親子の日 エッセイコンテスト2015 入賞作品

オリンパス賞
・防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
オーティコン賞
・ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
三菱地所・サイモン賞
・1万円分のお買い物券
キョーリン賞
・トリニティーラインスキンケアセット
毎日新聞社賞
・MOTTAINAI傘
円谷プロ賞
・新ウルトラマンシリーズ『ウルトラマンX』変身アイテム「DXエクスデバイザー」
親子の日賞
・「親子の日」オリジナルグッズ
 
 
オリンパス賞防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
「ふたつの親孝行」堀江千春 埼玉県 32歳

父のことが嫌いだった。気が利かなくて、品がない。友だちのうちみたいにスーツを着て、役職を持って働いているわけでもない。劣等感。家がボロいのも、希望の高校に行けないのも、恋愛がうまくいかないのも何もかも、うちが貧しいせい。すべては父のせいだと思っていた。
高校卒業後はそんな父の存在から早く逃れたいと、実家を出て一人暮らし。たまに帰省することはあったけれど、母や兄弟や友達とばかり話して、父の存在は一切無視。思春期以降、ろくに話もしてこなかった。
父に対する思いが変化したきっかけは、私が子どもを持ったことだ。父はおじいちゃんになった。父は孫を溺愛した。帰省をすれば駅まで迎えにきて、改札を出るやいないやベビーカーを私から奪い取るようにして自分で押していく。まだ眠そうに眼をこすっている早朝から寝る時間まで、一日中孫の名前を呼んでいる。鼻歌まじりにお風呂掃除をして、孫を毎日お風呂に入れる。自分の息子がかわいがられている様子を見て、ありがたいと思うと同時に気づいたのだ。私もこのように愛されて育てられたのだと。
すべては父のおかげなのだ。今幸せにすごしていること。かわいい息子が生まれたこと。孫の写真を大切に額に入れ飾る父。孫の顔を見せられたことで、遅くなったけれど少しは親孝行できているのかな。そして私に父の存在の大きさを教えてくれたこと。息子が私に最初の親孝行をしてくれた。

 
オリンパス賞防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
「打ちゃ当たる?」尾種栄春 奈良県 44歳

家内が嫌な顔をする私の趣味にカメラがある。家内の目から見れば、同じにしか見えないようなレンズを幾つも欲しがるものだから、叱られるのも当然だ。まして何時もピンボケばかりで上達しないのだから。
言い訳はある。チョーがつく程のド近眼なのだ。運動会やお遊戯会の写真を撮ろうとしても我が子が何処にいるか分からない。分かったとしても、現像した写真を見て、初めて子供の表情分かるくらいだから、もともと向いていないのだ。半開いた目の写真なんて山ほどあるから、フィルムカメラの時代ならば、離婚訴訟に発展していたかもしれない。
父もカメラが好きだった。私と違い、子供の頃の私や兄の写真はどれも実に上手く撮れている。
問題は、弟や妹の写真が弟や妹の写真が少ないことだ。父は、子供が出来る度に自分の小遣いを減らしていた。煙草は最後まで止めなかったが、それ以外はずいぶんと節約していたから、必然的に現像代のかかく写真はあまり撮れなくなった。そして父は、私が高校二年生の年、四十六才で亡くなった。弟や妹の写真を撮る人はつまり、いなくなった。八番目の末妹は当時二才だった。考えればすぐに気づくことだが、高校からずっと親元を離れていた私は、そんなことも分からなかった。
妹が結婚式を迎えるとき、子供の頃の写真が少ないことに驚いた。代わりに、高校生以降の写真が極端に多かった。自分で撮るようになったのだ。よほど写真の少ないことを寂しく思っていたのだろう。
「お父ちゃん、写真撮って!」
六人の子供達はそう言って、私に向かいポーズをとる。私もカシャカシャとシャッターを押す。写真が少なくて寂しい思いはさせたくないのだ。たとえ父のように上手ではなくても数打ちゃ当たる。父の時代と違って、現像代を考えなくていいのだから。ただ、これだけは父に自慢したい。「今年になって煙草を止めたよ」と。四十六才までは、あと二年だ。

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「神さまの与えた試練」杉本睦実 東京都 30才

パパとママに試練が訪れたのはあなたが生まれてきた翌日でした。
まだ親になって1日目の私たちは、あなたの存在を不思議に思うほど未熟でした。
朝、助産師さんと小児科の先生が戸惑ったような顔で病室に入って来て、あなたの太ももが骨折していると説明しました。
ママは何が起きたんだと、これは夢なんじゃないかとはじめて本気で思ったんだよ。
その後、整形外科の先生から治療方針について説明があり、この病院で治療するかどうか訪ねられました。こども病院などに移るという選択もできました。
ママの頭の中はいろんなことがかけめぐり、熱くなってじんじんしました。
パパと話しあって、この病院で治療するのが一番だと決めたんだよ。

