テキスト版:ちばてつや氏 – 未来への贈り物 ~Present to the Future~ vol.19

第19回オンライン・トークライブ「未来への贈り物(終戦特集)~Present to the Future~」
出演:ちばてつや氏(漫画家)
司会:関 智(編集者、プロデューサー)
ホスト:ブルース・オズボーン(写真家)、井上佳子(親子の日普及推進委員会)
主催:親子の日普及推進委員会
配信日時:2024年1月21日(日)10:00~(LIVE配信)
第19回目のオンライン・トークライブのゲストは、ちばてつやさんです。
本記事は、ちばさんが戦争体験をご自身イラストとともに、さながら紙芝居のように語った部分を取り出し、言葉遣いもそのままノーカットでご紹介しています。
<動画はこちら>
出演:
ちばてつや(漫画家)
1939年1月11日、東京生まれ。同年11月に朝鮮半島を経て、1941年1月に旧満州・奉天(現中国・遼寧省瀋陽)に渡る。終戦の翌年、中国より引き揚げる。1950年、友人の作る漫画同人誌「漫画クラブ」に参加。1956年、単行本作品でプロデビュー。主な作品に「1・2・3と4・5・ロク」「ユキの太陽」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」「みそっかす」「あしたのジョー」「おれは鉄兵」「あした天気になあれ」「のたり松太郎」など。
関 智(編集者、プロデューサー)
「POPEYE」「BRUTUS」「宝島」など、カルチャー雑誌の企画・編集に参加。現在は、日本工学院などの非常勤講師、刺激スイッチ研究所所長も務める。「親子の日」公式サイトの「せきさとるのムービー親子丼」を担当。
ブルース・オズボーン(写真家「親子の日」オリジネーター)
1982年から親子をテーマに写真撮影を開始。2003年より7月の第4日曜日を「親子の日」と提唱。「親子の日」などの写真を通じての社会活動が認められ東久邇宮文化褒賞を受賞。作家として「未来への贈り物〜Present to the Future〜」というメッセージの発信を続けている。
井上佳子(親子の日代表 プロデューサー、株式会社オゾン代表取締役)
ブルース・オズボーンの仕事とプライベートのパートナーとして数多くの展覧会やイベントをプロデュース。
ちばてつや氏、戦争体験を語る
関:2024年、第1回目のライブストリーミングです。今日は漫画家のちばてつやさんをお招きしました。よろしくお願いします。
ちば:よろしくお願いします。
関:ちば先生は、僕たちにとってはレジェンドの作家です。僕の体の一部はちば先生の漫画でできていると言っても過言ではない。「ハリスの旋風」「おれは鉄兵」「のたり松太郎」、全部アウトローが頑張る話です。今の時代、そういう話は非常に少なくなってきていますので、先生の反骨精神、逆境に負けない気持ちから学びたいと思います。
幼少期に満州で終戦を迎える
動画 13分34秒「引揚げまでの道のり」
関:早速、漫画家になったきっかけをお聞きしたいと思います。イラストを用意していただいたので、ご説明いただけますか。まずは、満州から引き揚げた時のお話からお聞きしたいと思います。
ちば:これは満州の我々が住んでた、中国大陸の東北部です。この赤で囲ってる所がね、鳥が羽ばたいてるように見えるでしょう? 頭とかはくちばしがあって、両手も広げてパタパタって、そういう形。子どもの頃に「ここに住んでるんだよ」って言われた時に、「鳥が飛んでるみたいだな」と思いましたけど。私たちが住んでたのは足のほうですね。足の付け根のあたり。奉天っていうのがあります。昔、奉天。今、瀋陽ですね。大都市ですけど。私は東京で生まれたんですけど、気が付いたら中国に両親の仕事の関係で連れて行かれて、そこで6歳まで育ちました。
関:6歳の時に終戦を迎えたんですね。そしたら様変わりされたわけですよね。
ちば:すごく楽しく、印刷工場で私の父親は働いてたんですが、そこの大きな、3mぐらいあるような、高い塀に囲まれた大きな会社の中の社宅で暮らしてたんで、本当に周りはみんな、同僚とかそういう仲間ばっかりだったんですけども。
