親子の日 エッセイコンテスト 2021 入賞作品

開催・応募期間:2021年5月25日〜7月26日

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

  • EPOS(イーポス) GTW 270 Hybrid 密閉型ワイヤレスイヤフォン(ドングル付属)

『おばさん!』なんて水臭い。『母さん!』って呼んでよね。
東アフリカに赴任して三カ月ほど経ち、隣のおばさんに強く言われてしまった。
赴任したその日から、夕食はおばさんの家族と一緒に食べた。
「日本から遥々やって来て、独りで食べるなんてことは許されませんよ。」
挨拶に訪れると、力ずくで家の中に引き摺り込まれたのだった。
私は二十六歳、まだ独り身だった。
三か月も「おばさん!」「おばさん!」と言い続けたものだから、いい加減堪忍袋の緒が切れたのだろう。村でも評判の肝っ玉おっ母さんで、面倒見のいいことといったらない。
「『母さん!』って呼ばせてもらいます。でも日本にも『母さん』がいるんですよ。」
「いいんじゃない。日本とアフリカに一人ずつ、二人もいるなんて素晴らしいわよ」
おばさんは五人の子持ち。その上に姪だの甥だのも居候しているから、大家族だ。
そこに私のような者までもが加わってしまったので、おばさんのなんとも大変なこと。
「家の子供たちの甘えっぷり、いつも見ているでしょう。
あなたも、思いっ切り甘えてらっしゃいよ」
そう言われたって、二十六歳にもなって、そうそう甘えるわけにもいくまい。
「母さん!」と呼び出して二、三週間もすると、違和感もなくなった。
なにかにつけて は、「母さん!」「母さん!」と多いに頼るようになった。
マラリアに罹った時、家族を放っておいても病院に毎日顔を出してくれた。「病院食だけじゃ、栄養も足りないよ」と、卵、肉、魚などの料理を差し入れてくれたり、洗濯もやってくれた。
血の繋がりはなくとも、「母」を演じてもらった。

オーティコンみみとも賞

  • EPOS(イーポス)H3 密閉型ゲーミングヘッドセット

世界が注目する東京オリンピックが1年越しで開催されるこの夏、私は父になります。
予定日までちょうど1か月を切ったところであり、愛する妻のお腹の中には娘が元気に育っています。「早く会いたい!」という期待と「自分が親になれるのか?」という不安の狭間に私は居ます。
親について考えると、やはり思い出されるのは自分の親です。
内気ながら優しい父と活発で明るい母に私、妹、弟の3人を育ててもらいました。
自分が子を迎える今になり、親の愛が如何に偉大なものかを思い知ります。
会社勤めをしながら連休に海や山へ連れて行ってくれた父。
喘息持ちの弟のために毎日這いずりながら掃除を続け、おいしい料理を作り続けてくれた母。
私が大好きなウルトラマンに会うために色んな所へ連れて行ってくれました。ウルトラマンがくれた光は私の心の芯であり、魂の支えとなっています。
良い、思い出です。
そんな両親は私達が成人してから離婚しました。
当時は「両親の問題」と軽く考えていました。しかし、両親が不仲になること。一緒にいた母親が居なくなる喪失感。想像以上に寂しいものです。
つらい思いをしましたが、親子の絆が切れたわけではありません。
両親はパートナーではなくなりましたが、「親」として私達を愛してくれました。
父は不器用に。
母は寂しさを埋めるように。
ウルトラマンゼロがウルトラセブンから受け取ったアイスラッガーに親の愛を感じたのと同じように、私も親の愛を強く感じました。
オヤジ。
母さん。
ありがとう!
次は私です。これから生まれる娘にどれだけのことをしてやれるのかわかりません。
不安でいっぱいです。ですが、楽しみです!愛する妻と共に娘がどのように育つのか見守ろうと思います。やりたいことが出来るよう、精一杯サポートします。両親に貰った愛を今度は娘に与えてあげたいです。
そして将来、一緒にウルトラマンを見たいですね。
家族で笑いながら。

私は昨年入籍した。
私の妻になった人は向日葵が大好きな人で、知り合った当初から毎年向日葵を育てては、満開になると写真を送ってくれていた。
一緒に住むことになり、庭がないアパートに妻を迎えた。
ふと、私は向日葵が育てられない環境だと気付き妻に「ここでは向日葵育てられないね、ごめんね。」と言った。妻は「今度、実家に行った時に引き継ぎ式をするわ!」と笑っていた。
後日、妻の実家に行った時に妻が義父に「向日葵の種を託す!大輪の花咲かしてね。」と向日葵の種が入った紙袋を一方的に押し付けていた。
義父には園芸の趣味はない。私は「無理やりいいのかな‥」と呟いた。
数ヵ月後、義父がニコニコしながら「家の向日葵は2mくらいあるぞ!立派だぞ!」と言ってきた。
妻と見に行くと、びっくりするくらいの大きな向日葵が沢山咲いていた。
妻は義父にそっくりの笑顔で「きれいだね。」と笑った。
義母から聞いた話しによると、妻は紙袋に種の蒔き時やら種類やらを書いたメモを入れておいたらしく、義父は娘が毎年大事に育てていた向日葵を任されたことにより、張り切り、園芸の知識もないまま、園芸店で妻のメモを見せながら肥料を買ったり、草むしりをしたり毎日水をやり「大きく咲けよ~、あいつが見に来たときビックリするくらいに」と妻を思いながら世話をしていたらしい。
妻が家を出てから寂しそうだったが、向日葵の芽が出ると、急に元気になって毎日、大きな花が咲いて妻が見に来てビックリすることを楽しみにしていたらしい。
妻と義父は二人でお酒を飲みながら向日葵で盛り上がっていた。
向日葵のような明るく元気な笑顔で。

