親子の日 エッセイコンテスト 2017 入賞作品

開催・応募期間:2017年3月28日〜7月24日

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

映画「OYAKO」のロケ地山口県下松市の特産品

いつも仕事で家にいない、母が嫌いだった。

帰ってきたかと思うと台所の流しに向かい、私に背を向ける。

不満が募っていた中学のころ。学校で嫌なことがありムシャクシャしていたある日、ついカッとなり母に向かって叫んだ。

「お母さんが選べたら良かったのに!もっと違うママが良かった!」

母を酷く傷つけたことに、すぐ気づいた。私は恐る恐る母を見た。母は何も言わず、台所を後にした。私は母の後を追った。

「いつも話聞いてくれんし、私の事なんか嫌いなくせに」

洗面所に座っていた母に吐き捨てた。本当は母の様子が気になったから追いかけたなんて伝える素直さは当時の私にはなかった。ましてや、謝るなんてできなかった。

高校卒業後、私は海外の大学に入学した。

気づいたらいつも母にテレビ電話をしていた。海外に居ても、事がうまくいかなかった時、テレビ電話ごしで母に八つ当たりした。逆に嬉しいニュースも母にはいつも一番に知らせたかった。

海外から帰る度、母は聞く。

「何が食べたい?お寿司?」

「ママのごはんなら何でも。」

私の答えはいつも同じ。私が喜んでいると一緒に喜び、怒りは受け止め、どんな時も心に寄り添ってくれる。

そんな母が大好きだった。

母はいつも台所で私に背を向けていた。

でも母は私の事が嫌いなんかじゃなかった。仕事でどれだけ忙しくても、必ずごはんを作ってくれた。母のごはんはいつも温かかった。もう直ぐママになる私は母と一緒に台所に立ち、母から料理を教わっている。そして、あの時こんなひどい事言ったよね、と会話する。

今の私は、素直に言える。

あのころは、ごめん。

ママがママで良かった。

ほんまに良かった。

オーティコン賞

ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV

クマのぬいぐるみが飛んできて、僕の顔面に直撃した。投げたのは三歳年下の妹だ。このとき小学一年生だった僕は、負けじとそれを投げ返し、大ゲンカとなった。

原因はアイスクリームだ。チョコとバニラのどちらが美味しいかでケンカになった。

「私はイチゴ味が好きだな」とママが言うと、「俺はメロン味が好きだ」とパパ。「わしは何と言ってもあずきだ」とおじいちゃん。「私は抹茶味が好きですよ」とおばあちゃんが言った。するとだんだん皆ムキになりだした。

「イチゴが一番美味しい!」「いや、メロンだ!」「あずきだろう」「抹茶ですよ」と、果てしない論争になろうかというそのときである。「もう! みんなやめなしゃい!」と仲裁に入ったのは、なんと妹。

「アイスクリームのことでケンカなんかしないの!」

途端に全員大爆笑。なぜみんなが笑っているのかをわかっていないのは妹だけだったが、つられて妹も笑い出した。

翌日、父がアイスクリームを買って帰ってきた。家族それぞれが好きな味のアイスクリームをひとつずつである。家族皆で食べるアイスクリーム。自然と皆に笑みがこぼれる。僕と妹は、みんなから少しずつ分けてもらって食べてみた。パパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゃん、妹、そして僕。「六色アイスクリームだ!」と僕が喜んでいると、母が言った。

「来年は七色になるかもね」このとき、母のお腹には新たな命が宿っていたのである。「きっとチョコが好きになるよ!」と言ったら、「バニラだよ」「イチゴでしょ」「メロンだ」「あずき」「抹茶ですよ」と、また始まり、最後には皆で大笑いになった。