動画 14分22秒「イラスト 社宅」
ちば:戦争が終わった途端に「ここは中国の土地だぞ」っていうことで、日本へ帰らなくちゃいけないっていうことになりました。もう何もかもみんな、そこは日本の大きな印刷工場だったんですけど、全部中国に渡してっていうか、取られちゃって。そこから逃げるようにして、日本へ向かったんですけど、なかなか日本へ帰ることできなかったですね。
満州の思い出
動画 15分18秒「タンフールー」
ちば:この今映ってるのはね、タンフールーっていう、向こうのお菓子ですね。串刺しになってるのはサンザシの実です。リンゴの小さいの。本当は酸っぱいんですけども、それに飴を付けてあるの、周りに。それで寒いから凍るんですね、それが。その飴が甘いのと、それから噛むとパリっていうんですね、凍ってるから。パリッて言って、よく噛むと中から酸っぱいのが出てくるんですが、タンフールーっていうお菓子。今でもね、中国行くと冬の名物ですね。今でも売ってる人がいます。こういう風にしてね、串に差して「タンフールー」って売りに来るんですね。とても安いお菓子ですけども、私は大好きでした。
動画 16分38秒「町歩き」
ちば:これは、すぐ下の弟。弟もタンフールー持ってますね。
街の中を放浪してる、放浪って言ったらおかしいな。私が見るとちょっと放浪癖があるんでね。大きな印刷工場の中で暮らしてたのに、外に出たくて出たくてしょうがなくてね。
しょっちゅう塀を乗り越えて、親には内緒でね、中国の街をあちこちさまよい歩いて、半分迷子になってるんですけども。だけどとても賑やかで、みんなが優しくしてくれてね。「てっちゃん、ああ、日本の子だ」日本人の子どももたくさんいましたから。そこでは、お饅頭を売ったり、鳥を売ったり、なんかいっぱいお店が出てるんですけど、そこでお菓子をもらったりなんかして。
関:じゃあ、とてもいい思い出ですね、ここは。
「バラバラになるかもしれない」慌てて撮った家族写真
動画 17分30秒「家族写真」
ちば:これは、写真ボロボロになってるでしょう? あっちこっちに、折れ目がつけてね。よく持って帰ったなと思うんですけども。引き揚げてくる時に、これ男の子が4人いるでしょう? 全部男なんですけど。私は長男だったんで、この真ん中のちょっと左にいる、おでこの広いのが私です。で、その隣が次男です。それからその隣が、父親に抱っこされてるのが、後に漫画家になった、ちばあきおです。それから、今母親に抱かれてるのがしげゆきという、一番下の弟だったんですね。弟、生まれたばっかりなんですけども、この写真を撮る時にもういよいよ、なんか雰囲気が、日本が戦争で負けたんじゃないかっていう、怪しげなところだったんでね、慌てて写真を撮ったそうです。もう、バラバラになるかもしれない。父親も徴収されてね、兵隊に取られたりなんかしそうだったんで、そういうことで、大急ぎで撮った写真だったそうです。で、その撮った写真を持って歩く時に、本当にいろんな荷物に紛れてボロボロになっちゃったんですね。よく持って帰りましたね。
動画 19分09秒「中国の友人」
今、ここに写ってるのは父親と、それから中国の友達ですね。私の父親はとても、誰とでも仲良くできる人だったんで、会社の中には中国の人も、それからモンゴルの人も、朝鮮の人も、いろんな人がいたんですね。だけどみんな友達になってね、よくうちで一緒にご飯食べたりなんかしてたんで、本当にそういう意味では、後でこの人たちに助けてもらうことがあったんで、そういうことっていうのはとても大事だなと思いましたね。
玉音放送を聞いた日の夜、中国人が襲ってきた
動画 19分51秒「終戦の日」
ちば:この絵はね、印刷工場の中です。それで、真ん中に、ちょっと左側にある、煙突から煙が出てると、これが工場長の家でね、この日はね、8月15日です。
関:昭和20年ということは。