治療の方法は、あなたの脚をけん引してゆるく固定した状態を保つだけで、あなたが自分の力で骨を作るのを待つというものでした。
はじめは不安で不安でしかたありませんでした。
でも、あなたはミルクを飲むのも、泣くのも、うんちをするのもなんでも一生懸命なのです。
そして、ミルクを飲む量は日に日に増え、飲み方もどんどんうまくなってくる。
そんなあなたに応援されて私も一生懸命ママにならないとって思ったんだよ。
私にできることは、栄養たっぷりのおっぱいをあげるためにしっかりご飯をたべること。
あなたのそばにいるために元気でいること。

治療開始から2週間ほどたって、新しい骨ができはじめました。
そこからは一気に骨ができて約1ヶ月で治療が終了しました。
あなたの成長する力にパパやママだけじゃなくて、病院の先生たちも驚いたんだよ。

今、あなたは3ヶ月目でパパやママのおなかを力強く蹴ってくるね。
これから、はいはいをして、歩いて、走り回るのが楽しみだね。

神さまはパパとママにとても大きな試練を与えました。
早くしっかりした親になりなさいってことだったのかもしれないね。
これからあなたが成長していく中で、まだまだ試練は与えられると思います。
でも、あなたがいてくれるからきっと乗り越えられるね。

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「そんなあなた」湯浅範子 富山県 34才

シュークリームがきらいなところ
ご飯よりパンが好きなところ
チーズが大大大好きなところ
集合時間に遅れると泣き出すくらい焦っちゃうところ
ごはんを食べるとき
よくこぼすところ
噛まずにほおばっていつまでもぼーっとしているところ

でも、ちがうところもあるね
あなたは好きなものから食べる
嫌いなものは後回しにする
私は嫌いなものから食べる
後でじっくり好きなものを味わう

でも
それってすてきかも
最後まで、
常にいちばん好きなものを味わえるってことだから

それから
もっともっとちがうところ
自分が苦労してもほかの人を助けてあげるところ 

どしゃ降りの帰り道
傘を忘れた友達のために
自分はびちゃびちゃになりながら
遠回りして家まで送ってあげたね

人のために動いているときのあなたの目
真剣だね
どんなに自分の時間がなくなろうとも一生懸命
すごい
ジブンヲカンジョウニ入レズニって
こういうことなんだね

私よりずっとすばらしいところ

私はそんなあなたのお母さんです
「早く」が口癖の私
ごめんね
早いことだけが大切じゃないよね
あなたはこんな未熟なお母さんを育ててくれています。
ありがとう
本当にありがとう

あなたが大人になるまで
もう少しそばで見守らせてね

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「トンネルの中で息を止めること」萩原勝広 静岡県 49才

トンネルをぬけたあと『ぷっふぁー』と大きく息をする娘。

『今、とっても長い間息を止めていることができたよ!』

鼻の穴を膨らませ興奮してボクに言う。(∩.∩)

『あははは』

笑いながらボクは続けた。

『お父さんがスピードを出して走ったからじゃないの?』

『どうして?』

娘は興味津々に尋ねる。

『遅く走るとトンネルの中にいる時間は長くなるでしょ?』

間髪おかずにしゃべる。

『その逆で、速く走るとすぐにトンネルをぬけることができるよ』

ボクの説明に娘は考え込んでいる様子だ。

『時間は速度÷距離だからね』

追い打ちをかけるように言った。



…………_(‥)フーン



道幅が狭くなり、左の川に並走するように道が通う。

ツイスティーな道をセコンドとサードで気持ちよく流す。

草木の匂いが風に乗ってコックピットにも届けられてくる。


目的地は近い。



…………_(‥)フーン



小学校1年生の娘にはまだ早すぎたかな?


いや、、、、

どうやらボクの娘は数学に弱いようだ。。。(T_T)

そんな話をしていると、またトンネルにさしかかった。

娘はまたしても大きく息を吸ってから、

口をつぼめたままトンネルに入った。(;゜)ウッ!

トンネルを抜けるとそこは雪国だったなんて言うフレーズがあったけれど、、

長いトンネルの向こうは、いったい何があるのだろう。

今度は意識的にスピードを落として走った。

トンネルを出て、

『ぷっふぁ~』と同じように大きく息を吸った娘に訊いてみた。

『わかった?こういう事だよ』

娘は息を整えると真剣な顔で答えた。

『わからないけど、息を止めているとシーオーツーのサクゲンになるよ』

そして嬉しそうに言った。

『環境に優しいんだよ(^o^)』


…………(?_?)


娘よ!

長いトンネルの向こうには環境問題があったのね。。。。。。。(。^。)コケ!