実家のタンスを整理していたら、引き出しの奥に小さな古い箱を見つけた。
何だろうと思って開けてみると、入っていたのは私が子どもの頃にサンタクロースに宛てたプレゼントと手紙だった。
フェルトで作られたサンタクロースのマスコットは縫い目がバラバラで今にも壊れそうだし、手縫いのマフラーは明らかに短くて、サンタクロースの首に巻くのは苦しそう。
そういえば、クリスマスに間に合わないと、泣きながらマフラーを編んだことがあったっけ。
それから、サンタクロースへの感謝の気持ちと合わせて、なぜか学校での悩みや愚痴が書かれた手紙。
これら全てを両親が見ていたかと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
でも実は、私もサンタクロースからもらった手紙を大切に保管している。
英語で書かれた手紙には、「ありがとう、大好きだよ」と何度も書かれていた。
当時はサンタクロースからの手紙が嬉しくて、友だちに自慢したり、辞書で意味を調べたりして繰り返し読んだ。
しかし、大人になってから読み返したとき、明らかに母の筆跡だし、文法もめちゃくちゃで驚いた。
きっと母が辞書などで調べながら、一生懸命書いてくれたのだろう。
母が英語で手紙を書いているところを想像すると何だか可笑しくて、私はたまに手紙をよみかえしてクスッと笑い、元気をもらっている。
母が恥ずかしがりそうだから、母には内緒だけれど。
父も母も年を取り、毎日畑仕事をしながらノンビリと暮らしている。
私は育児やパートの仕事で忙しく、両親と会うのは一年に数回だけだ。
いつの間に何でも自分でできるような気になって、両親にはとにかく健康でいてほしいと思っていたけれど、両親に大切に育てられたからこそ今の生活があるのだと、かつて私が作ったサンタクロースのマスコットを眺めて思った。
親子そろって不器用だけど、愛情のいっぱい詰った箱に感謝の気持ちを込めて、私はそっと箱の蓋を閉じた。

毎日新聞社賞

  • MOTTAINAIキャンペーングッズ

私の父は謙遜しない。
特に他人から私のことを褒められた時なんかは、すべて受け入れてしまう。
例えば、久しぶりに会った親戚に「娘さん、どんどん美人になっていくね」と言われたとする。
すると父は、「そうなんですよ!美人すぎて心配で」と豪快に笑う。
幼い頃は“謙遜”とか“謙虚”という言葉を知らなかったので、自分のことを全力で褒めてくれる父が大好きだったし誇らしかった。
しかしだんだんと物事がわかる歳頃になると、恥ずかしくてしょうがなかったのを覚えている。
大学を卒業後、私は就職した会社をすぐに辞めてしまう。
そんな時に知り合いから「就職先をたった3か月で辞めたんですってね」と、父は嫌味を言われたらしい。
父は「せっかく就職したのにすぐに辞めることになり、娘はとても辛かったでしょう」と答えたそうだ。
その話を聞いて、いつだって父は私の見方なのだと強く感じた。
私のことを深い愛で包み、否定しないで育ててくれた父にはとても感謝している。
今では二人の子どもの母となった私。
「お利口なお子さんですね」と子どもを褒められた時、「ありがとうございます。
とっても頑張り屋さんなんです」と答える私は父と瓜二つで、毎回なんだかくすぐったい気持ちになる。

乾いた音とともに、白球が薄もやの中を突き抜けていく。
「ナイスショット!」
後ろで見ていた父が大きな声を上げた。
「おまえ、いつの間にゴルフを覚えたんだ。こりゃあ、俺よりうまいかもしれんぞ」相好を崩した父の顔。
こんなうれしそうな顔を見るのは何十年ぶりだろうか。
「それを目指してずっと練習していたのよ」
「そうか、じゃあライバルでもあるわけだ」
父の笑い声が響く。
ここは天国カントリークラブ。
一番ホール。
父が亡くなったのは一九九三年。
ゴルフが何よりも好きだった父は、いつものコースに向かう東北道での渋滞中、後ろから来た大型トラックに追突され六七歳で死んだ。
この世に未練はいくらでもあったろう。
もっともっとゴルフを楽しみたかったろう。
そんな父を喜ばせることはできないか。
浮かんだのは、いずれ父に会うときが来たら一緒にゴルフをやることだ。
「ようし、ゴルフができるようになってお父さんを驚かせてやろう、一緒にコースを回ろう」
ゴルフの経験ゼロだった私は真剣に取り組み始めた。
近くのゴルフスクールは月二万円でいくらでもレッスンを受けられる。
年に二百六十回も通った。
しかし運動神経が鈍いのか、開始年齢が遅かったのか、上達のスピードはえらく遅い。
ヘンなクセも抜けない。
とくにひどいのがクラブを振りきるとき、左ひじが外側に突き出るクセだ。
こんなクセがあったら父に笑われるからと、あれこれ試みるが、いつも左ひじは聞き分けがない。
あるとき押入れの奥から、横に細長く色の悪いカラー写真が出てきた。
軽井沢のゴルフ場で撮られた分解写真で、父のゴルフのスイングが10枚のコマ送りで写っていた。
初めて見る父のスイング。
最後のほう、左ひじが見事に外側に出ていた。
コロナ禍の中でもアウトドアのゴルフ練習場は開いている。
「さあ、お父さんを驚かせるんだ」
私は合言葉をつぶやきながら、今日も近くの練習場に向かう。
そして、明日も。(了)

