親子の日 エッセイコンテスト 2019 入賞作品

開催・応募期間:2019年5月16日〜7月29日

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

ゼンハイザー MOMENTUM Ture Wireless

「パパ、写真撮ってよ!」
薄紅の桜。碧い海。赤や黄色の紅葉。白銀の雪景色。
どんなに美しい風景を背にして私がねだっても、一眼レフをぶら下げたパパは、いつも首を横に振ってばかりだったよね。
「俺は風景カメラマンだ。人物は撮らない」が、決まり文句。
「一人娘よりも景色の方が大事なの?」って、私は幼い頃から不満だったよ。
だから、家族旅行に出かけても思春期を迎える頃には、パパに「写真を撮って」と頼まなくなっていたっけ。
そして、大人になった私は、次第に家族と出掛けることもなくなっていった。
……一年前。
パパとママと三十年間暮らした故郷から、遠く離れた地へ私は嫁いだ。
その前夜、リビングでママとしんみりお喋りしていると、パパは何冊ものアルバムを抱えて現れたよね。
「嫁入り道具だ。持っていけ」
照れ隠しなのか、無愛想につっけんどんに手渡されたアルバム。
首を傾げながらアルバムを開いてみると、そこには……
沢山の『私』がいた。
幼稚園のお遊戯会の私。小学校の入学式の私。中学の体育祭で、リレーのアンカーを走る私。テニスの試合で表彰台に立った高校生の私。大学の卒業式の袴姿の私。
そして、結納の日、母と並んで庭の桜を見上げる振袖姿の私。
そこには、カメラ目線の私は一人もいなかった。
自然な笑顔。
パパだから、娘の一番「いい顔」を知っていたんだね。
「…なーんだ、私の天邪鬼はパパ譲りだったんだ」
三十年越しに、パパの愛情を泣き笑いで痛感しちゃったよ。
……ありがとう、パパ。

オーティコン賞

ゼンハイザー ヘッドホン HD 4.40 BT

 親は誰よりも子供のことを知っている。正直そんなの嘘だと思っていた。
思春期の頃の私は平気で親に嘘をついていたし、反抗し、暴力をふるったりもしていた。何で私のことを分かってくれないのと叫ぶ日々であった。その後は結局自分のことを知っているのは自分だけと考えるようになった。だがその考えを変えるきっかけが訪れた。
あれから6年経った昨年のこと。私はカナダに留学した。言葉も文化も違う国で過ごす毎日。ホストファミリーは勿論本当の家族では無い。言いたいことも言えずただ我慢するしか他には無かった。そんな環境であり、初めの2か月は長く感じたものだった。そして3か月に入ろうとしていたある日、私宛に大きな荷物が届いた。それは遠く離れた日本にいる家族からであった。急いで開けると中から沢山の贈り物が出てきた。ご飯、のり、味噌汁から始まり、スルメイカ、さきいか、煎餅、ささみ燻製、チーズ、うどん。そして風邪薬に冷えピタ、のど飴、靴下、マフラーも入っていた。どれもジャパニーズショップに行けば手に入りそうな物だ。最後に箱の底を確認すると何かが手に当たった。それは両親からの手紙であった。「21回目の誕生日おめでとう。健康に注意してやりたいことには何でも挑戦して下さい。幸せがいっぱいありますように」と。もう涙が止まらなかった。これまで抱えてきた我慢が一気に出てしまい、声を上げて泣いた。空けた時には気づかなかったが、入っていた物は全て私の大好物であった。食べる度に美味しいと言っていた物であった。モッコモコの靴下や風邪薬は私の健康を心配しての贈り物であった。荷物の一つ一つに両親の思いが包装されていたのである。そしてその時、やっと知った。親は一緒生活する中で子供のことを良く見ているということ。だから誰よりも親は子供のことを知っていることを。
帰国した今、両親の子供であることに感謝する。どんなに文句を言っても嫌わずにいてくれ、離れていても力になってくれた。そんな凄い人はどこを探しても見当たらないだろう。彼らの子供で本当に良かった。