数学に弱い我が娘だが、

意外にも環境学は得意のようだ。(*_*) マイッタ

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
「ウチの母ちゃんスーパー母ちゃん」出口貴美子 東京都 34才

うちの母はとにかく元気が良くとても社交的。
買い物に行けば何人もの知り合いに声をかけられ、私の同級生にも「こないだあんたの母ちゃん、イオンで見かけたよ〜」と言われる始末。
なぜって?
母は超がつくほどの社交的で、面倒見がいい。
そして何より派手だから。70すぎても髪にメッシュを入れ、真っ赤な口紅をひく。もちろん派手な服を着て…。元気はもちろん良く、小さい頃は朝五時から母の声で目覚める毎日。それも家の中でなく外の近所のおばさんとの話し声で…。
その上、ど天然。
昔私が帰宅途中大けがをし家に戻ると、焦った母は、「待って!雨降りそうだから布団しまってくるから!」と娘より布団の心配をする。
そんな母との面白エピソードの中でも、小学校のころの話が忘れられない。近所の悪ガキが私に「お前の母ちゃん厚化粧だよな〜」と言ってたのをたまたま聞いていた母。「たかひろー!誰が厚化粧だって!?」と怒り心頭で箒を持って悪ガキを追いかけ回す、まるでかつおを追いかけるサザエさんだった。
もう一つ、小学校の頃、連絡帳に持ち物を書くところがあって母は毎日しつこい程私に忘れ物しないようにと口を酸っぱくして言って来た。持ち物の欄に「なし」と書いてあっても、「本当にないの?!」と毎日耳にタコが出来る程で、嫌気のさした私はちょっと意地悪しようと持ち物の欄に「なしを持ってくる」と書いてみた。確か初夏に入るか入らない頃だったと思う。連絡帳をみた母は大慌て!「どうしよう!ちょっとスーパーに行ってくるね!八百屋さんの方がいいかしら?」と嘘だと言う前に突っ走る傾向のある母は出かけてしまった。1時間後、「なかった〜どうしよう?先生に謝っておいてね〜。ごめんね〜」と汗だくの母が帰って来た。梨が出回る前で手に入らないのはもちろんである。嘘だと言って謝ると大きな雷が落ちたのは言うまでもない。
こう書くと自由奔放に見えるかもしれないが、介護に小姑問題いろんな苦労を笑顔でこなしていた。自分も母の年になって思う。
ウチの母ちゃんすごい!スーパー母ちゃんだ!
そんな母が私も昔も今も大好きだ。
長生きしてね、母ちゃん!

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
(無題)(IF) 東京都 30才

東京で雪が降った日。友人の結婚式に行く途中エスカレータで足を滑らせ脛を打ち付けた。タイツの上から触ると、手にべったりと血が張り付いた。すぐに救急車が呼ばれ、急患に運び込まれた。式場で待ち合わせていた友人に連絡すると心配して付き添いを申し出てくれたが、とても見せれるような怪我ではなく、結婚式を欠席させるのも申し訳ないので断った。人気のない病室で黙々と縫ってくれている先生に「跡残りますか」とは聞けなかった。それくらいひどく裂けていた。
3時間後、32針縫い手術は終わった。「安静にしてね」と言われたけど心細くて彼氏に会いにいった。足が引きつりうまく歩けなかった。突然のことに彼は困った顔をして、私も無理して笑った。
翌日の夜。大阪にいる母にメールで連絡した。「たいしたことないけど32針縫った。先生に連絡しときなさいって言われたから一応報告だけ」。不注意を怒られるかなとびくびくしていたらすぐに返信が来た。一言「明日、東京に行く」。私を責めない短い文と、返信の早さに母の心配が伝わった。怪我をしてからずっと心細かった。ひどい傷口を見せることになっても、わがままを言うことになったとしても、母が近くにいたのであれば真っ先に連絡をとったと思う。暗く静かな病室で、甘えたかったのは母だけだった。
母に会うと元気が出た。甘え過ぎて、些細なことで喧嘩になった。別れ際母は「お母さん、帰るね。あんたが心配で来ただけやから。顔見れてもう目的達成できたし。」と寂しそうだった。
母を見送り電車に乗った。窓から新幹線が見えた。母はどんな思いで乗っているのか。遠いと素直に甘えられなくて、近いと甘えすぎてしまう。後味の悪さに自分を責め、涙が止まらなかった。
その日から4年たち、足首の傷には慣れてしまった。傷の痛みももう思い出せない。ただ、母の寂しそうな顔を思い出しては、未だに胸が痛む。

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
「父にとって人生最悪の日」(KT) France 31才

子どもの頃から、酔うと父がよく言っていた。「将来○○○はどんな男を連れてくるんだろう。連れてきたらまず殴ってやるんだ。」と。
あれから二十年余りが経ち、とうとうその日がやってきた。父に会わせたい人がいると話したのは1か月前だった。それから1か月間は、その件に全然関係のない世間話しかせず、彼に関する情報は母を通してしか伝えることができなかった。
そして、その日、彼が家にやってきた。父は居間にいて、床に置いた新聞を読むふりをし、うつむいたままで、ただ「いらっしゃい」と言った。
彼はアフリカ人だ。父に反対されるのは分かっている。世間からも反対されるだろう。それを承知の上で結婚したいと思った。しかし、そういうことを腹を割って話すのは、照れくさくてできなかった。父もそうだったと思う。
彼が家に来て1時間ほど経って、父がやっと彼のいる食卓にやってきた。ウイスキーの瓶がまるまる一本空いていた。へべれけになった父が、勢いに任せて彼に言った。「話を聞いてから、1か月ずっとまともに寝れなかったんだぞ。小さい頃から俺がどれだけ大切に育ててきたか分かってるのか。こいつを泣かせたらただじゃおかないぞ。その覚悟はあるのか。」
彼は日本語があまり分からなかったが、その迫力から、なんとなく言ったことは分かったようだった。そして、約束した。「○○○さんを幸せにします」と。そして、父は「もう寝る。」と言って、寝室に行って寝てしまった。
後日、母から聞いた話では、娘の彼が家に来るというだけでもつらいのに、ましてや外国人、ましてはアフリカ人で、相当辛かったという。父にとって最悪の日。それは、私が父の愛情を最も感じた日だった。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「贈り物」土松真理子 岐阜県 58才