きっとお腹の赤ちゃんも、楽しくて笑っていたに違いない。

家族って、最高だ。

ドラマのあるシーンが好きだ。

朝、出勤で家を出る。少し歩き振り返ると、ベランダから手を振る妻の見送り。優しく背中を押してくれる、じんわり暖かくなるシーンだ。

嫁さんは寝起きの悪さも相まって出てこない。ある日、このシーンが大好きだ!とダイレクトなアピールをし、翌朝口元をほころばせて振り返った。妻はいなかった。

あれはドラマの演出だ。過剰演出だ、クレームものだ。くすぶる気持ちの消火に努める。

私のオカンは昔から心配性で、小さい頃はよく見送りに出てきた。思春期の頃はそれがうざったく思え「出てこんでええよ!」などと声を荒げたり無視したり、ひどい扱いをした。それを今度は他人に求めるのだから、全く現金なやつだと我ながら呆れた。

そんな日々に思わぬ転機が訪れた。子供を授かって1年半。植物に話しかけるほど丁寧に朝を過ごすタイプの私だったが、子育て世代の朝は忙しい。洗濯干して洗い物、「おあよっ!」起きてきた息子に高い高い3ストローク。そうだ火曜はゴミの日、まとめなくちゃ、三角コーナーも忘れずに。振り返るのも忘れるほどバタバタと用意をする。

ゴミ袋を手にドアノブをひねる。ねえ!背中に声が飛び、少し苛立ちが混じった顔で振り返る。

「バーバイッ」

子供が玄関で手を振っていた。大変潤んだ瞳でムチムチの腕を何度も振っていた。ぼくも外であそびたいのに…絵本読んでけよ…様々な要素が入れ子状になっているのを無視し、ただ父との別れを惜しむ無垢な少年の顔と理解した。

「有給」頭に浮かんだグッドアイデアをかき消しながら、一路会社へ足を向けた。

歩きながら、オカンの偉大さがじわじわと分かってきた。見送るのは、ただ心配なだけでなく、忙しい日常の中で互いに向き合える僅かな時間の確保でもあるのだ。

共働きで家にいないオカンが、まばたきのような時間でも、自分を見て相手を思える代えがたい瞬間。

息子が部活でも反抗期でも、見送ってあげよう。続けることに意味がある。そしてそれを見た嫁さんが、いつかベランダに現れることを願おう。

親父とはあまり話をしたことがなかったのに、いつの間にか亡くなってしまった。

だから、自分の息子とは、二十歳になったら一緒に酒を飲んで話すことが憧れだった。

息子とはよく遊んだほうだが、地元の野球チームに入った頃からは遠くから見守るようになっていった。少し寂しかったが、息子が社会に適応していく姿をたくましく思った。そして成人式を迎える歳になった。

これは嬉しかった。

誕生日を迎えてすぐに、「飲みに行こう」と誘った。

息子は「いいよ」とあっさりと賛成してくれて、もっと嬉しくなった。

ふたりで夕方に落ち合って、ワインの飲めるバーに行った。

息子がどうせ飲むならワインを飲んでみたい、と言ったからだ。

息子はアルバイトを早めに終え、待ち合わせ場所に来た。

二人で行ったのは駅前のビル地下にあるワイン色の壁に覆われた小綺麗な店だった。

さて、どんな話をしたのかはよく覚えていない。

息子が思ったより酒に強いとわかり、あらゆる種類のワインを片っ端から飲んで、オードブルを食べて、素晴らしい時を過ごした。

長年の夢がかなった喜びで私は酔いすぎてしまった。

五時間ほどその店にいたろうか、会計をして外の風を浴び、息子にタクシーに乗せられて家に戻った、というところで私の記憶は途絶えた。

目を覚ますと朝になっていた。トイレに行き部屋に戻ると服が脱ぎ捨ててあり、カバンが無造作に投げ捨てられたままになっていた。

隣部屋の息子が起きてきたとき、「昨日は飲みすぎたようだが、お前は大丈夫だったの?」と訊くと、「父さんはべろべろだったよ。おれは気持ちよかったよ」と平気な顔で言った。