幼稚園で魚の絵を描けと指示され、真正面から迫り来る縦長の構図の魚を描いたのが、父の逸話だった。
小学校の授業で「暑いの反対は?」と聞かれれば「暑くない」と、「高いの反対は?」と聞かれれば「高くない」と、頑なに答え続けたところ、困り果てた祖父母が病院へ連れて行ったそうだ。
もちろん、父に異常は無かった。
親戚が揃う法事で、その話を持ち出された父は、恥じる素振りも見せず、堂々と言った。物事を多面的に捉えて何が悪いと。人と違う視点を持つからこそ、世界を変えられるのだと。
父は変わり者だった。
私にとって、そんな父が誇りだった。
父は、安定していた大手不動産会社を早々に退職し、当時はまだ珍しかった、マンションのリノベーション会社を立ち上げた。
ベンチャーという名前も無かったあの時代、紛れもなく、父はベンチャー起業家だった。
来る日も来る日も、父の営業活動は報われなかった。
時代を先取りしすぎた、もうすぐ皆が追いつく、と言って耐えていた。
間もなく、テレビ朝日で「大改造!劇的ビフォーアフター」が放送され、マンションのリノベーションが爆発的にヒットした。
全国引っ張りだこになる父と、それ見たことか、と笑った。
中学二年生の時、父が亡くなった。
心筋梗塞だった。
父からの最期の贈り物は、日本の職業辞典だった。
「いいか。お前はここに載っていない仕事を創れ」と。
顔も性格も、父の生き写しだと言われる私に、どんな思いで託したのだろう。
高校一年生の時、今度は母が倒れた。
手術の後遺症で下半身麻痺が残って働けなくなり、生きる気力を失くした母に、咄嗟に口をついた言葉は「私がお母さんの仕事を作る」だった。
私の中に生きる父が、言った。
四年後、先輩と会社を創業した。
日本に一つしかない、バリアフリーのコンサルティング会社だ。
今日も私は、車いすに乗る母と、国内外を飛び回っている。
変わり者と、笑われることが増えた。
そんな私が、私の誇りだ。

娘が幼稚園に入園した。
50になる前に授かった子どもだから、2人で街を歩いていると、いつも孫に間違えられる48も歳の離れた娘だ。
入園式に行くか行かないか、悩んだ。
そこには、ふつうなら僕の息子や娘と言ってもいい年頃の若いお父さんやお母さんが出席しているだろう。そのなかに僕がいたら、一人だけ、孫がかわいくて仕方がない祖父が、我慢できずに、入園式にまでついて来てしまったように、まわりからは見えるかもしれない。
しかも幼稚園のすぐ近くで、僕は20年近く、学習塾を開いてきた。
お父さん、お母さんたちのなかには、かつての教え子たちもいるはずだ。
そこで彼らに会ったら、さらに驚かれるだろう。
入園式当日の朝、白くなった頭を気にしていると、娘が一言。
「髪が白くてもいいよ。おじいちゃんってだれかに言われたら、パパだよって、言ってあげるから」。
「いっしょに行こう」と娘に強く手を引かれて会場に着くと、そこにいるのは、予想通り、若い方ばかり。
一番うしろの席に控えめに座るとすぐ、「先生、こんなところで、なにやってんすか?」と、かつての教え子らに声をかけられて、ますます照れくさくなったが、立派な親になった教え子たちの成長した姿を見て、頬が緩んだ。
さぁ、困った。
今度は運動会の保護者リレーで教え子たちと足を競わねばならない。
今日から練習を始めようか。