ちば:終戦の日ですね。「ちょっと日本人だけみんな、工場長の事務所へ集まれ」って言われて、みんなそこへ集まったら、玉音放送を聞いたわけですね。要するに、日本は負けたっていうことをそこでみんな初めて知るわけです。この右のほうにいる、赤い帽子かぶってるのは私です。それから、ちょっと年上のお兄ちゃんとかね、一緒に遊んでた女の子とかいますけども、真夏の、暑い、セミが鳴いてる日だね。
よく見ると女の人が泣きながら出てきてますね、真ん中に。
関:これ、すごい良い絵ですね。
動画 21分18秒「暴動」
ちば:私の記憶をたどって描いた絵なんですけども。この時はまだ分かんなかったんですけども、その日の晩にね、中国っていうのはね、黄砂の関係でしょうか、真っ赤な夕日になるんですよ。世界中が真っ赤んなって、真っ赤な夕日を私はぼーっと見てたらね、印刷工場の高い塀を乗り越えて、人がいっぱい入ってきたの。ゾロゾロゾロって。はしごをかけて。そしたらね、手に手に棒持ったりなんかしてね、要するに暴動ですね。日本人を襲ってきた、中国の人や朝鮮の人やいろんな人がいますけども、ちょっとそれまでね、日本人がえばってたみたいですね。子どもだったからよく分かんなかったんだけど。だから、そういう意味で、日本が負けたっていうことで、今まであいつらえばってたから、仕打ちしてやるっていうような感じで、どっと来たんでしょうね。
怖かったんですけど、私は知ってるおじさんなんかいたから「チンさんがいる」とか「リョウさんがいる」とかつって、駆け寄ろうとしたら、母親に「うちへ入りなさい」って言われたの。「てっちゃん、何してんの、うちへ入りなさい」って言われたんだけど、私は「チョウさんがいるよ」って言ったら、「馬鹿っ」つって、抱えられてね。向こうに見えるのも社宅です。小さな家がたくさん建ってるでしょう。そういう中の1軒に私は住んでたんですが、そこへ。怖い目に遭いましたけど、ただね、うちは全然襲われなかったんですよ。ガラス1枚割られないでね。ただ周りでガッシャンガッシャン、悲鳴が聞こえたりなんかしたんで、ちょっと怖かったですけども。
一家で歩いて夜逃げ
動画 23分03秒「荷造り」
ちば:しばらくして、ここには落ち着いて住んでいられないっていうことで、みんなで旅支度をして。それこそさっきのアルバム、写真を。もう二度と写真は手に入らないから、写真もリュックに詰めたり。それから、生まれたばっかりの弟におしめが要るんで、おしめとか、粉ミルクとか、そういった必要最小限の物をみんな鞄に詰めて、夜逃げ同然ですね。昼間動くと中国人、朝鮮の人たちに、暴動を起こした人たちに何されるか分かんないから、夜中の12時にそっと裏門から出て、もっと安全な所へ行こうっていうことで、夜逃げすることになりました。
動画 23分58秒「夜逃げ」
ちば:その時の絵ですけど、真っ暗な中、もう本当に私もね、半分眠りながら歩いてましたよ。
動画 24分44秒「一家6人夜逃げ」
ちば:これが、一家6人、父親があきおを肩車してますね。母親は一番下の弟、抱っこしてます。母親が手つないでるのは、2番目の弟ですね。父親が手つないで一番右側にいるのは私ですけども、もう半分寝ながら歩いてるんですね。
今、もう世界中で戦争がありますね。そういう所を逃げて、故郷を追われたり、あるいは故郷を目指して帰ったりっていう、いろんな民族移動がありますけど。昔、今から80年前になりますね、ちょうど。こういうことをやってたんですね、我々は。
父が仲良くしていた中国人が助けてくれた
動画 25分55秒「父の友人」
ちば:これ、中国なんですけど、たまたま足が、血が出てきて歩けなくなっちゃった時に、みんなとはぐれてしまったんです。団体行動じゃないと危ないっていうことで、周りみんなを探したんだけど見つからないでいる時に、向こうから長い棒持った、クーリー帽って三角の帽子ありますね、笠をかぶった男が来たんで、襲われるかもしれないっていうんで、応酬で隠れたんですけども、見つかってしまったんですね。見つかったんだけど、何されるかなと思ったら、その人は父親の友人だったんです。
