画館の半券チケット。父の功績が紹介された新聞記事。父が書いたエッセー。
父の生き方に触れた貴重な思い出が数多く出てきた。
「父は、とても人生を楽しんでくれたのでは」そんなことを感じさせるたくさんの父にまつわるものが、箱に小綺麗にまとめられ整理されていた。

最後に、机の引き出しを開けた。
そこには、父が生前毎日書いていた日記が出てきた。
日記をつけていたのは知っていたが、全く 見たことがなかっただけに、興味が出てきた。日記を開いた。
次の瞬間、涙が出てきた。止まらなかった。
父の日記には、長男である私のことについてが中心に書いてあった。
私が結婚した日。孫が生まれた日。子供を連れて父と出かけた日。
父はそんな私との、私達家族との何気ない日常をしっかりと記し、最後に、「今日も幸せだった」と一日の日記を終えていた。
父は、長男である不甲斐ない私が心配であったと同時に、私にこれほどまでの深い愛情を注いでくれたことに改めて気づいた瞬間であった。
父が倒れる5月16日の前の日、5月15日の日記が最後の日記であった。
5月15日。「朝から畑仕事をした。今日は暑かった。夜、博章家族と一緒に夕食を食べた。今日も幸せであった。」

私は、父の死後、半年経ってようやく気付くことができた。
どれほど、父は、私を深く愛し、育ててくれたことを。
もうすぐ父の初盆である。
父のためにも、しっかりした長男の姿を見せたい。
書斎の片付けが終わった今、自信をもって、言える一言である。

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