毎日新聞社賞

MOTTAINAIキャンペーングッズ

その背中はいつ見ても大きく、そして遠かった。
幼いころに負ぶってもらったその背中は約20年経った今、追いかけるべき背中に変わった。
自分にも他人にも厳しい父に対し私は劣等感を抱いていた。
早くから父は自分のやりたいことを見つけて邁進し、惜しまれながらも長年勤めた会社を退社してからは大学教授として日々目の前の課題と学生相手に格闘している。
それに対し私はどんなに頑張ってもクラスの平均点で、特別にやってみたいこともなかった。さらに頑固なくせに他人の言動や態度に振り回されるような繊細さが足を引っ張った。
高校・大学受験では希望する学校には終に入ることができなかったし、売り手市場と言われた就職活動も私だけ省かれたようになかなか決まらなかった。
社会人3年目に入ってから父によく飲みに誘われるようになった。
二人きりなんていつぶりだろうか、と思っていると父は言った。
「俺の人生で一番嬉しいのはお前に逢えたことだ」
「俺はお前のことを本当に誇りに思っている」
早くもお酒が回ってしまったのかと思うほど、珍しく父の瞳が潤んでいた。
それから父はぽつりぽつりと今までの自分を振り返った。
他人の態度や言動に過敏に反応し不登校寸前までいったこと、やりたいこともなく働きたくもなかった学生時代のこと、要領のいい友人と自分を比べて落ち込んだこと、貧しい中でも大学まで通わせてくれた両親のこと…。
「お前は俺に似ている。大器晩成型だと思うけれど、変わらずにこつこつ続けるんだよ」
父は気づいていた。私がやっと自分のやりたいことを見つけたことに。
そして黙って私の背中を押してくれていた。
「落ちこぼれだった俺が言うんだから大丈夫」
こぼれそうな笑顔で父と私はグラスを突き合せた。
私の前を歩く父の背中は相変わらず大きい。
自分を卑下する癖はなかなか治りそうにない。
けれど帰り道に私の肩を抱いた父の手は、私の知る限り一番大きくて温かかった。

人間も動物も植物も、子孫を残そうと凌ぎを削り、その授かった生命を必死に守り、育てようとする。
一体何のためなんだろう、と、ヒナにえさを運び続ける親鳥を見つめながら、思った。

長女が高校卒業と同時に、外国でのボランティアに参加すると言い出した。他の子より小さくて、おっとりしていて、何よりつい最近まで、ママ、ママと私のスカートの裾をつかんで離さなかった気がするのに。
行き先は、数年前の紛争で名前を知ったばかりの国、ジョージア(旧グルジア)に決まった。未知であることが不安を最大限に増長させ、気が狂いそうだった。
しかし、娘の気持ちにはこれっぽっちのブレもなく、あっけなく旅立って行った。空港で、私ははじめて人目も憚らず号泣した。
その日から、私の心の真ん中は、娘が食べているか、寒くはないか、寂しくはないか、そればっかりだった。
指折り数えて帰りを待つ。
やっと帰ってきた。
あれを作ろう、これも食べさせてあげようと張り切る私をよそに、すでに900km離れたところにバイトを見つけたから、と。
驚きと失望で真っ白になった頭の中で、いろんなことが思い返された。
難産の末の出産、幼い頃の数度にわたる入院生活、言葉の遅れ、秘めた可能性を引き出そうと試みた様々な習い事、私立女子校への入学、数え切れないほどの送迎の日々。
そんなすべてを辛いと思わずにやってこれたのは、ただ、母だから。わが子だから。

今、あらためて思うことがある。
30年前、私は転職を機に、突然日本を去る決意をし、これまで自分の思う道を歩いてきた。
あの時、母は、今私が感じているこの気持ちを味わっていたのだ。
いつの日か、娘も、私のこの気持ちを、母のあの気持ちを、ほろ苦さとしょっぱさと共に味わう日がきっと来るのだろう。

生命の数だけドラマが存在し、種の保存は繰り返されていく。
この不思議な営みを親子というのではないだろうか。

天国と地獄が流れる運動会。
年長組の「親子一緒に」が近づくと保護者に集合を知らせる放送が流れた。
「ママ出番」私は妻に声を掛けた。
「今回は貴方が出て」妻は進行中の競技から目線を逸らすことなく答えた。
「えっ。参加すれって」冗談だと思った。
「たえちゃんママ行くわよ」同じクラスのお母さんだろうか妻に声を掛けると「今回はお父さんが出るから」と妻が答える。
「本気で言ってるの。出ないよ!」周りに聞こえない小さな言い争いが起きた。
「幼稚園、最後の運動会よ。出てあげて!」懇願と言うより命令のようだ。
「ありさん組の保護者はゲートにお集まりください」再び放送が流れた。
私は二歳の時に発病したポリオで補装具なしには歩けない障害を残していた。
そのため運動会は全て応援係でアスリートとして参加していなかった。
クシコスポストがひと際大きく響き競技を終えた園児が駆け足で戻って行く横から赤いジャージの子が私の方に向かって走ってくる。
娘だ。
「お父さん早く。始まっちゃうよ」と手を引く。
一緒に来た先生が「おとうさん参加してください」と声を掛け、隣の席にいた顔見知りの保護者も「奥津さん出てあげなよ」と後押しする。
「先生。私走るのは・・・」娘に聞こえないように言ったつもりだったが、「お父さん、皆で一緒にゴールだよ」と一段と強く手を引く。
一組目の競技が始まった。
園児と保護者12名が一斉に走り出したではなく全員が一列に並んでゴールを目指して歩いている。
「走れないです」という言い訳が使えず、娘に手を引かれるままスタート地点に向かった。
最後の組みに並んだ私たちに「たえちゃん良かったね」「一緒にゴールしよう」次々と園児が声を掛けて来た。
「お父さんと出たい」
娘の希望に叶わない私は娘のお陰で初めてアスリートになった。