早くも親を越したかと、これもまた親として嬉しいのであった。

「親子の日」か。

また飲むきっかけが、できたぞ。

三菱地所・サイモン賞

お買い物券10,000円分

「今から行くはんで」

東北から関東まで、母はその日に飛んできた。

第二子を授かったとき、つわりがひどく、日常生活ができない状態となった。

私ひとりならまだしも、第一子がいる。

元気そのもので、体力を持て余している娘を目の前に、私はトイレに駆け込んで嘔吐を繰り返す。

娘は幼いなりに気をつかい、わがままを封印し、ひとりで遊んでいる。

健気さに涙が溢れてくるが、それ以上に胃液が出てくる。

このままでは、娘も私も耐えられない。

母に助けを求めるように電話した。

「もう無理だじゃ」

すると母は、電話を切ったすぐあとに、私の元へ飛んできてくれたのだ。

母は家に着くなり、たまっていた洗濯物や皿をじゃぶじゃぶ洗い、掃除機をかけ、娘と遊びながら身の回りのことを全てやってくれた。

当時の私は子育てサークルの代表を務めており、大きな行事を仕切っている最中だった。その件に関しても協力してくれて、母は私の不安を一切合切取り除いてくれたのだ。

「休むときは、ちゃんと休みへ」

懐かしい東北弁を聞きながら、私は安心して妊娠生活を送ることができた。

「迷惑かけてごめんね」

そう言うと

「親に迷惑かけなくて、誰に迷惑かけるの」

と、当たり前の顔をしてくれた。

「父さんも早く行ってやれってさ」

結局母は、私の容態が落ち着くまでそばにいてくれた。

そして、出産のときは数ヶ月間、実家で過ごさせてもらった。

父と母のサポートのおかげもあり、安産だった。

「なにか恩返ししたいと思ってる」

素直な気持ちを父に伝えた。

昔は言えなかったような恥ずかしい言葉も、大人になった今なら言える。

父は生まれたばかりの命を抱きながら言った。

「この子たちを大事に育てろ。それが一番の、恩返しだ」

父と母への恩返しのためにも、私は命を燃やして、子育てをしている。

大げさかもしれないけれど、もらった愛情に、恥じないように。

「母ちゃんカーネーション買ってくるけん!」

「ほうかい、楽しみにまっとるよー」

子供の頃、母の日にカーネーションを買ってくると言って出掛けた。

でもいつも花のことを忘れて夕方まで友達と遊んでいた。

「ゆうくん、カーネーションは買えたかい?」

母は帰ってきた僕に聞く。

その時に僕は当初の目的を思い出し、たじろいで嘘をついた。

「カーネーション売り切れだったんよ……」

そんな見え透いた嘘に母はいつも「そうかい? じゃあ来年は楽しみにしとるけん」

と笑って言った。

来年も再来年も同じ失敗をして同じ嘘をついた。でも母はいつも笑っていた。

いつの日か僕は、母の日も忘れてカーネーションの話すらあげなくなっていた。

でも母さんは僕の誕生日は絶対に忘れない。サッカー部の試合にも必ず駆けつけて

一生懸命声が擦れるまで応援してくれた自慢の母さんだ。

社会人になっても母さんは陰ながらサポートしてくれた。食べきれなくなったから

と地元のみかんをたくさん送ってくれた。僕は何も返せてないと訴えると、母はま

た笑って首を横に振った。

二十三歳になってようやく僕も落ち着いてきた。

僕は二十三年間の思いを込めて花を贈った。二十三年間渡せなかった二十三年分の

二十三本の赤いカーネーション。

「母さん、二十三年間ありがとう。渡せなくて本当にごめんなさい」

「今年は売り切れにならなくてよかったね」

母さんは笑ってそう言ってくれた。僕は思わず泣きそうになって「そうだね」と答

えた。

僕の母さんは世界一の母親です。

「大事な話があるから、飲みに行こう。」

静岡にいる父親から突然こんなメールが届いたのは、6月末のことであった。

10年前に一人暮らしをはじめ、両親とは年に数回しか顔を合わせなくなっていた。そんな父からこんな文章が届いたものであるから、私は慌てて実家の母に電話をし、父に何かあったのかおそるおそる尋ねてみた。

しかし、母は

「いや、何の話なんだろう。よく分からない。」

と、母もこの父からの突然の誘いの真意がわかりかねている様子であった。

なんだか不安ではあったが、とはいえ父の誘いを断る理由もなく、結局7月15日、京都の四条南座前で父親と待ち合わせて、(おそらく)産まれて初めて父親と2人で飲みに行くことになった。