退職辞令を受け取ってビルを出ると、空の青さが心地よかった。家庭の都合で、大好きな仕事を定年より少しだけ早く退職した。空を見上げながら、思ったよりも落ち着いて、笑顔でこの日を迎えられたと、ほっとした。実家の母に花を買って、お礼を言ってから帰ろうと、前から決めていた。
私以上に退職を残念がっていたのは、母である。昔から「あんなに泣き虫だったあなたが、先生になるなんてね。」とうれしそうに何度も言った。長時間の勤務、仕事上のプレッシャー、思いもよらぬトラブル…。たまに私が愚痴をこぼすと、「大変だけど、人を育てる仕事はやりがいも大きいし、自分も育っていくことができる、いい仕事と思うよ。」と言う。もしかしたら母は、教師という仕事にあこがれていたのかもしれない。今回の退職も、母にはぎりぎりまで言えなかった。案の定、「もったいないねぇ。何とかならないのかねぇ。」と言った。これまで何とかがんばってくることができたのは、母のおかげである。
洋蘭の鉢植えを抱えて実家に入るとき、もう一度笑顔を確かめた。そして、明るく元気な声で玄関を開けた。「無事、退職しました。
お母さんのおかげです。ありがとうございました。」出迎えてくれた母に華やかな包みを渡すと、下駄箱の上の小さなネジバナの鉢を指して「これもあなたがくれた花だよ。」と言う。「えっ、そんなことあったかな。」「あなたが初任のとき、遠足で子ども達にもらったと大事に持って帰ってきたネジバナだよ。一本だけ根がついていて、毎年咲いてくれるのよ。」…知らなかった。言葉が出なかった。
絶対泣かないと決めていたのに、一番泣いてはいけない場面なのに、涙が溢れて母の顔が見られない。「長い間、本当にご苦労様でした。」いつもと変わらぬ温かい声が私を包む。
あなたの子どもで、本当によかった。最高の贈り物はいつも母からもらっている。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「「元気でおれよ。」「うん。」」和久井由紀子 New Zealand 48才

空港での別れの場面。 父の年老いた厚い手のひらと 48になった娘の手のひらが わずかに触れる。 その一瞬のぬくもりに 父の凝縮された愛を 娘はしっかり感じ取る。 
大学を卒業し、24年前に親元を離れて以来、 娘の私は、人生の半分を遠い南半球の国で過ごしている。海外で 仕事をしながら、自立し、現地の人と家庭を持つ中で、西洋の習慣も それなりに 身に着けてきた。 別れの場には つきもののハグ、 ほっぺにキスも 抵抗を感じることもなく、自然とかわす。 それは ここでの愛情表現だから。
そんな遠い国に住む私を 70代になる両親は 6年半ぶりに 訪ねてきてくれた。気がつけば、私自身 娘を送り出した両親の年になっていた。
父には、ハグどころか、「アイラブユー」のことばも 肯定的な ほめ言葉も かけられたことは一度もない。普段 電話口にさえ めったに 出るような人ではない。
だけど 親子って 不思議なもんだ。 挨拶ともいえぬ短い会話に、一瞬の手のタッチに、父の大きな愛を 知ることができるんだから。 今度はいつ会えるかわからない。でも その手のぬくもりを思い出に、 再会を 待ち望みつつ、頑張るからね、お父さん。遠くまで 会いに来てくれて ありがとう。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「父のお弁当」生越寛子 大阪府 35才