私と母は驚くほどに似ていない。
見た目はもちろん性格も好みも正反対。
小柄で可愛らしい丸目の母に対し、私は背が高く切長のつり目。
母は明るく社交的で人当たりがいいのに、私は内気で人見知り。
母は文系、私は理系、母は甘党、私は辛党。
歌が上手な母に、音痴な私。
逆に、私は手先が器用だが母はかなりの不器用。

あまりに似てないので、中学生くらいの頃に不安になり 「私は、お母さんから生まれた本当の子供だよね?血が繋がってるよね?」と尋ねたことがあった。

真面目に心配している私をよそに、母は大笑いしながら答えた。
「何言ってんの、当たり前でしょう!あんたは間違いなく私の子だよ。」
そう言うと母は押し入れから何やらいろいろ取り出し、私の出生の証拠なるものを見せてくれた。

母子手帳に通院記録、そして一冊のアルバム。
アルバムには妊娠中の母の姿と、生まれたばかりの私を愛おしそうに抱く写真があった。
写真には丁寧にメモがつけられている。
「無事に生まれてきてくれますように。」
「こっちを見て笑ってくれた!すごく可愛い」
私はたまらなく嬉しかった。
別に、いくら似ていないとはいえ、自分が母の子供ではないと本気で思っていたわけではない。母が私を大切に想ってくれている事は分かっていたが、こうして愛されて大切に育ててもらえたことを手に取り目で確かめられたことが、たまらなく嬉しかったのだ。

「でも、私とお母さんって全然似てないよね。」
「そう?でもほら、目の数とかは一緒だよ!似てる似てる!」
なんだそれ、お母さんは本当に適当だなぁ。
私は母の笑顔につられて沢山笑った。
笑い過ぎて涙が溢れた。
太陽と月、白と黒、空と海。
正反対な私たちだけど、大丈夫。
だって私にないものはお母さんが、お母さんにないものは私が持っているから。
困ったことがあったら、お互いに助け合えばいい。
それは似ていない私たち親子の大切な共通点となった。

TSUTAYA賞

  • 「しまうまプリントFUJICOLOR高級プリント」クーポン券

八年間教員を勤めた私は、家業を継ぐため退職した。
昨春、長男が小学校に入学した。
長男が学校から持ち帰る「音読カード」を見て、教員時代を思い出した。
毎日宿題として出していた音読練習。「お家の方にチェックをしてもらうのだよ。」「昨日は誰に音読を聞いてもらったのかな。」朝の会と帰りの会には、お決まりの質問をクラスの子どもたちに投げかけていた。国語力は全ての教科の土台となるため、音読には特に力を入れていた。クラス全員で一斉に読んだり、男女で交代に読んだり、お気に入りの段落を選んで読んだり、楽しく取り組めるよう工夫を重ねた。
子どもが持ち帰った音読カードを見て、一緒に音読することにした。
当時を懐かしむ気持ちで読もうとしたが、我が子はすらすらと読むことができなかった。音読が苦手だということに気づいた。教員時代、子育て法やコーチングなど、保護者会や個人懇談会で具体的なアドバイスができるよう必死に勉強してきた。我が子が小学生となり、自身が学んできたことを実践しようとした。しかし、簡単にはいかなかった。やる気を出させ、継続させ、楽しませる。学校で保護者に語っていたことは、夢のような話だった。自宅学習の難しさを痛感した。今になってやっと、保護者の胸の内が分かるような気がした。
一日の中に『音読タイム』を作ることにした。
長男と私、各々の人差し指を教科書の文字に当てて、一文字ずつ丁寧に読んでいく。ゆっくりと、確実に、声を揃えて読むことを心掛けている。
『音読タイム』を始めて、一年が経った。音読の宿題は、私たち親子の触れ合いタイムとなっている。私は教員から保護者へと立場を変え、音読カードをチェックする方からチェックされる方へと変わった。チェックカードには毎回、先生からの二重丸が記される。「この二重丸は、先生からもらう『子育て頑張っているで賞』かもしれないな。」そんなことを考えながら、文字に人差し指を当てる私がいる。
これからも、親子で教科書に向き合う時間を大切にしていきたい。