 

当日はうだるような暑さで、汗を拭きながら南座前で待っていると、ほどなくして父が来た。

「おまたせ、とりあえずはお店に行こう。」

父はそう言って笑いながら背中を向けると、「昔よく接待で来ていた」という祇園の小料理屋に私を連れて行ってくれた。

席に座りビールをつぎ、さぁ、いよいよ父から大事な話が・・・と思ったが、一向にその「大事な話」が始まらない。母親の態度がでかくなっただの、定年後はこうしたいだの、父は笑いながら他愛もない話をするだけであった。私も久しぶりに父と話すため、話自体は非常に盛り上がったが、最後まで「大事な話」とやらは出てこなかった。

 

結局飲みは2時間ほどで終了し、父は上機嫌でそのまま新幹線で静岡へ戻っていった。安心したような、気味が悪いような、そんな不思議な心境で、とりあえず母に今日のことを電話で話してみた。母は

「それが、父さんにとっての大事な話だったんじゃない?」

と言った。

2人の子供を育て上げ、もうすぐ定年を迎えた父。社会人になった息子に、これまでのことやこれからのことを、酔っぱらった頭でああだこうだと適当に話すことは、きっと父にとってはとても楽しく、また大事なことであったのだろう。父と離れて暮らす私は、あと何日父と会えるであろうか。私にとっても父にとっても、あの時間というものは、かけがえのないものだったのかもしれない。そんなことを考えさせられた、京都の夏の一日であった。

毎日新聞社賞

MOTTAINAIオーガニックタオルハンカチ3種セット

「またお腹痛いの?毎朝毎朝そんなこと言っていると、本当にお腹が痛いときに信じてもらえなくなるよ。早く支度しなさい。」

娘が幼稚園から小学校1年生の終わりまでの4年間、それは毎朝続いた。

朝になると腹痛を訴えて身支度をしたがらない。幼稚園に送って行っても車から降りない。私と別れるのに大泣きし、20~30分は下駄箱にいた。帰る私を泣きながら追いかけてきて転んだ娘を、見ないふりをして無理に置いてきた。罪悪感でいっぱいだった。楽しそうな同級生と比べ、なぜうちの子だけ・・・と悩んだ。小学校でもそれば続き、下駄箱や教室まで毎日一緒に登校し、私から離れる時には泣いていた。

なぜそんなに学校が嫌なのかと問う私に、「学校に行きたくないんじゃない。お母さんと別れたくないんだよ。ずっとお母さんと一緒にいたいだけなんだよ。」そう娘が口にしたときに、ハッとして申し訳ない気持ちでいっぱいになった。今までは言葉にできず、お腹が痛いと言っていたんだね。こんなこともわからないお母さんでごめんね。心からそう思った。

ちょうどその頃、娘と読んでいた『げんきさんからのてがみ』という本で、入院中の母親が「げんきさん」という名で娘に手紙を出し元気づける内容だったので、私も真似することにした。本の影響で、娘は毎日帰宅時にポストを確認する。

『ゆうなちゃんへ いつもポストをみてくれてありがとう がんばってがっこうにいってること しっているよ おてつだいもたくさんできるんでしょ ゆうなちゃんのおかあさん よろこんでいたよ げんきさんより』

娘に短い手紙を用意して、家のポストに入れておいた。すると帰宅した娘が、手紙を読みながら泣いているではないか。娘は、なぜ涙が出るのかわからない、と不思議がっていたのだが、娘の辛さに向き合ってあげられなかった自分の罪滅ぼしが、少しはできたのではないかと思った。それから娘は徐々に一人で登校できるようになった。そして、6年生になった今でも、毎日ポストを見るのが日課だ。

※参考文献 『げんきさんからのてがみ』(あかねおはなし図書館) 著 わたりむつこ

それは十二年前、私が二人の娘に言った言葉です。

その年私は妻を病で亡くしました。そして私の子育てもこのとき始まったのです。しばらくの間、会社勤めと家事の間で私は右往左往する毎日となり、その為か会社では家の事、家では会社の事が頭をよぎり両方うまくいかない事が多くなりました。そしてその事が、さらに私をいらつかせ、いつのまにかきつい言場を娘達に投げかけるようになっていきました。とくに小学五年生になる長女は私を避けるように自分の部屋にこもる毎日でした。