実家に帰ると私はキッチンに立つ。その隣に一緒にキッチンに立ち、あれこれ口を出しつつも笑いながら料理をするのは父だ。私の父は料理をするのが大好きな父。逆に母はあまり料理をすることが好きではない。変わっているがバランスがとれた夫婦のようだ。私のお弁当もよく父が作ってくれた。毎日ではないが、仕事が休みの日は朝早く起きて、準備をしてくれた。
「今日のお弁当、楽しみにしててね」
父がにやけた顔でお弁当を渡してくれる。そんな日はいつもお弁当を開けるのをドキドキしてしまう。海苔でひろこと書いてあったり、女の子の顔が描いてあったり、スキと書いてあったり、父のにやけ顔を思い出し、ちょっぴり恥ずかしながらお弁当を食べていたことを思い出す。4年前に母が他界し、父は一人になった。あれだけ料理の好きだった父は料理をしなくなった。
「一人の食卓は寂しいな」
そんな言葉が返ってきた。私はどうにか父に元気をあげたいなと考えた。大きかった父の背中はだんだんと小さくなっていくように思えて寂しかった。
ある日帰省した時に
「今日の晩御飯は外食じゃなくて、家で作ろうよ」
「いいね」
久しぶりの父の笑顔は輝いていた。父と娘でキッチンに立つ。
「きゅうりはね、こうやって切った方が早いんだぞ」
「そうなんだ!知らなかった」
初めておふくろの味ならぬおやじの味を教えてもらっているようで私も胸がいっぱいになった。
「この出汁は、この白醤油が合うよ。これがお父さん流なんだ」
好きなことをしている父はとてもキラキラしていた。私は昔お弁当を渡してくれた父のあの笑顔を思い出した。最近は帰省するときの楽しみはもっぱら料理になっている。
「今度行くときはお父さんの、けんちん汁の作り方教えてね」
なんてリクエストしておくと準備万端になっている。一人で作るより、二人で作った方が楽しくて、一人で食べるより、みんなで食べた方が楽しいね。父と娘の異色のタッグはこれからどんどん美味しい味を生み出すよ。そして、幼稚園に通い始めた娘に私は父直伝のお弁当を作る。
「今日はね、ハートの形だったね」
娘も毎日お弁当を楽しみにしてくれている。それはね、おじいちゃんに教えてもらったお弁当なんだよ。美味しい上に楽しくて、ワクワクして、そして心が温かくなるお弁当。たくさんの愛情が入っているからね。これからもこの愛とお弁当を繋げていくね。そして我が家の秘伝のレシピはこのお弁当だってことも。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「娘と母の間で」江原育 新潟県 40才

小学校の頃、「看護婦のママは私の自慢」って作文に書いたけど、本当は半分ウソ。ママを悲しませたくなかったから。
授業参観、親子遠足、個人面談、運動会、展覧会。全部ママに来て欲しかった。
学校で友だちと喧嘩した日は抱きしめて欲しかった。先生に褒められた日は、お風呂で私の自慢話を聞いて欲しかった。
でも、いつもいそがしく、看護婦、妻、娘、母の4役をこなすママを、私の一言で煩わせてはいけないと、小さいながらに思っていた。
そして60を過ぎたママは体を壊し、あっという間にベッドから起き上がる事も出来なくなってしまった。
それからというもの、私は時々実家に帰っては、ママのベッドの隣で寝た。二人の娘を授かり、30過ぎのいい大人になっていた私は、いつも手を伸ばし、ママと手をつないで寝たいと思った。無邪気な振りをしてママの布団にもぐり込み、「一緒に寝よう。」と言いたかった。でも、そうするには、ママはもうあまりにも弱々しく、痛々しく。私の一言はママを傷つけてしまう気がして、「言ってはいけない」と、あのときのように思ってしまった。
今でもやっぱりあの時手を伸ばしていたら、布団にもぐり込んでいたらと思う。
時すでに遅し。
そして私は今、二人の娘たちに思う。
「お母さんは、あなたたちを抱きしめてあげられてる?」「話しを聞いてあげられてる?」「全てを受け止めてあげられてる?」と。
娘としては心残りのことがある。
もう挽回するチャンスはない。
けど母としては、二人の娘にチャンスを与えてもらえている。今のところ。
これから私は二人と県かも、おしゃべりも、スキンシップも沢山する。
いいでしょ。羨ましいでしょ、ママ。
二人にとって親よりも大切と思える人が現れるその日まで。
母として、心残りのないように。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「えがお」星歩花 山形県 18才

幼いころから、我が家には一つのルールがありました。それは、笑顔を大事にすること。これは、私の父が定めたものです。
嫌なことがあっても笑顔でいなさい。そうすれば、きっと神様は見てくれているから。笑っている人の所に、きっと福はおりてくるから。
父はそう言って、自ら笑顔を心がけていました
幼いころ、父や母に叱られたり、友達と喧嘩をしたりすると、私はすぐに不機嫌になり、泣いてしまう子供でした。そんなときに限って、部屋に貼られている「笑顔大事に」という言葉が目に入り、癇に障ってますます機嫌が悪くなってしまったものでした。
しかし、今では笑顔の重要さが身に染みて感じられます。
私は大学生になり、今は実家を離れて暮らしています。話を聞いてくれる、そして時には叱ってくれる両親は、もう傍にいません。
私の通っている大学は芸術大学なので、上手く作品が作れなくて悩んだり、教授から厳しい指導を受けたりすることが頻繁にあります。そんな時、私は父の言葉を思い出すのです。
辛くても苦しくても、笑顔でいればきっと神様は見ていてくれる。
その言葉が、私の支えになりました。
 そして実際、笑顔を心がけると人間関係は円滑に、物事も上手くいくことが多いような気がします。また、笑顔でいると自分自身、辛い気持ちが薄らぐような気分になるのです。
勿論辛いときは泣いても、弱音を吐いてもいいのだと思います。しかし、最後には笑うことが大切なのだと私は感じます。
私は父から、笑顔の力、笑顔の大切さを受け継ぎました。私もいつか、自分の子供が出来た時は、笑顔の力を受け継いであげたい。そう思っています。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「マッサージ」小屋松千晶 熊本県 17才