円谷賞

  • ウルトラマンゼロ blu-ray BOX

朝の6時半。
もう外はすっかり明るく、隣に眠る息子の髪は少ししっとりとしている。
こんなに大きかったっけ、とパジャマのズボンから伸びた足を見て思う。
8年前の7月10日。
よく晴れたその日に産声を上げた小さな命は、あの頃を変わらない寝顔で、静かな寝息を立てる。8歳になった息子が、「これ、明日からやめる」と、毎日はいていたウルトラマンのパンツを指して言った。
3歳頃だっただろうか、ある時、目にしたウルトラマンの映像に釘付けになった息子の真剣な顔を覚えている。
引っこみ思案で、いつももじもじと私の後ろに隠れていた息子は、人形を握りしめ、変身アイテムを光らせ、誇らしげに画面の中のヒーローと共闘するようになった。
ボロボロになるまでめくり続けた図鑑で、カタカナを全部覚えた。
凍えるような冬の日、目の前に現れた憧れのヒーロー。
自分の足で、自分の気持ちを伝えるために、初めて息子が自分から私の手を離した。
ヒーローは膝をつき、不安と期待と何だかわからないぐらい大きな大きな感情でいっぱいの顔をした小さな息子を、抱きしめた。
あの瞬間を、私は今でも鮮明に思い出す。
息子が、あの子が、自分で一歩を踏み出した瞬間を。
「ウルトラマンの日」に生まれてきた息子は、ウルトラヒーローと一緒にここまで来た。
「そっか。わかった」と答えながら、思いを馳せる。
また君は、一歩踏み出した。
その一歩が道になり、君のまだ見ぬ未来へ続いている。
そのうちに私にはもう、追いつけなくなるのだろう。
私はその道の向こうに、あの日ヒーローの腕の中で見せたような、とびきりの笑顔に溢れる日が待っていることを願う。

でも、あともう少しは、私の手が届くところにいるよね。
だって、お出かけのカバンにはまだ、大好きなヒーローの人形を、そっと忍ばせる君だから。

CHOYA賞

  • Gold Edition 1名 (20歳以上の方限定)
  • The CHOYA Gift Edition(The CHOYA1年+3年のセット)1名 (20歳以上の方限定)
  • 梅しぼり 1名 (1ケース/125ml紙容器30本入り)

「酒が飲める人と結婚してほしい」
父の私に対する口癖だ。
お酒が好きな父は毎晩晩酌をする。
ビールに焼酎、ワインにハイボール。
多種多様なお酒を愛する父は私が小さい頃からこの口癖を言い、私もお酒が飲める人と結婚しようと思っていた。
のだが、実際に結婚をしたいと思った人はお酒が全く飲めない人だった。
私の実家に彼が結婚の挨拶に来た時、あらかじめ彼はお酒が飲めないと父に伝えたのに関わらず、父は彼にお酒を勧めた。
断り切れない彼は一口お酒を口にし、5分も経たず寝てしまった。
娘の夫になる人とお酒が飲めない現実と、飲めない人にお酒を飲ますなと家族から怒られて、父はしょんぼりしていた。
結婚後、夫となった彼と実家に度々遊びに行っている。
飲めない彼も飲めないなりに飲みたい時があるようで、少しお酒を飲んでは「布団使います!」と遠慮がなくなってきた。
その様子をしょんぼり見ている父。
しかし、私は彼が寝た後の時間が好きだ。
父とゆっくりお酒が飲めるから。
子どもの頃から父とお酒を飲むことが憧れだったのだ。
夫を見て、しょんぼりしている父には申しわけないが、私は父と2人で飲む時間を大切に感じている。
父にこの気持ちを伝えるのは恥ずかしいし、父が調子に乗りそうだなとも思う。
でも、せっかくの親子の日。
お酒を持って行って、「一緒に飲もう」と伝えたい。
ついでに酔った勢いで父とお酒を飲めることが嬉しいと伝えてみようかなと企んでいる。

昔から不思議だった。
なぜ母は父と結婚したのか。
とてもチャーミングで愛情深い母に対して、
父は言葉数も少なく、母の小さなお願い事も聞かない。
お嬢様育ちの母からすれば、一般的なサラリーマンの父に嫁ぐメリットは、
よっぽど性格がいいとか、愛情たっぷりだとか、
そんなものがなければないはずなのに、
父の性格は悪くもないけれど、とりわけ良い訳でもなかった。
なぜ母は父と結婚したのだろうか。
幼い頃の姉と私は、よくそのことについて話、
「お母さんは結婚失敗したなあ」
そう言った。
その度母は、
「なんでなん、お父さんってめっちゃ可愛いねんから」
と、言い返した。
愛情深さ故に父のことまで可愛く思えてしまうのだろう。
その一言は、父ではなく、母の評価をさらにあげるだけだった。
そんな母の言葉を理解できるようになったのは社会人になった後のこと。
ようやく自分自身も大人になり、
父を”父”としてだけでなく、”1人の大人”として見れるようになった頃。
父は可愛い。
毎晩仕事が終われば、
「今から帰る」
と、必ず連絡を入れる。
それは父を1人にして、
女3人で旅行に行っていても必ず帰る前には連絡が来る。
更に、父の日にあげた我が家の愛犬に似たスタンプを毎日送って来る。
買ってくれてありがとうと言わんばかりに、
スタンプを送った直後はそのスタンプばかりが送られてきた。
洋服に関してもそうだ。
誕生日に贈ったTシャツを、家族で出かける日には必ず着てくれる。
そして、それに気づいた私が、
「今日私のあげた服やなあ」
と言うと、
「たまたまやで」
と、ニヤニヤしながら言うのがなんとも憎らしい。
“父は可愛い”
父と子ではなく、対等な大人同士として立つようになって、
母の言う、父のかわいさを理解できるようになり、
母が父を選んだ理由もなんとなく分かった気がする。