TSUTAYA賞

オリジナルフォトブック

「生きていることしか想定していなかった」
これは私の人生で一番のパワーワードだ。
8年前の大震災で津波から逃れたときに母が泣きながら私に放った一言。避難所で再会するまで散々弟の予定帰宅時間に怯えて、最悪の事態に頭を巡らせていたらしいのに、「貴方は絶対生きていると思った」なんて。
嘘でも心配だったって言ってよ、
当時小学生の私は大いに傷ついたけれど、今なら分かる。どれほど母が私の人生に信頼を置いてくれていたのか。

20歳を迎えるにあたり、感謝したいことがある。
それはアメリカで友人に「宮沢賢治を知っているか」と尋ねられたときに気づいたことだ。
勿論だ、注文の多い料理店なら暗唱できる、と自慢げに答えると、驚いた顔でそんな日本人は初めてと言われた。
両親は沢山の感情を理解できるように、と私が小学校に入学するまで欠かさず毎晩読み聞かせをしてくれた。結果として、数えきれないほどの気持ちを覚えた。渡米してもうすぐ半年だが、日本語にしかない表現を他言語で伝える楽しさを知った。微妙で繊細な言葉の違いに感銘を受けて尋ねるようになった。感情を読むことに努力を要さないのは私の一番の糧であり、両親の愛情の証を痛感できる瞬間だ。

私との読書時間を決して削ることはしなかったこと。
私の人生の選択を喜んで受け入れてくれたこと。
0から始めるときにさえ、無意識に私に将来があることが前提だったこと。そして何より暖かい布団で微睡む中、響いた両親の声色が私の人生に色を加えてくれた。
成人した瞬間に大人になれるなんて思っていないが、両親が信じてくれた私の人生が実りあるものとなるように努力は惜しまず生きていきたい。

両親へ
泣き虫で反抗的でそのくせ野心家な私は手のかかる子だと思います。でも、人一倍喜怒哀楽激しく育った私の門出がどんなものになるか、こんなにも楽しみなのは二人のおかげです。本当にありがとう。

円谷賞

『劇場版ウルトラマンR/B セレクト! 絆のクリスタル』Blu-ray 特装限定版

 幼児語、というものがある。
簡単にいえば赤ちゃん言葉で、車ならブーブー、ご飯ならマンマと、ちゃんとした言葉が話せない段階で使われる。
息子でよく覚えているのは「ねんね」という言葉だ。
普通は「寝る」を意味する言葉だが、うちの子の場合は違っていた。
例えばつまずいて、どこかぶつけてしまったとする。
すると「ねんねー」と泣く。
また、具合が悪くなって急に高い熱が出たとする。
また「ねんねー」が来る。
つまりこの子の「ねんね」は「眠い」ではなく「痛い」「苦しい」なのである。
当たり前だが、この意味は親にしかわからないので、他の人は当然「眠い」だと考える。うんちがなかなかでなくて病院に行ったときなどは、おなかを抑えられた途端「ねんねっ!」と声をあげる息子に、医者も看護師もそろって首をかしげたものだった。

それから一、二年。幼稚園の年少になり、他の子供と毎日を過ごすようになると、いつの間にか使われる幼児言葉も減っていった。抜けきらないのは親の方で、こちらが「あんよ」などというと反対に「足だよ!」と言い返されるくらいだ。
成長は嬉しいものの、やはり可愛さの面で少し残念なのか、近頃になって妻が、息子の“幼児言葉リスト”なるものを作り始めた。
ワンワン…犬、ブーちゃん…水、といった具合に息子が使っていた言葉とその意味を記憶の限り集めたものだ。
私は、珍しいものを作るものだと思いつつも、彼女のこのような気持ちにたいし感心もしていた。