私の最近の日課は、寝る前にマッサージを母にすることです。マッサージといっても素人の私がすることなので、感覚に任せて適当にやっています。最初は、面倒だ、眠いなどと嫌々やっていたけれど、夜、母と私で今日あったことなどをポツポツと話していると、案外この時間も悪くないと思えました。私はもう高校3年生で、これからのこと、進路のことなど考えることがたくさんあります。父と母が真剣に話を聞いてくれるので、私ももっと頑張らないといけないと思います。正直、口うるさいなと感じるときもあるけれど、私のために言ってくれていると分かっているので、お小言はありがたくもらっています。
私の家は農家なので、忙しい時期は朝早くから夜遅くまで仕事で大変です。マッサージは、疲れて帰ってきた父と母に私が思いつきでやったのが始まりでした。最近は前にも書いたとおり、母にだけやっています。もっぱら、おしゃべりしながらですが、たまに無言だったりすると、母は寝ています。それを見ると、今日も本当にお疲れ様、という気持ちが出てきます。
あっという間に時間が過ぎて行くことを高校生になって知りました。あっという間に高校3年生になって、両親の優しさや愛情を特に感じるようになりました。だから家族と一緒に食べる晩ご飯とか、そういう何でもないことが大切だと思えるようになりました。今は、マッサージとかしかできないけれど、経済的に自立して、もっと親孝行をしたいと思います。大きくなっても、いつまでも変わらない、仲の良い親子関係であったらいいなと思います。

 
円谷プロ賞新ウルトラマンシリーズ『ウルトラマンX』変身アイテム「DXエクスデバイザー」
「しあわせな片思い」中里智史 東京都 36才

子どもは、順番をつけるのが好きだ。と言っても、すべての子どもに当てはまるわけではないと思うが、少なくともうちの娘に関して言えば、大好きだ。
運動会のかけっこの順位、クラスでの背の順、おやつをもらう順番など、とにかく順位や順番にこだわる。
しかし、一位が良いというわけではなく、与えられた順位に誇りを感じる気質らしい。
だから、運動会で二番になっても「二番が良かったんだよね」と強がりではなく、本気で言う。少なくとも親である僕にはそう感じる。もちろん、一番になったときは、しつこいくらいに自慢してくるのだが。
そんな、娘の順位の中で僕がもっとも気になるものがある。
それは、娘が好きな人やものの順位だ。ちなみに、一位は不動で娘自身なのだが、それ以下の順位は目まぐるしく変化する。
この間たずねてみたら、僕は四位だった。
二位は妻で三位がグラタン。いつもは、娘が大好きなうどんが僕のライバルとして君臨しているのだが、どうやら今回は僕が勝ったみたいだ。
ライバルをあわれむように「うどんは?」と聞くと、娘が「忘れていた」とさっそく順位を訂正しはじめた。
四位がうどんで、五位から八位までに四人の祖父母がランクイン。忘れていたのは、うどんだけではなかったらしい。四位だった僕は、あっという間に九位まで落ちてしまった。
 大好きな人から「九番目に好き」しかも「うどんやグラタン以下だけど」なんて言われるなんて、親になる前は思ってもみなかった。 
そして、そんな、しあわせな片思いがあることも、子どもを持つまでは知らなかった。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「母さんどこいった!?」早川忠隆 千葉県 26才

私がまだ、七、八才の頃の話しである。夕方、私は友だちと遊び終わって自宅マンションヘと帰った。家は持たずインターフォンで専業主婦の母にドアを開けてもらうのである。けれども、いくら呼び出しても返事がない・・・・
私は不安になった。
そして何度も何度も呼び続けた。
ついには開けてくれという思いを込めてドアを力一杯叩きだした。
手が痛くなっても、私は続けた・・・
涙が目からあふれ出した。
母さんはどこかへ行ってしまったんだ!
ボクを残して・・・・
もう戻ってこない。
そんな気がした。
悲しくって情けなくって仕方がなかった。
もっといい子でいればヨカッタ!
そう後悔した。
そこへ母が帰って来た。
泣いている私を見てビックリした様子だった。
母はただ回覧板を届けに行っていただけだったのだ。
母は私を抱きかかえて家の中へ入った。
何度もごめんごめんと繰り返した。
今から考えたら他愛もない話だ。
だが何故あの時あんなに絶望的な気持ちになったのだろう。
その時の気持ちは今となってはもう分からない。
ただ言えるのは小さい子どもにとってそれくらい母親の存在というものは大きなものだということだ。
あの頃の私にとってきっと母はすべてだったのだ。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「コーラ買っといたぞ」川崎貴大 奈良県 23才