教員をしていた私は、自分の子供と自分の教え子とどっちが可愛いと聞かれたら、言うまでもなく自分の子供と答えるだろう?本当にそうなのか?自分に問いかけると、もしかしたらそうではなかったのではないかと思うような気がするときがある。
三日間のキャンプから帰った生徒たちを首を長くして待っていた母親に引き渡す。くたくたの三日間の後の最後の仕事である。やっと終わって、家路に急ぐときに私の心の中にそのことはなかった。そのことを知ったのは数日経ってからである。
「〇〇ちゃんね、キャンプの重い荷物を担いでてくてく歩いていたから、『乗らない』そう言ったら『いい』そう言ってひたすら前を向いて顔を背けて歩いていったの」
ああ、忘れていたのだ。キャンプが我が子と同じ日だったことを。
私は死ぬまであの日のことを忘れないだろうと思った。キャンプから疲れて帰った子供たちを受け取る母親。飛びついていく生徒。
見ていたのに、自分の子供を忘れていた。
「私は、専業主婦になる」
「私も、お母さんのように仕事ばかりの親になりたくない」
二人の娘は揃って、結婚したときに口にした言葉である。私はうなだれて聞いていた。
しかし、結婚して十年もたった頃に、状況は一変していた。私が三十五才で教員になったように、おなじ年に奇しくも一人は再度学校に行き看護師に、もう一人も同じく再入学して通訳になった。
「お母さんと同じになっちゃった。お母さんのように絶対なりたくない、って思っていたのに」
二人は口を揃えて笑いながら言う。幾ら言われても胸をかきむしられるような私の心は変わらない。あの日の切なさは死ぬまで心の底に抱えていくだろう。子供たちには一言も言ってないけれど。

祭エンジン賞

  • 長崎県佐世保市 飯盛神社の御朱印帳/神饌/卓上神棚
  • 佐世保市九十九島の海鮮セット

最近、母から連絡が頻繁にくるようになった。
離れて探す娘を心配して、ではない。
孫と携帯電話でやりとりをしたいのである。
写真の送信方法やらビデオ通話のやり方やらを教えてほしいという魂胆である。
ああ、これまで、何度写真を送信する方法を教えてきただろうか。
もうとうに20回は超えている。
ビデオ通話だって、このボタンを押して、次はこのボタンを押して…。
我ながら根気よく何度も同じことを教え続けてきたものだ。
教えながら遠い目をした。
学校の先生って、大変なんだな…と。
そんな母の楽しみは、孫たちの成長なのだという。
弟たちの子ども、つまり母にとっての孫(私にとっては甥姪)は6人もいる。
ついこの間まで赤ちゃんだったのに、知らない間に寝がえりができるようになり、歯が生え始めた。
子どもの成長はあっという間である。
願わくば、母のガジェット操作も同じようにすくすくと成長してほしいと願う私である。

ただ、彼女が送る写真はいつも生き生きしている。
母の日に送った花束を嬉しそうに抱えた自撮り。
自慢の庭で育てたトマトを収穫する写真。
コロナでもう2年直接会えていない私にとっても、画面越しに母の笑顔を見るとホッとする。
だから何度同じことを聞かれても、私は同じようにやり方を教えている。
これは母には内緒だが。

家族のグループラインは、日々の出来事や写真で、毎日がお祭りみたいだ。
孫たちの満面の笑顔と、母の笑顔はなんだか似ているような気がする。
うちの一族は、笑うと目元が三日月の形になるのだ。
甥姪たちのくにゃりと曲がった目元と、母の目元はそっくり。
さすが家族。
携帯電話をふと開く。
そこにはいつでも、家族の笑顔がひまわりみたいに咲いている。

全染研賞

  • 誂え手拭(額装付き)
  • 本染手ぬぐい3枚セット(注染2枚+藍染1枚)
  • 合切袋(帆布+漆加工)

誰しも必ず親がいる。どんな親でも自分を生んでくれた大切な人だ。
そしてまた、自分も子供を産んだ親になる。
私には二人の子供がいる。二人共、私にとっては大切な子供だ。
新型コロナウイルスが流行するまでは、平和に過ごしてきたようにも思う。
もちろん、色々些細な事はあったけれど、「あの日」に比べたら平和だったと思う。
そう・・・日本で初めて緊急事態宣言が発令されたあの日。
学校も幼稚園も休みになって、私も長期休暇を余儀なくされた。
まだどんなウイルスか分からない恐怖から私はどこかに出かけるのも怖くなったし、公園さえ安全かどうか分からなかった。
そうすると、家か庭でしか時間を過ごす事が出来なくなった。
その日から、毎日庭で子供と一緒にダンゴムシを探したり、飼育してみたり、狭い庭の中で過ごす事になった。
今までにない、「親子の時間」!
自分も知らなかった、世界が広がっていた。
自分の家の庭の中には、たくさんの生物が生きていて、植物も虫も全てが私達に初めてを与えてくれた。
身近にあった、色々な発見。子供達は楽しそうに毎日を過ごしていた。
もちろん、毎食ご飯を作るのも大変だったし、子供の相手をするのも大変だったが、今ではもう決してない。
濃密で充実した時間だったと思う。
自分の親にも頼る事の出来ない、本当の「親子の時間」。
そんな貴重な体験は今ではキラキラ輝くいい思い出だ。
いつか大人になった時にあの狭い庭で過ごした、親子の時間を子供達が少しでも素敵に感じてくれたらそれ以上の喜びはない。
幸せとは身近にあって、ただ健康で一緒にいる。それだけで十分だという事を学んだ毎日だった。
いつかは自立する子供達。
一緒にいられるかけがえのない時間をこれからも大切にしていきたい。