先日家族で帰省した折り、私の幼い時のアルバムを見ていた妻が面白いもの見つけた、と一冊持ってきた。
最後のページを埋める「かっちゃんことば」と題されたリストに、私は目を丸くした。
かっちゃんとは私の幼少の頃の呼び名である。
母も妻と全く同じことをしているではないか。
そして読み進めるうちに更に驚かされた。
なんと私のリストの中にもしっかりと「ねんね…いたい」と記されていたのだ。

親子の日賞

「親子の日」オリジナルグッズ

私は幼稚園の頃から運動がだめだった。
そもそも外で遊びまわるような活発な子どもではなく家で絵本を読んでいるほうが好きだった。
そんな私が嫌だったのが運動会。
なかでもかけっこが大の苦手だった。
幼稚園の小さなグラウンドを半周するだけだったのだが、私は最後まで走ることが出来ず途中で止まってしまった。
何だか悲しくなってべそをかいていると先生がやってきて私の手を強引に引っ張りゴールまで連れていかれた。
この経験から、私は走ることが出来なくなった。
小学生になっても運動は苦手で何をやってもさっぱりできなかった。
秋になると運動会がやってくるのが何よりも憂鬱だった。
やはり徒競走は苦手だった。
どうやったらうまく走ることができるのかさっぱり分からなかった。
ある年の運動会の前に父が走り方を教えてやると言ってきた。
父は学生時代陸上部で短距離走の選手だった。
息子があまりにも運動が出来ないのが我慢ならなかったのであろう。
その日から特訓が始まった。
朝、学校に行く前に公園で走り方を習った。
父の指導は熱血スパルタでスタートの仕方やコーナーの曲がり方など、それはもう厳しく教えられた。
私は父の期待に応えられるように必死に努力した。
そして迎えた運動会当日、徒競走の順番が回ってきた。
軽快な音楽が流れる中、私はドキドキしながらスタートの位置につく。
パーン
ピストルの音がしてみんなが一斉に駆け出す。
私は必死に手を大きく振って走った。
結果は六人中四位。
いまいちな結果に肩を落としていると、お弁当の時間に父が一言「よく頑張った」と、にっこり笑ってほめてくれた。
胸の奥がすっとしたのを覚えている。
あれから時代は流れ父は杖が無いと歩けない体になってしまった。
今では私がそっと手を取って一緒に歩く。
転ばない様に一歩一歩ゆっくりと。

23年前、私は小学校の卒業式後のお別れ会にいた。
お別れ会は、お決まりだが食事とプレゼントの後ひとりずつお別れの挨拶を言うことになっていた。県外へ引っ越す私はその挨拶のトリ。恥ずかしがり屋で目立たず地味に過ごした私に訪れた、トリという初めての大役。

感動的な卒業式の雰囲気をまるごと持ち込んだままのお別れ会はまさにセンチメンタルの嵐。「一生、忘れません」などという、人生で何度も使うことはないであろうドラマ級のセリフが次々飛び出した。

とうとう私の番が来てしまった。緊張でセンチメンタルどころではない。
会場がしーん、となる。クライマックスの雰囲気。席を立った途端、私はアガってしまった。口が動かない。
静かになった会場に、女子のすすり泣きだけが響く。初の大役。集中する視線。逃げ出したいと思ったその瞬間、隣から大声が聞こえてきた。

「みなさんっ!」
振り向くと父がマイクを握っていた。
アンタ誰!という雰囲気の中、父は叫んだ。

「センキュ~!」

妙にうまい発音だ。格好つけて腕を高く振り上げるその姿はさながら往年のロックスターのようだった。父は赤い顔の私の肩を引き寄せると2度目の「センキュ~!」を放った。まるでコンサート会場のロックスターとそのファンだ。

あちこちで笑い声が聞こえる。恥ずかしさが溢れ父を睨んだ。父は構うことなくセンキュー、センキューと繰り返した。父があまりに連呼するので、センチメンタルは会場からすべて吹っ飛んで、みんな、笑った。