そんな日々が続いたとき、私が部屋を掃除していると、偶然料理が好きだった妻の鏡台の引き出しから何枚かのメモ書きされたレシピを見つけました。きっと退院したら子供たちに作ってあげようと思ったのかもしれません。

私はその中で唯一作れそうなチーズ入りオムライスのメモをとり休みの日に作りました。味も形もとても妻に及ぶはずもなく、それでも「お嬢さん、オムライスをどうぞ」と言って、少し焦げたオムライスを二人の娘の前に置きました。

長女は黙ったままでしたが少し笑ってくれたような気がします。

「どうだうまいだろう」と、今度は次女に声をかけると、

「お父さんも料理できるんだ」と、次女はいたずらっぽい笑顔で私に答えてくれました。それからでしょうか、ゆっくりとですが、穏やかな時間を子供たちと過ごすことができました。そんな娘達も今では一人前の社会人になりました。

「今日はなんだ」

休みの日、地元の小学校で給食を作っている長女に声をかけます。

「卵あるから、オムライスだな」

いつものようなそっけない答え。でも二人の娘達と目を合わせながら食べる食事の時間は、今の私の宝物なのです。

両親が離婚した日、お母さんの仕事はおとうさんになった。

わたしは小さいおかあさんになった。

母とわたしのこどもは5歳になったばっかりの私の弟。

がむしゃらに生きた。

反抗期を迎える暇なんてないくらい。

レシピ本とにらめっこしながらみんなのご飯も作った。

豆苗は水をあげていたらまた育って食べられるよ、なんて節約術もおぼえたり。

お金を稼ぐことができない学生時代は必死に勉強した。市の中では有数の進学校。

学年一番になったときにはこっそり泣いた。

弟も大好きなサッカーで結果を残し、家にはたくさんのトロフィーでいっぱいになった。

わたしたちの運動会も文化祭もお母さんはひとりで働いた。

みんなはお母さんのところに帰っていたけどわたしは弟と2人。

なんでなんだろう。たった「3人」集まるだけなのに。

涙が出ることもあった。

弟だってそうだ。周りはお父さんとキャッチボールやゲームをしてくれていた中、一人で壁あてをしていた。

でも、お母さんの姿を見ていたらさみしいなんて言えなかった。

お母さんはいつも笑顔で帰ってきてくれた。2人はいくつになってもはしゃいで出迎えた。

3人そろう時間が本当に幸せだった。

いや、幸せなつもりだった。でも、本当は我慢してたんだ。

本当はリレーで選ばれたところを見てほしかった。参観日には後ろを向いてお母さんの姿を探したかった。

弟は「なんでぼくにおとうさんがいないの」とつぶやいていた。

わたしたちはわかっていた。

「さみしい」って言いたかった。

「おかえり」って言ってほしかった。

それから15年。お母さんがおとうさんを辞める日が来た。

私もおかあさんを辞める日が来た。

お母さんはお嫁さんになる。もう一度幸せになる。

私の新しいお父さんは随分おじさんだけど、本当のお父さんより優しそうだ。

弟も、認めているから、たぶん、いいひと。

だから我慢した分、私はこどもに戻る。

ばいばい、ちいさいおかあさん。

円谷賞

『ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!』
Blu-ray限定版&レイバトス限定カラーver.スペシャルセット

20時を過ぎると妹たちの充電がそれぞれに切れ始める。眠たさを涙の量で示すのは一番下の抱っこちゃん。今日という日を幼稚園で生き抜いてソファーでスッと電源がオフになるのは真ん中の全力少女。この2人がベッドへたどり着く前に息絶えてしまったら、それぞれを2階へ運ぶのはママの仕事だ。10kgと17kgを抱えての二往復を終えるとフゥ~っと言うのだけど、リビングに戻るとそそくさとソファーに横になって目をつぶる1人の少年あり。『ベッドに行くよ!』そう言ってもピクリともしない。