私は去年の春から大学院に進学し、初めて実家を離れて一人暮らしを始めました。
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学と生まれてから一度も実家を離れたことがありませんでした。そのため、初めての一人暮らしは不安が多く、初めは何度も実家に帰っていました。
私の父は、私が野球をしていた6年もの間、参加していた地域の野球チームのコーチを務めてくれたので、休日でもよく話をしていました。しかし、高校や大学ではお互いに距離が掴めずに会話は多くありませんでした。
一人暮らしを始めて、何度も実家に帰っても父とはあまり会話が多くありませんでした。御飯を食べる時はあまり話さず、食べ終わったらすぐにテレビを見に行く父とはあまり多く会話ができません。
そんなもどかしい距離感を感じながら、どうにか前みたいに楽しく話ができないかと考えていたところ、
「コーラ買っといたぞ」と、何気ない様子で父が言いました。
その時は、ありがとうとお礼を言って喜んでコーラを飲んでしました。
次に帰った時も廊下ですれ違いざまに
「コーラ買っといたぞ」と、言ってくれました。
そして、また別の時も
「コーラ買っといたぞ」と、ぶっきらぼうに言ってくれました。
父の「コーラ買っといたぞ」は何度も何度も実家に帰る度に続きました。私が好きなコーラを、父はいつ帰ってきてもいいように買ってきていたのです。
父もコーラが好きですが、私が帰ってくるまで開けずに冷蔵庫で冷やしていたのです。元々、父はすごく感情表現が苦手なのですが、「いつでも帰ってこい」と背中で語っているように感じました。
野球のコーチを辞めてから寡黙になった父ですが、
「コーラ買っといたぞ」の一言が、今では楽しい会話のきっかけになっています。

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親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「育児と介護の同時進行」山下茂 兵庫県

大好きな妻の父が寝たきりになり、30代で介護が始まった。
迷いなく我が家に呼んだ矢先、我が家に待望の赤ちゃんが誕生した。
不安ながらも育児と介護の両立が始まった。

育児と介護の両立を心配してくれる知人も多いが、最近は相乗効果によるプラス面が見えてきた。
リハビリの先生が言うことに反論する頑固な義父も、孫の動きに合わせて笑顔で身体を動かす。
車椅子が当たり前にある生活なので、息子が1歳になる頃にはじぃじの車いすを押し始めた。
小さな介護士に救われる想いが何度もあった。

窓から心地よい風が入ってくる小春日和。
寝むそうな息子を抱っこして歌を謳っていると、横にいた義父がウトウトして寝始める。
親のオムツ交換と子どものオムツ交換が同時の時は、部屋中何とも言えない臭いになる。
元ラガーマンの義父はお尻を上げてもらうのも一苦労だ。
しかし、たくさんの苦労話しも今となっては笑い話しである。

あっという間に過ぎていく子育て期間に介護期間。
一緒の時間はそんなに長くはない。
育児と介護の両立が始まって2000日が経過した。
今では3児の父となり、育児も介護も当時と比べようがないほどに変化した。
まだまだ親子の物語は続いていきそうだ。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「そっくりなおでこ」上田利栄子 三重県 39才

子供の頃、父と似ていることが嫌だった。特に広いおでこ。おでこがそっくりすぎてすぐに親子とわかってしまう。
見ず知らずのおじさんが、通りすぎてから、わざわざ戻ってきて「よう似た親子やなあ」と言ったこともあった。父は、その話を何度も何度もした。その度に心が沈んだ。
そっくりなので、できれば授業参観などに来てほしくなったが、ある時学校の廊下で母の横に満面の笑みでこちらに手をふる父を見つけた。手を振り返したかどうかは記憶にないが、「パパも来たんだ」と顔がこわばったことを覚えている。
先日、実家に帰り、父と2人でお昼ごはんを食べに出かけた。父と向かい合って座るなんて、久しぶりだ。父が一生懸命、政治について語っている間、父の顔をまじまじと見た。髪の毛の生え際は後退し、どこからおでこなのか正確には分からないが、でっぱている広いおでこは今でもそっくりだ。眼鏡の奥の目似ている。自分でもそう思うのだから、他人がそう思うのも無理もない。そもそも何故似ていることが嫌だったのだろうか。父に似ていたって良いじゃないか。

昼食から家へ戻ると父が母に二人で出かけたことを話していた。そしてこう話すのが聞こえた。
「若い子連れて、何やろなって周りに思われたやろな」
え?いやいやどう見ても親子でしょ。そうでなければ、こんなおでこは2つ揃うわけがない。

心の中でつっこまずには、いられなかったが、廊下で喜べなかった子供の頃を思い出し、今は違うと思った。
もし、街で偶然父を見つけたら、間違いなく駆け寄るだろう。前髪が風でなびいて、おでこが全開になったとしても。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
(無題)宇都宮智会 東京都