あれから23年、私は再びお別れ会にいる。今度は我が子を見守る親の役として。
あの日、なぜ父があんな行動に出たのか。今、私はようやく父の気持ちを理解できている。

お父さん、センキュー。

母の口癖は「ちょっと」だ。「ちょっと待ちなさい」とか「ちょっとは帰ってきなさい」とか。私はそんな「ちょっと」がすごく嫌だった。いつまでたっても子どもみたいで。
だけどそんな私が20歳のとき、妊娠がわかった。母は顔をしかめた。ちょっと早いって。順番がちょっと違うって。すごく傷ついた。だからこっそり生むことにした。母がいなくても私は母になろうと思った。
しかし生んだはいいものの、初めての育児は右も左もわからず、出口のないトンネルをさまよっているようだった。主人は地方へ出張で月に一度しか会えず、あれよあれよと半年後、夜泣きが始まった。私は寝ることも食べることもできなくなった。泣かれるたびに母として烙印を押されているような気がした。
「出産はちょっと早い」
ふとあのときの母の言葉が浮かび、自己嫌悪になった。死のう。だけど最期に母の声が聞きたくなった。ダイヤルを回す指先が震え、母ちゃんが出た瞬間、涙が溢れた。「ちょっと大丈夫なの?」「ちょっとお、ちゃんと食べてるの?」母は相変わらず口うるさかった。だけどすぐうちに来た。ボサボサの髪でシミだらけの顔で。なんだかホッとして涙が溢れた。母はやさしくなだめた。子どものように泣く私とそんな私の子どもを。気づけば私は眠りこみ、その時すでに母の姿ははなかった。冷蔵庫を開けると「チンして食べてね」と置き手紙。そんな母の字は冷たくなってもどこか温かかった。 久しぶりに食べた母の肉じゃが。砂糖はちょっと多めで、じゃがいもはちょっと大きめ。そんな「ちょっと」の愛情が身に沁みた。食べながら母を思うと、せっせと肉じゃがを作り、そっと家を出るうしろ姿が浮かんだ。その姿にお礼を言うように目を閉じた。母ちゃん、おいしい。でもちょっと、多い。

 私の父は料理がうまくない。
 シチューを作れば鍋の底を焦がし、味噌汁は塩辛い。けれど、父がつくる焼きそばは私の一番の好物だ。私がもう立ち上がれないかもしれないと思った時、私を助けたのはその焼きそばだった。
 私が大学を卒業して、就職一年目。私はうつで仕事を辞めてしまった。食事もろくに取れず、部屋からもろくに出られない状態が続いていた。
母はそんな私でも淡々と受け止めてくれていたが、父は遠巻きで、私を扱いかねている様子だった。父は若い時から職を転々としていたから、私には一つの職場で長く働いてほしいという願いもあったのだろうと思う。そういう父の思いを知っていたから、申し訳なさもあって私は父を避けるようになっていた。
 ところが、ある日、私が昼ごろキッチンへ向かうと父の姿があった。私はその姿を見て、キッチンへ立つ父の視界から離れたダイニングの椅子へ腰掛けた。父がいなくなるのを待とうと思ってのことだった。
「焼きそば、食べるか?」
いきなりキッチンからかけられた声に私は本当に驚いてしまって、しばらく言葉を返せなかった。
「食べる」
そう返すまでに、どれほど時間があったかは正確には分からないけれど、私がそう言うと父は静かに焼きそばを作りだした。特別なことは何もしない、市販の焼きそばが出来上がるのを、私も静かに待っていた。
「ほら」
そんな言葉と一緒に目の前に出された父の焼きそばを一口食べて、私はそっと泣いた。食欲はほとんどなくなっていた頃だったけれど、久しぶりに、心からおいしいと思った。
何か、言葉をかけられたわけではない。それでも、父に受け入れてもらえた気がした。きっと父の思うようにはなれなかった私でも、娘でいていいのだと言ってくれたような気がした。
父の真意を聞いたことはない。それでも、あれから数年経ち実家を出た今も、私の一番の好物は、料理のうまくない父のつくる焼きそばだ。