大空出版賞

  • 絵本大賞第一回グランプリ受賞作品「うりぼうとお母さん」

今年の夏も、キュウリやカボチャが入った荷物が母から届くだろう。
りんごの空箱にたっぷりと入った荷物が。
秋にはりんごとぶどう、冬にもりんごが届き、野菜は大根にネギ。そして春は菜の花に新たまと新じゃかだ。
東京に出てきてからもう10年経つのに、母からは季節ごとに荷物が届く。
お米とお味噌とお醤油は荷物のスタメン、季節の野菜の他に、母手作りのしそジュールやらきゅうりの漬物やら、手作りにらせんべいまで届く。
まったく、過保護にも程があると思いながら、好物であるそれらの料理は届いたその日の夜にはたいてい食べきっている。
だけれども。送ってきた料理が入っているタッパーやビンを送り返してといってくるのはどうかと思う。
考えればわかる。
東京から田舎に、段ボールに空のこれらを詰めて送り返すより、新しく買ったほうがどう考えても安い。
だったら私が田舎に運んだほうが送料もかからないし、まあついでに帰省もできるし。
私はいつもそうして帰る。
キャリーケースいっぱいに入った空のタッパーは、東京に帰るときには中身を詰めて帰らされるものだから、また返しに来ないといけない。
29歳にもなって私は親から食料ばかりもらうし、まるで大学生みたいな生活をしている。
そう思っていた。
私には彼がいる。
彼にも田舎があり、東京に出てきている。
彼の家に行くと、見慣れない荷物の山があった。
中には肉が入っていた。
どうしたの、これ。そう聞くと「おかんが送ってきた、鴨」そう答える35歳、男性。母親ってみんなこんななんだろうか。
そう思いながらちゃっかり鴨のソテーをいただく私。
そんな私だが、今年は彼と田舎に帰省するつもりだ。
親が子供のことをどう思っているか、どんな気持ちか私にはまだ正確にはわからない。
この先、将来子どもを産んだら答え合わせができるんだろう。
だから子供の目線を忘れないうちに、伝えておきたい。
お米がなくなりそうなタイミングで、荷物送るよって連絡してくれてありがとう。
でも、どうしてわかるの?にらせんべい、いつもおいしく食べてるよ。
もっと送ってくれてもいいよ。
いちごジャムもありがとう。
でも、2瓶しかつくれなかったのに、大きい瓶の方を送らなくてもいいんだよ。
お母さんたちが食べて。
りんごもいつもたくさんありがとう。
キウイも。
値段、貼ったままだよ。
しかも高いやつ送ってくれたんだ。
お母さんいつも無駄遣いしないくせに。
お母さん、いつも私のことを心配してくれて、考えてくれて、分かってくれて、ありがとう。
また今年も、タッパーを持って帰ります。
それから、お母さんが食べたいっていっていたお菓子も買って帰るよ。楽しみにしていてね。

親子の日賞

  • 「親子の日」スペシャルグッズセット

いつもと変わらない、私たち家族の休日の始まり。
陽ものぼらないうちから1歳の次男が愚図りだし、まもなくして4歳の長男がはしゃぎ出す。
妻が2人を慌てて寝かしつけようとする傍ら、私はもうひと時の休息を願いながら布団をかぶ
る。
部屋に早朝本来の静けさが戻った頃、妻の口から深いため息が漏れた。
専業主婦の妻は、昨晩も次男の寝かしつけでろくに眠れなかったに違いない。
二人目の子が産まれ、私の残業続きが増えてから、妻の疲れた顔を目にする日も多くなった。
それでも毎朝変わらない時間に家族の食事を作り、洗濯機を回し、ゴミ出しと掃除のルーティンをこなす。
ワンオペでの家事や育児を任せている立場で偉そうなことは言えないが、大した妻だといつも感
心する。
家族のために働き続ける妻をどこか他人事のように見つめながら、苦いコーヒーをすするのが私の朝の日課になった。
こんなしんどい生活がいつまで続くんだろう。
恨めしそうに、いつもと同じ愚痴を妻がこぼした。
子どもの成長が見られるなんて幸せなんだから、しんどいなんて言うなよ。
うんざりした口調で、私はいつもと同じ返事をした。
子育ての意識がいつまで経っても交わらない私たち夫婦を、いつもと同じ重苦しい空気が覆った。
ドンッ…!
一閃、泣きじゃくる声がつんざいた。
ああ、また次男が突き飛ばされたに違いない…。
とっさに妻の苛立ちの矛先と、鋭い眼差しが長男に向かった。
大の字になって倒れた2人の息子がそこにいた。
「あのね、今、立って歩くの練習してたんだよ。
少し、一緒に歩いたよ。」
長男が自信げにはにかみ、続ける。
「成長してるんだから、しんどいなんて言うなよ。」
妻の目が点になり、私は思わずニヤリと笑う。
「そうね、しんどいなんて言っちゃいけないよね。
ママとパパも助け合わなきゃね。
今日から毎日ゴミ出しと掃除、しんどいなんて言わないで、お願いね、パパ。」
私の目が点になり、今度は妻がニヤリと笑った。
いつもと変わらないはずの休日。
子どもの泣きじゃくる声が、今日はひときわ大きく響いた。