昔、ご飯食べたり、一緒に詩を作ったり、本を貸し借りしたような、すごく仲良しの。あの広い大陸の、もちろん市内ですからそんなに広い所ではないけども、そこでばったり会うことができた。しかも真夜中ですよね。しかも、迷子になって途方に暮れてたところなんで、この人がいてくれたおかげで、我々は6人、無事に帰れたのかなと思いますけども。
動画 27分18秒「屋根裏」
ちば:この人の家にしばらくお世話になることになりました。で、この人の住んでるとこだとね、ちょっと狭くてあれだったんで、物置の屋根裏に狭い部屋があって、そこにね、玉ねぎとか、ジャガイモなんかを普段置いとく所だったらしいんですけど。もちろん、その頃は食料難だから食料なんか一つもありませんでしたけども、ただ空間があったんで、そこに隠れていなさいと。で、仲間が見つかるまでそこに隠れてなさいっていうことで、しばらくここで隠れてた時期があります。
漫画家としての原点
関:絵を描いていますね。
ちば:この時、弟たちがね、みんな退屈で外、出たがるんですよ。特に天気がいいと、中国の子どもたちが近くで遊んでるでしょ。声が聞こえるとね、外へ出たがって泣くんですよ。ずっと閉じこもってますから。
で、弟たちを大人しくさせるために、私は持ってた紙に、紙が何枚かあったんで、それに絵を描いて、お話を聞かせて。紙芝居みたいな物を作って、見せてやってた時期がありました。
関:作家性の原点みたいな形ですかね。
ちば:私はそれに気が付かなかったの。後で何で漫画家になったのかなと色々考えてたら、母親たちが「あんたはね、あん時にこういうことしたよ」って言って。「徐さんの家の物置の屋根裏で、弟たちに色々絵を描いてあげてたでしょう、あれが原点じゃないの」って言われて、そうかって気が付いたの。
ちば:弟たちを楽しませるために、弟たちが退屈しないために一生懸命描いたことが、体に染みついてたんですね。弟たちが「この話の続きはどうなるの? この子はどうなっちゃうの?」とかって聞かれると、一生懸命考えて考えて、弟たちが「すごい」っていうような話ができたらいいなと思いながら描いてましたから、それは今の漫画を描く姿勢と変わらないですね。
動画 30分19秒「行商」
ちば:これは徐さんっていう、この手前にいる中国の、父親の友人ですが、この人に色々教わりながら、野菜市場だとかそういうとこに行って、いろんな物を買って、それをあちこちで売り歩く、行商を始めたんです。後ろにいるのは父親ですが、日本人がそういうことしてると何されるか分かんないっていうんでクーリー帽をかぶって、中国人のふりをしてね、
「千葉さんは口きいちゃダメよ」って。「シェイシェイって言うぐらいだったらいいけどね。あとは黙ってなさい。私に任せて」っつって。いろんなとこへ行商して歩いたんですが、行商する相手がみんな日本人です。みんな隠れている人たちがいっぱいいたんです、あちこちに。で、その人たちは怖くて外へ出られないもんだから、我々が色々持ってくと、野菜でも何でも、もう本当に飛ぶように売れるんですよ。
その頃は貨幣、紙幣はまだ使えてましたからね。そういうことをやって、売れ残りの物を食べたりして、命をつないで日本へ向かいました。
引揚げ船を目指し、徒歩で300km移動
動画 31分40秒「引揚げ船を目指す」
ちば:これは、日本へ向かう途中の絵ですが、ずっと向こうのほうに黒く帯が見えるでしょう? そこは鉄道なんですが、土手になっててね、その上を汽車が走ってて。その汽車に乗りたかったんだけど、その汽車もみんな中国に取られてしまったんで、みんなほとんど歩いてましたね。
奉天っていう、我々が住んでた所から、いろんな港が、あちこちにあったんです。朝鮮半島の港もあったんだけど、我々から一番近い所は・葫蘆(ころ)島っていう、島ではないんですが港があったんですね。そこへ行けば日本へ帰る船が出るよっていうことで、そこへ向かいました。
動画 32分53秒「引揚船」
ちば:これはその港に着いたとこですね。
関:ここにたどり着くまでにどのぐらいかかったんですか?