「ありがとう」
この、たった5文字の簡単な言葉が、言えない時期があった。
高校の卒業式の日、担任の先生がクラスの全員にこう言った。
「今日は特別な日です。今まで育ててくれた感謝の気持ちを込めて、頑張ってお家の人に『ありがとう』を言いましょう。これを逃したら、結婚のときになるかもしれないし、もしかすると、もう二度と言えなくなるかもしれませんよ。」
大げさだなあ。このときは、そう思っていた。けれど、私は思い出せなかった。…最後に母に「ありがとう」を言ったのは、いつだったっけ。母の作ったお弁当を受け取ったとき。制服のブラウスをアイロンがけしてくれたとき。学校へ送り迎えしてくれたとき。…どれでもなかった。
「お母さん。」
「ありがとう」を伝えようと、母を呼びながら、ふざけて軽く母を抱きしめた。昔は、甘えん坊の私をよく抱っこしてくれていたっけ。間近で感じる、母の優しい香りとぬくもり。けれど、何かが違う。母には聞こえないくらい小さな声で、つぶやいた。
「お母さんって、こんなに小さかったっけ…?」
「ありがとう」は、言えなかった。
いつも一緒にいてくれた母は、これからも、ずっと一緒にいてくれる。そう思っていた。けれど、違う。気づかぬうちに時が過ぎ、母の身長を追い越していくように、一緒にいられる時間なんて、きっとあっという間だ。その中で、私はどれだけ母に返せるだろうか。…わからない。
母の日。プレゼントを後ろに隠して、母に近づく。お店の人に渡された、カーネーションのメッセージカードには、照れ隠しのふざけた絵文字がかいてある。…どうしても「ありがとう」が書けなかった。だからこそ、言わなくては。「お母さん、いつもありがとう。」たったこれだけだ。自分に言い聞かせながら、母にプレゼントを渡した。
なかなか「ありがとう」を言い出せず、真顔の無言でプレゼントを差し出した私に、母が笑いながら言った。
「ありがとう。」
そして私は、ふてくされた顔になってボソッと呟いた。
「それはこっちのセリフです。」

息子が両親に、ボソボソと話し出しました。
「結婚するし、彼女を連れて来るわ」
二人が訪ねて来るのは「七夕の日」。
これがワクワクしないでいられようか。
七夕には、天の川と織姫をめぐる多くの伝説があるけれど、今年はわが家だけの新伝説が誕生します。天の川に架ける橋を渡り来る女性を、生涯の伴侶として迎える新ドラマです。
さて大変な毎日となりそうな予感がする。
本当に橋を渡り家に来てくれるか、どんな人だろう、あの息子で・・・
心配は尽きない。
夫婦は心ときめく風に包みこまれています。
妻は、訪れる超最高級の来客をどのようにもてなすかと、女親の思案を巡らしながら楽しげな後姿に、嬉しさが溢れているのです。
オヤジの私は七夕まであと何日と、朝に夕べに指折り数えるしか能がなく残念至極。
やっと、その日がやってきました。
令和元年文月七日、夏なのに春が来た。
「結婚」の言葉は久しく聞く響きです。
長男の結婚以来、なんと二十三年振りに、三才違いの次男が彼女を連れてきました。
煌めく天の川にこの日だけカササギが架け橋を、カササギの老いし橋守に守られながら、緊張いっぱいで渡って来たのでしょう。
妻と彼女の会話が弾みます。
あなたを待ち望んだ親心が、伝わる願いを込めています。
息子が母から、女二人の写真を写してとの声を受け、スマホを構えながら思いもしなかった言葉をかけました。
「お母さん、二人目の娘ができて良かったな」
この一言に本人の喜びと、親の嬉しさを重ね合わせた、わが子の心が母を包み込みます。
親子ってこんなにも温もりがあるのかと心にしみます。
毎年七夕を迎えるたびに、振り返ってはあらたな感慨に更けることでしょう。
写真を覗き込む新しき母と娘の姿が、輝いたと思ったのは、私の錯覚だろうか。
天の川を見上げながら、カササギの老橋守に、急ぎ顛末を知らせねばなりますまい。