さすがに24キロを抱えるのはママの腰も悲鳴をあげてしまうのだけど。

だけど、最近、2人の妹のお兄さんを頑張ってくれているのをママは知ってる。

ランドセルを下ろした背中を見たら、今日どれだけ暑い中歩いて帰ってきたかも知ってる。

ママと手を繋いで歩いていて、妹が泣くとパッと手を離して向こうに行くのも知ってる。

今日のケンカは、我慢に我慢を重ねた結果振り払った手が当たっただけということも知ってる。

ママの右腕と左腕の腕枕が妹たちに取られて、1人で背を向けて寝ていることも知ってる。

そして、いま薄目を開けてママの様子をチラチラ見てることも。

こんなときにしか甘えられないお兄さん。ママの手が2本しかないばっかりに、3人同時に抱きしめてあげることができず、無意識に譲ったり諦めたりすることを覚えてしまったお兄さんだけど、1番甘えん坊だということも知ってる。

『寝てるなら』仕方ないから運んであげるけど、こういうときだからこそ抱っこしてあげなくてはならないのかもしれない。

抱っこして、『いつもお兄さん頑張ってくれてありがとうね。』

耳元でそう言うと、小さな声で『いいえ』とギュッとしてくれた。

やっぱり起きてた。

いま、耳元でどんな顔しているか、知ってるよ。

階段の途中で、力が抜けていく24kgがグッと重たくなった。

TSUTAYA賞

世界に1冊だけのオリジナルフォトエッセイブック

1988年に誕生したバンド、ウルフルズ。父はこのバンドのファンである。娘であるわたしも幼少期より外出中の車内で聴き続けた結果、5歳でガッツだぜ! を歌うまでに成長していた。

わたしたち親子は思春期の女子にありがちな、同じ洗濯機でパンツを洗わないで! という反抗期がなく、喧嘩しつつも仲良く過ごしていた。しかし高校2年生の頃、学校でのストレスが原因で以前のように振る舞えなくなってしまう。父はそんな様子を察してか、わたしに対して詮索をしなかった。今考えると父なりの配慮だったのだが、当時のわたしは関心がないから聞いてこないのか、と受け取り、嫌悪感を露わにしていた。そして以前は大好きだったウルフルズも、すっかり聴かなくなっていたのである。

数年後、社会人になったわたしはインターネットでウルフルズのライブ情報を見つけた。高校生の記憶がしこりのように残っていたわたしは、父をライブに誘ってみた。ライブは平日の夜だったが、父は二つ返事で参加してくれるという。当日は待ち合わせ場所に着いたわたしは父の姿を探す。するとスーツ姿でこちらに向かってくる父を見つけた。そのときに初めて、疲れている平日ライブに付き合ってくれる今も、高校生の頃なにも聞いてこなかった当時も、すべて父なりの優しさだということにはっきり気がついた。相手がすぐに気がつく優しさがすべてではないのだ。

ウルフルズの歌声は力強くて、父もわたしも全力で楽しんだ。帰りの電車ではいつもより会話をし、いつもより笑った。素直にありがとうと言えないわたしだが、伝え方は言葉だけではない。不器用なりに優しさを大切にすれば、自然と相手の気持ちに寄り添うものになっているのだ。いつかわたしが結婚式を挙げるとき、ウルフルズを式場いっぱいに流してあげよう。それがわたしなりの感謝の気持ちの表し方である。

親子の日賞

「親子の日」オリジナルグッズ

突然アメリカ人 10 歳男児の母になった。

血のつながらない里親だ。

実母に続き、母親役から捨てられ続けた彼は母親不振だった。

可愛いかったのは最初の 1 ヶ月。

その後は反抗期に突入だ。

難解な喜怒哀楽の激しい波にもがき続けた。

何度里親をやめようと思っただろう。

ソーシャルワーカーに里子を引き渡す覚悟をする度、何かが喉につかえて最後通牒が出せなかった。

そんな泥仕合を続けて半年が経ち、恐れていた日。

母の日がおとずれた。

彼は私を「母」と呼ばない。

例え自分を捨てた親であれ、血のつながった母には特別の愛着と絆があるのだ。

外見も違う私は彼にとってどんな存在なのだろう?