ちば:ほぼ1年ですね。私は7歳になってました。夏ですね、ちょうど7月。8月15日の終戦から逃避行が始まったとして、7月20日ぐらいでした。だからほぼ1年ですね。これは日本の、迎えに来た船なんですが、いろんな、これは右のほうにちょっと海が見えるでしょう。もう人がいっぱい、日本人がみんなそこへ集まったんで、港が見えなかったんですが、海だったんですね、ここは。
動画 34分00秒「引揚船写真」
ちば:これはその時の写真ですね。ほろ島の船に乗るのを待ってる、我々同胞の人たちが。私たちは300kmぐらいだったんですけども、もっともっと北のほうの町からも帰ってきた人がいました。だから、本当に疲れ果ててたどり着いたんですね、みんな。
関:すごい距離ですね。
ちば:まあ、ただ歩くだけじゃなくて、どっかに隠れながらそこにしばらく住んでるっていうこともありましたからね。
動画 34分39秒「乾パンとスープ」
ちば:ここに今あるスープと、それからこれは乾パンですね。これは、船に乗った時に渡してくれた食料です。我々はもうほとんど、コーリャンだとか、ひえとか、あわとか、そういう雑穀類を何とか手に入れて命をつないでましたけども、この船に乗った時に初めてこの乾パン、穴が2つ空いてる乾パンね。それからスープにちょっと醤油と、何かちょっとキャベツかなんか刻んだのが入ってたかな。ほとんどスープでしたけども、とってもこれが美味しくてね。それから、これお守りでしたね。誰かがくれたお守り。
日本に到着。父に「高い高い」されて見た祖国
動画 35分51秒「日本」
ちば:その船に乗ってずっと帰ってきたんですが、「日本が見えたぞー!」って言って誰かが言ったんで、船の上でみんな、甲板にわーっと集まって、それで見たら向こうから島影がだんだん近づいてきたんです。
関:それが祖国、日本だったんですね。
ちば:私は父親にこうやって抱っこされて、高い高いされてね、それで見ましたけども、これは博多港です。終戦から1年かかってやっと着くことができました。それからまたしばらく、日本でも、あちこち帰るところ探して、列車も満員でなかなか乗れなかったんですけども。だから、やっぱり1週間ぐらいかかって私の父親の生まれた所にたどり着いたところです、これは。
動画 36分54秒「父の生家」
ちば:おばあちゃんがね、最初ねトントンって戸をたたいても、夜着いたもんだから開けてくれないんですよ。で、諦めて、じゃあ近くに親戚の家があるから、そこへ行こうって行きかけたら、「誰だ?」って声が聞こえたの。慌てて戻ってね「まさやだよ。まさやが帰ってきたんだよ」って言ったんだ。そしたらね、パッと、パパッと電気がついてね、ダダダダって走り回る音がしてね、それで、ガラガラって戸を開けて、バッと開けたところですね、これ。おばあちゃんが何て言ったかって言うとね、「あんのこったいやー!」って言ったんです。
関:それはどういうこと?
ちば:「何のこと、これは」っていう意味ですね。要するに夫婦2人で行ったのに、子どもがいつの間にか4人に増えて。しかも、電話も何もしないで帰ったもんだから、電話って言ったって、ないですもんね。電話もなかったですから、その当時は。しかもボロボロになって、6人立ってたんで。おばあちゃんもびっくりしたでしょうね。本当に、その時のおばあちゃんの声は忘れられませんよ。
動画 38分51秒「向島」
ちば:そこでしばらくお世話になって、父親が東京で仕事することになったんで、1年ぐらいたってから、この絵が描いてある隅田区の向島っていう所に父親が、右側に板が見えるでしょう、バラックみたいな安っぽい家ですけども、自分で建ててくれたみたいだね。そこへ移り住んで、この近所にいる4人の兄弟と、それから近所の子どもたちと記念写真を撮った、それを絵にしたもんです。坊主頭の子が私でした。
小学校で漫画に出合う
動画 39分28秒「千葉県の小学校」
ちば:ちょっと戻りますけども、千葉県のおばあちゃんのいた所から小学校に通い出したんですね。その時の記念写真です。学校はもう始まってましたけど、子どもがすごく多かったんで、2部制でした。午後からっていうこともありましたね。
動画 40分04秒「木内君」
ちば:これはね、東京に引っ越した時に、向島に越した時に、そこにいた同級生の男の子。こっちに背中向けてるのが木内君っていう、お坊さんの子なんですけども。体の大きい子でね、