「ほらね、良かったでしょ」これは母の口癖だ。
母は私が誰かのために行動したことを、きちんと理解してそこを褒めてくれる。大変だけど行動して良かったと思わせてくれる。私は母のおかげで人助けをするのが好きになった。
母の教えは、「やってもいいし、やらなくてもいい事はやりなさい」だ。
私は母がうるさいのでやらなくてもいい事をたくさんやってきた。
振り返ってみると、その沢山のやらなくてもいい事のおかげで私にとって良い経験を味わうことができた。
例として挙げられるのがマンションで行われるイベントだ。
私はマンションに住んでいる子供の中で年齢が高い方だ。マンションに住んでいる友達はみんなイベントに出ないと言っていたので行きたくなかった。それに、参加が自由だったので尚更行きたくなかった。
だが、母は私を無理やり連れて行かせた。
私は頑なに拒否をしたがイベントに出た。
母は委員で運営に携わる方だったので私もそれを手伝った。
楽しくないと決めつけていたイベントは結果的にはとても楽しかった。来てくれた人や、一緒に運営に携わってくれた人たちと話す時間はとても充実していた。途中から友達も来てくれて、すごく嬉しかった。
イベントに来て本当に良かったなと思った。
やはり母の言う、やらなくてもいい事はするべきだなと身を以って知ることができた。
これからも、やらなくてもいい事はたくさん出てくると思うが、今までの経験上それはやるべきだなと思う。
このコンテストも母が進めてくれた。
きっとまた言われるんだろう。「ほらね、良かったでしょ」

「はいはい、今行きますよ。」
母が声を掛けいそいそと向かう先は、私でも、父でも、ペットでもない。というより、人間でも動物でもない。10年以上我が家に鎮座するベテラン家電、電子レンジだ。
ピーと鳴る電子レンジやコンロやケトル達に母は喋る。「はーい」と返事をしたり、「ちょっと待ってね」と鳴り続ける家電に頼んだり、パターンは色々だ。
まだ幼い頃の私は母の家電との会話を嫌がった。友達が来ているときも、学校で嫌なことがあったときも変わらぬ調子の母に、反抗期も相まってよくイライラしたものだ。
でも、思春期を経て大人になるにつれ、家電と会話している母がいじらしく、可愛らしく感じられるようになった。
母なりに日々の炊事を楽しむための工夫だったのかもしれない。あるいは、そういった意図は全くなかったのかもしれない。
昨年、婚約を境に、家を出た。婚約者と家電の下見に行くと、スマートスピーカー搭載で、音声指示が可能な家電がとても多かった。
もしかしたらこれを買ったら母は喜ぶのだろうか、無意識に自分の新生活ではなく、実家にいる母親に想いを馳せた。
と同時に、私は、それじゃ母じゃないな、と思わず笑った。会話のできない家電に声を掛けるから、母なのだ。
結局スマートスピーカー搭載ではなく、私たちは実家にあった家電に一番近い、シンプルな家電を購入した。
「私は君に話しかけないぞ」と新品の電子レンジを前に思った。多分、だけど。

「今年も稲刈りが始まるよー。」
電話口からそんな母の声が聞こえる。ああ、今年もそんな時期になったのだなと思い、私は昔の記憶に心を馳せる。
幼いときの私の夏のイベントは、稲刈りであった。毎年、父と母と私と妹、家族総出で稲刈りを行っていた。父が稲木を竹で作り、父と母が稲木に刈り取った稲を干していく。私と妹の役目は、その刈り取って束にした稲を父と母に手渡すことだ。かがんだり立ったりの繰り返しで、腰がとても痛くなる。それを母に言うと、「若いのにこれぐらいで」と笑い飛ばされていた。
休憩時間は、皆であぜ道に座って、母が家から作ってきたお弁当を食べる。外で食べることもあってか、田舎の母らしい大きすぎるおにぎりは、とても美味しかった。今でもその味を憶えている。ご飯を食べた後は皆のお楽しみ、キンキンに冷えたスイカの登場だ。田んぼの横を流れる川で、父が朝から冷やしておいたスイカはキンキンに冷えていて、これまたとても美味しかった。楽しい食事が終わると、また皆で稲刈りの作業に戻る。稲を干し終わった後も、落穂拾いといって落ちている稲を探して歩かされた。当時は「そこまでしなくてもいいのに」と思っていたが、少しでも無駄にしたくないという父と母の気持ちの表れであったと思う。
高校を出て私は一人暮らしをしているが、毎年実家からお米が送られてくる。中学高校と忙しくなるにつれて、稲刈りを手伝わなくなってしまった。その間も父と母はこうしてお米を作っていたのだと思うと、もっと手伝いをするべきだったなと今頃後悔する。
ダラダラ噴き出してくる汗を拭いながら、父と母に手渡した稲。とても暑いのに、手を浸すととても冷たかった川。妹と田んぼを走り回って追いかけたトンボ。皆で見た夕焼け。私にとって家族の大切な思い出だ。
今年は帰って、稲刈りを手伝おう。

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