汚れた野球のユニフォームを洗う係、夜遅くまで宿題に付き合う人、それとも口うるさいお節介者?

翌朝目を覚ますと、ベッドの横にキャンドルがあり、「ファミリー」という字が目に躍っていた。

用意してあったキャンドルを寝ている間にこっそりおいてくれたのだ。

嬉し泣きを知らない彼は私の涙に戸惑いたくなかったのかもしれない。

数日後のセラピーでのこと、彼は手持ちぶさたに絵を描きだした。

彼を真ん中に私と主人と三人で歩いている姿だ。

「一、二、三、ファミリー」も文字が涙でかすんだ。

八ヵ月後、彼は遠縁に引き取られることになった。

凹凸の激しかった14 ヶ月を振り返って思い出せるのは、不信感をようやく払拭し、失った幼少時代を取り戻すかのように甘える姿。私にだけ見せたあどけない表情だった。

彼の変化を見守ってきたセラピストが言った。

「あなただけが彼を捨てなかった母親よ」

ついに別れの時が来た。

最後の言葉を選びかねていると、彼が口火を切った。

「大好きだよ」

抱擁と愛情表現を拒み続けてきた彼が潤んだ目で抱きついてきた。

私たちは親子になっていた。

心のぶつけあいと忍耐、その繰り返しを通して彼が私を親にしてくれたのだ。

血や呼び名では語れない絆で結ばれた親子に。

父は俺が15才の時、家出した。

父は、家族でよく出かけた宝塚ファミリーランドの「メリーゴーランド」のことを覚えていてくれるだろうか?!