まあ私がチビだったんですけども、その子が漫画を描いてたんですよ。私、漫画知らなかったの、それまで。漫画っていうの、この世にあるのを知らなかったんです。絵本だとか、絵物語とか、そういう物は見たことあるんですけど、漫画見たことなかったんで、まあびっくりしました。そしたら、その木内君は自分で絵を描いて、漫画を描いて、同人誌みたいなの作ってた。同人誌って知ってますか。私が小学校の時に、教科書の脇にちょっと食べたい物の絵を描いたりして遊んでたら、それを覗いて「ちば君、絵がうまいねえ」つって覗いて、
「一緒に漫画を描かないか」って言って、それで漫画を描き始めたんですね。
漫画っていうのは、本当に私にとっては大変なカルチャーショックでしたね。
戦争が終わって、すぐに平和になるわけではない
動画 41分58秒「両親」
ちば:引き揚げてくる時に、私たち一家はいつもずっと一緒でしたけどね、両親とも私、何か食べてるの、見たことないんですよ。何か手に入ると、子どもにって言って、我々にみんなくれてしまうんですね。だから、母親も、乳飲み子抱えてたのに、おっぱい出なくなっちゃって。コーリャンを噛んで、よく噛んで噛んで噛んで、で、もう本当にスープみたいになったところを、一番下の弟には口うつしで飲ませたりなんかしてるのを見たことあるんですけど、自分たちが食べてるとこ見たことないんです。きっと相当無理したんだろうなと思います、両親がね。だから、帰ってきてから相次いで病気したりしてね。栄養失調で。弟たちも私たちもそうでしたけども。
戦争が終わった途端に平和になるんじゃないんですね。後がずっとしばらく残るんです。傷跡が。だから、日本へ帰ってきてからも、上野駅だとか、いろんな所にね、行き倒れっていうか、要するに食べることができないで死んでいく人がたくさんいました。もう本当に戦争っていうのは悲惨なことでね。
動画 43分59秒「丘で俯く人」
ちば:しかも、子どもとか女性とか、病気の人とかお年寄りとか、そういう弱い人から倒れていくんです。本当に戦争っていうのは悲惨だなということは、いまだに思いますね。
関:今、世界見ても、まだいろんなとこでそういう紛争が続いてますんで。ちば先生みたいな生の声を届けるってのはすごい大事だなと思いますね。
戦争体験を語り継ぐ重要性
ちば:我々の先輩にも戦争体験した人たちが、実際にまだ少し残ってますけども。その人たちも、もう80、87~8から100歳近いですから。残ってる人は本当に少ないですからね。
みんなで、いかに戦争っていうものが悲惨であるかっていうことは、何とか伝えていきたいなと思ってます。
戦争してね、誰か喜んでる人がいるんですよ。そういう人がいるから、戦争は止まらないの。そういう人が権力を持ってたりするから。よーく見て、この戦争は何で起きてんのかな。誰が喜んでんのかなっていうことをずっと見極めるとね、見えてきます。だけど本当に戦争を、わずかな人が喜んで、あとたくさんの人たちが苦しんでるんですから、何としてもやめさせなくちゃいけないと思います。
佳子:今、まさに起こっている戦争も、さっきのお話のように終わったから終わりじゃなくて、その後の傷跡は長いこと残って、回復するまでに長い時間かかるし。その記憶を、いつまでも忘れないで伝え続けてくれると嬉しいです。
ちばてつやの~Present to the Future~
動画 50分34秒「メッセージボード」
関:ありがとうございます。最後に、今後明るい未来になるための、先生からの未来へのメッセージをいただけたらと思うんですけども。
ちば:未来への贈り物ということで、こういうものを描きました。日本は災害、地震国ですから、火山国ですから、いろんな大変な思いがありありましたし、それから昔は戦争で大変でしたけども。「今は、日本の国は、WBCの野球の大谷君たちも、サッカー、体操、色々なスポーツで勇敢に戦います。だけど、戦争だけはぜーったいににしない国です。それが日本人の誇りです」ということを、みんな若い人たちもよく心に刻んでほしいと思うし、戦争だけは絶対にしない国、それが日本人の誇りということを。私も誇りに思いますし、若い人たちにもメッセージを伝えたいと思います。
関:ありがとうございます。肝に銘じたいと思います。
佳子:「親子の日」のメッセージは「生まれてきた命を大事に、親から授かった命を大事に次の世代にまた伝えていく」なので、今日、その思いを全て語っていただけて本当に感謝です。
関:今日は長い間、どうもありがとうございました。
ちば:ありがとうございました。