深夜2時草木も誰もが眠静まる頃、小さな小さな身体を丸めて、
痛みと戦いながら先ず向かうのが台所。
『お早うさん!』と、糠床さんに声をかける。
小さな皺(シワ)でくっちゃくちゃの手で丁寧にゆっくり白菜を引き上げる。
父の大好物の「母の白菜の糠漬」を御仏前にお供えし、手を合わせ随分長い間目を閉じて最後に小さな声で囁く。
『今日も本当にありがとうございます。そして、出来る自分に感謝!』と。

母は昭和14年生まれの戦争体験者だ。
下町生まれで東京大空襲を目の当たりにした。
戦火が高まり疎開先は家族バラバラ。東京っ子は、かなりのいじめに合った。
『都会もんの泥棒はけぇれ!けぇれ!』
小さな女の子にでも石を投げつけてくる。
逃げて逃げて転んで、行き着いた土手野で見つけた土からほっこり出た
草の芽を夢中で摘んで食べる。
甘い春の味がした。
「蕗の薹(ふきのとう)」だったんだ。

疎開先から東京へ戻るも長く続く食料不足‥…。
私からすると、本当に苦労と苦難の日々だったと感じるが、母から辛かった事
や弱音を聞いた事は一度もない。
母の辞書に「辛い」と言う言葉が存在していない気がする。
いつも私は母の背中をみて、生き方を学んでいる、
戦火・戦後は東京の食料不足は深刻。
『スキボン』や『タキボン』と、言った野草採って食べる事しばしば。
無い食材を上手に美味しくお料理するのが「小さなお料理番長さん」。
僅か6才。
長女と家族7人分の食事を作った。
『すいとん鍋』をどうしたら美味しくできるか工夫を重ねる。
大根の皮は干すと甘味が増すので大根の皮を混ぜ、
林の果実の皮を乾燥させ、薬味に使う。
『大根さん!美味しくなぁれ!すいとんさん美味しくなぁれ!』
おチビさんは食材にもウンと優しい。
見た目も美味しく盛りつけて、どうしたら家族皆の食欲が出るか
元気が出るかと知恵をひねる!
この頃から、切り方、盛りつけ、幼いながらに工夫する。
★家族がいつも小さな料理人のお料理で笑顔になる。
『久美子は本当に工夫屋さんね!』と、七人家族は口を揃えて満足げ!
こうして、いつの時も「チビさんスペシャル!」は家族を幸せにした。

学生時代も「炊事場番長」、就職をしてからも『朝食・お弁当・夕食作り」は続く。
もちろん家族全員分!
★いつも皆の笑顔をするお料理を作ってきたのである!
そして、83歳の母は今も家族の総料理長として、私に指揮をしている。
生涯現役であってほしいと願いをこめて。

父は、大好きなねむの花の季節に、長引く風邪を心配して検査入院した。
私だけが医師に呼ばれて、告げられた病名と余命。
父本人には、告知はせずに入院。
当時、我が家の娘と息子は小学生。じいちゃん大好きの二人に本当のことはとても話せない。
母と弟、そして、夫だけが、来年のねむの花を、父は見ることができないことを知っていた。
朝晩、父を見舞い、子ども達と一緒に外出もした。
父は、わずか2ヶ月半で、泉下に旅立った。
父が亡くなってから、私は告知しなかったことや、同意した延命治療が父には悪かったのではないかと苦しんだ。
何年も、何年も、ねむの花を見る度に。
娘が中学生の時、私に言った。
「もし、お母さんが癌になって、私がお母さんのために、一生懸命看病して、それでお母さんが命を縮めたら、お母さんは私を恨む?そんなことはないよね。『心配させてごめんね、辛い目に合わせてごめんね。そしてありがとう』と思うよね。じいちゃんだって同じだよ。なんで、お母さんが私たちにもじいちゃんの余命を言わなかったのか今ならわかる。お母さんは、私たちも悲しませたくなかったんだね。でもこれからは言ってね。また、辛いことがあったなら。」私の苦しみはその言葉できれいに終わった。
父はおそらく自分の病名を知っていたのだと思う。
しかし、懸命に笑顔を作る私への親心で、知らないふりをしてくれていたのだ。
父の入院中、泣く場所がない私は、風呂でお湯に口をしずめて泣いていた。そのことに、やはり気づかないふりをしてくれた夫。
父も夫も子ども達も私を思い、心のなかで大激励を送っていたのだ。家族だからこそ、口にできないこともある。その口にできない思いも含めて、丸ごと受け止められるのもまた家族。
親と子。
子がいるから親になれる。
親の思いに助けられる。
今年もねむの花がきれいに咲いている。
父が逝って二十一年。