長蛇の列に並んでやっと俺の番になりゲートが開いた時、他人に大きな馬を捕られまいと、大急ぎで走ってくれた。

『危ないから、走らないで』

母が、外から叫んでいた。

『それいくぞ、いいか!』

父は、軽々、俺を抱き上げ大きな馬にまたがせてくれた。

逆に父は俺の横の小馬に腰掛けて

『ほら、まるで「お馬の親子」だなあ・・・ハハハハハハ・・・』

父の目が、優しく笑いかけてくれた。

やがて、メリーゴーランドがスタートし、メロディーが流れ、一周、二周・・・。

俺は英雄気取りだった。

回っていくと、外で待機している母は、俺の姿を見ては手を振ってくれる。

それが妙に嬉しくて、そしてちょっと照れて。

あの時の俺は、純粋で素直だった。

幼児、少年、そして大人になった。

青年となり、社会人となった俺を父は全く知らない。

もう随分会っていない。

俺たち家族のことに、興味や関心がないのかと思うと、何かしら、やるせない気持ちだ。

父は酒が好きだった。

TVドラマで親子が酒を汲み交わすシーンをみると焼けに羨ましく思う。

そんな父と共に、腹わたに沁みる酒を呑みたいたいと思う。

その時には、親子としてだけでなく大人どおしの話を熱く語りあいたいものだ。

父に会いたいと思う。

七夕の日、小三の娘が学校から笹飾りの短冊を持ち帰ってきた。

そこには、丁寧な文字で「いしゃになれますように」としたためられていた。

五年前、私は乳がんを患った。手術や抗がん剤治療を受け、しばらくは肉体的にも、精神的にもかなりつらい日が続いた。

しかし、治療が功を奏したこと、また何よりも家族の支えのお陰で、再発もなく元気に過ごせるようになった。

だが、昨年の九月の検診の際、再発の疑いありという結果が出た。

更に詳しい検査が行われたが、きちんとした結果が出るまで約一ヶ月の期間を要した。

この間は本当にキツかった。

正直、もう一度ガンになるなんてとても耐えられそうになかった。

気持ちに余裕をなくした私は、母親である前に、一人の弱い人間でしかなかった。

その後、ありがたいことにガンは再発していなかった。

心の底から胸をなでおろした。

けれど、この先もこのようなことがないとは決して言い切れない。日々、気持ちをしっかり持って、地に足をつけて生きていかねばと考えるようになった。

ちょうどその頃から、娘が将来はお医者さんになって、病気の人を助けたいと言い出した。そんな夢を抱く娘をいとおしく、また誇らしく思う。

同時に、やはり母親の私が病気だから、そう言った将来を思い描くのだろうかと不憫に感じたりもした。

ちなみに短冊の「いしゃ」という文字をクラスメートの男子が「いしや」と読み、「お前、石屋になりたいのか」と言ったそうだ。

娘はたいそう憤慨していた。

話を聞いた私もついクスリと笑ってしまい、ますます彼女を怒らせてしまった。

娘の未来は、今のところまったくもって未知数である。

だが、どんな道を選んでも、私は娘の応援団でありたいと思う。

例えそれが医者であろうと石屋であろうとも。

昨春、故郷を遠く離れ、宮崎へ嫁いだ。

悩んだ末、二十年続けた教職を辞した一大決心。

「有加里の大好物、いっぱい入れといたぞ」宮崎へ発つ朝、父が蜜柑を持たせてくれた。

両親に見送られて機上の人となり、淋しさをえて食べた蜜柑は甘みより酸味が強かった。

そして始まった新生活。

宮崎でも運良く教職に就く事ができた。

でも激変した環境に馴染めず、心療内科に通う程心を病んでしまう。

ある夜、父からメールが届いた。『Re』返しの無精な母とは違い、父は必ず件名を入れる。

無精者のくせに、古希の老眼に苦戦しつつも娘の為にはメールを送ってくれる。

今夜の件名は…『有加里』本文を読む前から、涙。

『今日父は自転車で二十㎞も走った。相変わらず元気だ。有加里は元気か?また蜜柑送る』

…何よ、と全然関係ない話じゃん。

止まらない涙。

遠くとも私を大事に想ってくれる親がいる。だから有加里、もう少し頑張れ!

『パパ、私の名前、なんで有加里ってつけたの?』

父にメールで質問すると早速返信が届いた。

『星野有加里って、女優みたいに綺麗だから』

…パパは娘を教師じゃなく、女優にしたかったのかしら?

妙に可笑しくなって苦笑した。

数日後、職場の同僚に何気なく訊かれた。

「有加里先生は、食べ物なら何が好き?」

「静岡の小さい蜜柑が甘くて食べ易くて好き」
翌朝出勤したら、びっくり仰天。

「な、何ですかっ?この巨大な蜜柑はっ!」
机に堂々と鎮座する私の頭より大きな蜜柑。
昨日の同僚が、笑顔で答える。

「それ、宮崎の特産で世界一巨大な蜜柑。小さな静岡蜜柑も旨いっちゃな。でも大きな蜜柑を切り分け、仲良く皆で分け合って笑いながら食べれば、もっと旨いっちゃ!有加里先生、宮崎蜜柑も好きになっちょって」

同僚の粋な優しさに、思わず泣き笑い。

一つ釜の飯を食うがごとく、巨大な蜜柑を同僚達と分け合って笑顔で食べた私は、ようやくこの職場の仲間の一員になれた気がした。

大きな蜜柑を食べて、一回り成長。

だから、今度は私が父にを送ろう。娘が宮崎に根付いた印の果実を。

我家の息子たちは焼き魚が大好きだ。食卓に魚がならぶと目を輝かせて喜ぶ。魚の小骨が喉に刺さらないように取りのぞくのは、必然的に母親である私の役目なのだが、実は私は魚の身をほぐすのがそれほど得意ではない。

それでも不器用な手つきで魚の身をほぐす時、私はいつも祖父のことを思う。

私が子供のころ、私の為に魚の身をほぐしてくれていたのは祖父だった。

私と違って器用だった祖父は丁寧に魚の小骨を取りのぞき、私が魚を食べやすい状態にしてからお皿に手渡してくれた。

当時はそれを当たり前のこととして受け取っていたが、母親となり自分が子供達の為にその作業をするようになって、私は祖父がどれほど私を大切にしてくれていたかを、身を持って知ったのだ。

与えられる側から与える側となることで、ようやく気付くことのなんと多いことだろう。祖父母や両親の惜しみない愛情のおかげで今日の私がある・・・。

焼き魚の日は、いつも私に大切なことを思い出させてくれるのだ。

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