私は旧家に当主の長女として生まれた。母は初めての子が男でなかったことでがっくりしたようだ。3年後に弟が生まれ、弟が母の関心を独占するようになった。
普通なら私は「女に生まれたために親の愛情を十分に受けられない、かわいそうな子」となるのだが、おかげで自由気ままにノビノビと育つことができ、よかったと思っている。
大学進学も、就職も結婚も、親にはすべて事後報告だった。跡取りである弟のことで頭がいっぱいの親に、私なんかのことで煩わせたくないわ、と口では殊勝なことを言っていたが、単に親からとやかく言われるのが鬱陶しかっただけである。
自由気ままに生きてきた罰があったのか、健康診断で癌が見つかり、まだ30代の若さで医師から余命半年と宣告された。癌で若くして他界した父のDNAを受け継いでしまったようだ。
年老いた母に心配をかけたくなかったので、癌のことを黙っていたら、なんと夫が母に伝えてしまった。今にも倒れそうなぐらい衰弱した母が私の家を訪ねてきた。私自身、突然の癌宣告で混乱しており、母に正面から向き合うことができず、母を追い返してしまった。
あとで母が帰り際に渡してきた封筒を開けると、一枚の小切手が入っていた。受取人が私で、立派な家が建つほどの金額がかかれている。母と同居している弟に電話して聞いたら、何と母は現金化できる財産をすべて換金し、私へ差し出したそうだ。これで最高の治療を受け、少しでも長く生きさせたいとのこと。自分の老後の資金さえ換金した母はなんと愚かであろうか。
弟から母はいつも私のことを案じていた、と聞かされた。私が死んだら、母も生きてはいないのではないか、と弟は心配している。親の愛はなんと深いものか。私は母に愛されていたのだ。
いい人生だったと思う。親に愛され、夫に愛され、弟も私のことを大事にしている。みんなになんのお返しもできないまま、逝ってしまうことを許してほしい。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「子が鏡」互野祐加 神奈川県 35歳

収穫祭を兼ねてお盆に里帰りしたら、すぐにお墓参りをしようと子が言い出した。車の中でお盆の意味合いを説明してやっていたのを子供なりに理解したためと思い、早速母を伴って出かけることにした。お墓に手を合わせた後、墓石に水をかけるのは子、そのあとを拭き取るのは親という役回りになった。母は生花の準備をしている。ところが子は隣りの墓石にまで水をかけだした。その都度「ばあばのお友達の分まできれいにしましょ」と繰り返している。子供なりの理屈だ。が、じいじが出てこないのは子に記憶がないためだ。ここは妙な説得をするより従うことにした。幾つ水がかけられ幾つ拭いて回っただろう。終えた墓石に向かって「ばあばとずっと仲良くしてください」と言い手を合わせて いる。
そして帰宅。日が少し傾きかけている。早速庭の一角にある菜園の収穫に入る。農家出身のばあばが亡くなる直前まで丹精込めて野菜作りに励んでいた菜園だが、その後両親が引き継ぎ、この時期にはトマト、ナス、キュウリが育っている。ところが子はナスとキュウリのところに行き、大きいのを選んで摘み出した。「何で」と尋ねると「大きい方がばあばとじいじが一緒に乗って来れるでしょう」と。ここでじいじが出てきた。さらに「お友達も来れるように沢山お馬さんをこしらえましょう」とも。文句の言い用がない。よくこれだけおしゃまに育ったものと思い夫に目をやると同じ表情を向けてくる。
薄暗くなると迎え火の後ろに馬を置く。手を合わせしきりに祈りを捧げる子。その後ろで母に収穫時の話をすると「まあっ」と言い、むしろ頼もしそうな表情を見せる。賢い子とでも思ったのだろうか、同じことでも受け取り方は世代により異なるようだ。子は親の鏡と言うが、うちの場合子の方が鏡だな、と思う。多分、夫もそう思っているのではないか。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「お母さん。やってみれば」谷関幸子 東京都 60才

三十九才のとき、ある女子大学の短大二部に入学した。
子どもたちがまだ小さかったので、入学するときは随分迷った。入学手続き締切前日まで迷っていたわたしの背中を押してくれたのは、
「お母さん。やってみれば」という娘の一言だった。
当時中学二年生だった娘は、自分も高校受験を控え、勉学を志す母親の思いを理解し、応援してあげたいという気持ちがあったのかもしれない。
娘のその一言で一歩踏み出したものの、家庭と仕事の両立だけでも大変なのに、更に学業が加わり、短大に通っていた二年間はそれまでの自分の人生でこれ以上は亡いという程多忙を極め、毎日が時間との戦いだった。
精神的にも体力的にも限界を感じるときもあったが、家族の協力を得てなんとか二年後に無事卒業証書を手にしたときは、さすがに胸に込み上げて来るものがあった。
卒業式には娘が出席してくれた。
あれから十数年が経ち、中断していた勉学を又続けたくなり、下の娘が大学を卒業して社会人になったのを機に、放送大学の三年次に編入学した。
テレビやラジオの放送を通して授業を受け、レポートを提出し、試験を受けて単位をとるというやり方に、最初は戸惑いもあったが、教科書を繰り返し読んで内容を理解するように努めたり、面接授業をなるべく多く受講したりして、何とか二年で卒業することができた。
一年浪人して、社会人入学で某大学の大学院に進学した。私が専攻した日本近代文学コースは、留学生が多く、日本人学生はわたしも含めて二人しかいなかった。自分の子どもたちより若い勉学熱心な留学生たちから啓発され、刺激を受けて、念願の樋口一葉の論文を書き上げた。
いまわたしは、博士課程に進学する為に、苦手な英語を勉強している。
あのとき、迷っているわたしの背中を押してくれた娘の、
「お母さん。やってみれば」
という一言は、いまも心の支えとなって、次の一歩を踏み出す大きな力となっている。