「パパ、抱っこ!」
この春、小学1年生になった息子は、毎日学校から帰ると真っ先にそう言って、ランドセルを背負ったまま、パパに抱っこされる。
息子は、幼稚園から同じ小学校に行った子がいなく、入学当初から心細い様子だった。
またコロナの影響で、通常よりソーシャルディスタンスに気を付けなければいけないので、マスク生活で通学時も給食時もあまりおしゃべりできない。
学校の行事も、子ども同士の触れ合う機会も激減している中で、頑張って通学していた。
そんな時世の中、我が家で一番の大役を担っていたのは、実はパパだった、と思う。
この時期にパパがテレワークでいてくれて、息子もわたしもどんなに心強かったか。
それに加えて、わたしは7年前、息子の出産時に腰を痛めてしまい、重いものが持てず、赤ちゃんの頃から息子のことをあまり抱っこできなかった。
その分、生まれた日からパパは新生児の息子を抱っこし、触れ合い、今日この日まで過ごしてきてくれた。
だから、毎日の帰宅後、パパと息子の抱っこがある。
そんな光景を間近で見てきて、もう7年。
よくママの働きは、仕事と違って、目に見えないから、自分で自分を褒めましょう、と言われるけれど、
世のパパだって目に見えないけれど、家庭の中で同じく子どもと向き合っているんじゃないか、と思う。
それは、わかりやすく社会で活躍するスーパーサラリーマンや、社長やスーパーヒーローよりも、息子にとって、母であるわたしにとって、一つの勲章ものだ。
息子の心の根っこの部分に、しっかり残る“一生ものの温かい財産”を、ありがとう。
これからも、よろしくね。
息子もそう思っているのか、「頑張っているから」と、先日なんでもない日に、パパとママへ折り紙で作ったメダルをプレゼントしてくれた。
―――今日もテレワーク中の部屋の壁には、息子からもらった折り紙メダルが、誇らしげに輝いている。

愛情深く、思いやりがあり、心の支えとなってくれる母と父のもとで素晴らしい子ども時代を過ごしたわたしは、間違いなく幸運な人として数えられる一人です。
母はアクティブで魅力的な女性で、ロックンロールやポップミュージックが大好きでした。
静かでどちらかというと孤独を愛する父はオペラやクラシック音楽を好んで聴いていました。
母と父は好みも性格も違っていたために子育てのスタイルは正反対。
両親の異なった個性がわたしの成長にとってだいじな影響を与えてくれたように思います。
実の父であるリンゼイと私の関係は、2017年に父が70歳で亡くなるまで、常に良い方向に変化し続けたように思っています。
彼は私にとってかけがえのない大切な人でした。

両親が離婚したのは、私が19歳の頃。
デイビッドが私の継父となりました。
まだ若かった当時の私は彼を完全に受け入れる準備ができずに悶々としていました。
遺伝子だけで親子の関係が成立するのだろうか?
父親とは?と、自問自答する日々。
その疑問に答えてくれたのが、デイビッドでした。
愛、サポート、励まし、寛大さ、アドバイス、たくさんの楽しみといった一貫して揺るぎのない大切なことを、私はデイビッドから受けついだのです。
デイビッドは公平性と平等性と思いやりに満ちた心を持って行動できる人です。
それは、父のリンゼイが病になってから死を迎えるまでの数年間、
わたしの母とデイビッドが 住む家に父を引き取って面倒を見てくれるなど、家族を支えるためにはなにも厭わないということにも表れています。
当時のデイビッドは、私たち全員の父親でした。
彼からはいろいろ学びました。
印象に強く残っているのは、さりげなく良い人になる作法や、心を込めて他人のお世話をする方法などですが、ほかにも数限りあります。
人としても父親としても尊敬に値する人です。
人間ですから欠点もありますし、父親としても完璧というわけでもありませんが、
素晴らしいのは、間違ったら迷うことなく謝罪し、相手が傷つかないような思いやりも忘れないことです。
知識が豊富なデイビッドは、他の人とその知識を共有するのが大好きです。
相手がわからない時には相手が誰でも辛抱強く説明します。
英語がまだそんなに得意でないわたしの妻の英語力や自分の日本語の未熟さにも臆さず、話題を盛り上げるのが得意なコミュニケーターです。
話す時には細かい気配りをし、複雑なアイデアを簡単に伝えるという才能も持ちあわせています。
サポート。愛。ケア。忍耐。寛大さ。包括性。共有。
すべてがデイビッドの特性で、その上、分け隔てなく振舞ってくれる最高の父親です。
私たち家族は、デイビッドを父親として迎えたことで最高な幸運を手に入れました。
彼の存在で私たちの生活は豊かで幸せになりました。

父親とは?
その答えをデイビッドが教えてくれました。
私の父!
デイビッドに感謝します。

Your comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *