親子の日 エッセイコンテスト2014 入賞作品
ママの人生は、子供にささげたものだった。何よりも私を優先させ、私と一緒に楽しみ、あふれんばかりの愛情をそそいだ。
「ななちゃんならできるよ」と言われ続けた日々、私はママのまっすぐな愛情を押し付けと思い込み、当たり前のように高校卒業後、家を飛び出し夢のため、上京した。
私が家を離れた後、愛するものの不在の日々、優しいパパもママの孤独を埋めることができず、北海道の田舎町で生きがいをなくしたママの寂しさをあの頃の私がわかるはずもなく、私は自分に精一杯だった。
そんな中、ママが始めたのが地元の海の清掃。たった一人で始めた活動は、やがて優しい人たちを集め、地域から認められ、地元の小学校で講演をしたり、道内のボランテイアイベントに呼ばれるようになった。
そして、今年でちょうど10年。ママが率いるボランテイア団体「蒼い海」は、全国の大きな賞をもらった。
東京での表彰式に、私はママと参加した。壇上で賞状をもらうママの笑顔は、輝いていた。
その後二人で大好きなエビスビールを飲みながら私は、「なんで海の清掃を始めたの?」と聞いた。
ママは照れくさそうに、「ななちゃんが疲れて故郷に戻ってきた時、きれいな海を見て癒されて、また羽ばたけるように。」と言った。
いつだって、ママの根源には私がいて、それでも自分の道を切り開き歩むことを選んだママ。
30才を過ぎても未だ夢を追い続ける私に、ママは言葉でなく、行動で語りかけてくれていたんだ。
「ななちゃんなら、できるよ。」と。
大きな愛に守られながら、この人に負けないようにがんばらなきゃ、と思わせてくれる母親を持つ私は、なんて幸せな娘なんだろう。
お腹の中の、子供が死んだ。
まだ13週だった。
病院で「経過は順調ですね」と言われた、その日の午後に、突然破水してそのまま流産した。
弟か妹が産まれると楽しみにしていた8歳の娘に、
「赤ちゃんがね、いなくなっちゃったんだよ」と伝えた。
娘は、何も言わず、何も聞かず、ただ黙って少しだけ泣いた。
あの日を境に、世界のすべての色が、ワントーン暗くなった。
おいしいものを食べても、綺麗な景色を見ても、楽しいことに笑っても、
何色を塗り重ねても、世界は元に戻らない。
それでも私は、なんとか元通りにしようと、いろいろなことを試してみた。試しながら、すべては無駄なのだと気づいていた。だから、試すたびに、少しずつ擦り減っていった。
ある日、娘が学校で折った折り紙を持って帰ってきた。
小さな扇と小さなピアノを、4つずつ。
細かい部分まで丁寧に折られている。三年生にもなるとずいぶん手先が器用になるものだな、と感心しながら眺めていると、娘は誇らしげに、
「パパとね、ママとね、私と、しょうちゃんの分よ」
と言う。
しょうちゃんというのは、亡くなった赤ちゃんの名前だ。
男の子だったその子のために、娘が選んでつけた名前。
特別なことではなく、ごくごく当たり前のように、家族全員のために折ったのだという。だから、4つ並べて飾ってほしいと、嬉しそうに言う。
驚いた。そして、涙が出た。
折り紙を並べながら、
「しょうちゃん、帰ってきてくれるかな」
と娘に問うと、
娘は、ママ、何を言っているの?という顔をする。
「ママ。しょうちゃんは、ここにいるよ」
しょうちゃんは、どこにもいかないよ。
家族だから。
と教えてくれる。
ああ、と声をあげ、私は娘を抱きしめて泣く。
泣きながら、その答えが正しいことを知る。
世界の色を、塗り直しに行こう。
パパと、ママと、あなたとしょうちゃんと。
前と同じにはならないけれど、新しい世界に、新しい色を塗ろう。
新しい世界の、新しい家族になろう。
妊娠できにくい体質だった私は結婚して五年、治療の末奇跡的に妊娠することができ息子を授かりました。無事に生まれてきてくれた時は、嬉しさから分娩室で声をあげて泣きました。本当に嬉しかったです。そんな宝物の息子を、私は手塩にかけ大切に育てました。育てたつもりでいました。人一倍甘えん坊で中二の春までお風呂も寝るのも一緒。仲良し親子でした。反抗期?非行?私には無縁の話だと思っていました。保育士という職業柄、子育てには少なからず自信もありました。まさか私の子に限って・・・。それが、中二の夏休み、同居の義母から息子の喫煙の事実を告げられ、そこから非行の道へ走った息子。
夜遊び、喫煙、万引き・・・何度も警察へ足を運びました。学校もサボリがちになり成績も下がり・・・。ある日「お前のせいだ!!お前が全部悪いんだ!!お前なんか・・・!!」と息子は私に向かって泣き叫び、部屋中の壁に穴をあけました。私が自信を持ってしてきた子育ては、息子にと_チても窮屈で苦痛以外の何物でもなかったのだと初めて気づかされました。途方も暮れ自殺も考えた毎日・・・でも、私を母に選んで生まれて来てくれた息子。私がいなくなったらこの子は誰が守ってくれるのだろう?精神的に追い込まれた過呼吸で病院にかつぎ込まれてしばらく経っ_ス頃、息子がポツリとひと言「お母さん俺、成人したらちゃんと恩返しするから。」と。頑張って入学した高校も退学になってしまい、それでも心を入れ替えバイトと通信制高校を両立させている息子。毎年私の誕生日と母の日には必ずプレゼントを送ってくれます。成人したら・・・ではなく今でも十分恩返ししてもらっていると思います。あなたが元気で頑張ってくれる、いつも私の事を気にかけてくれている・・・それだけで私は幸せです。本当に本当にあなたの母親になれて良かった。あなたを生むことが出来て良かった。あなたが私を母に選んで生まれて来てくれた_アと、心から感謝しています。
私は、母が運転する車に乗るのが好きだ。母と二人で近所に買い物に行く時に乗るのも、遠出をするのも、朝学校に連れて行ってもらうのも、母が運転する車内はとても居心地がいい。ぐっすりと寝入ってしまいそうにになるくらいに、安心してしまう。その上、母は運転がうまいのだ。我が家は駐車スペースがなく、家と塀の軽自動車がぎりぎり入るぐらいのスペースにしか駐車できるところがない。しかし母は、その狭い駐車スペースにするりと車を停めてしまうのだ。運転中に私のことも気にかけてくれていて、急ブレーキ踏んだ時などは、助手席に座っている私の体を片腕で抑えてくれるのだ。過保護だと思われてしまうかもしれないが、優しすぎるぐらいの優しさが私はとても好きだった。そして母は、車の運転がうまいだけではなく車もとても大事にしている。2週間に一回は、母の洗車についていき、母が一生懸命洗ったピカピカの、まるで新車のような車に乗って帰る。洗車を手伝うのは少々面倒だが、綺麗になった車に乗り好きな音楽を聞きながら車に揺られるのは結構好きだった。よく男性の好きな仕草で車を運転する時の仕草がかっこいいなどと聞くが、うちの母も負けていないと思うのは、私がマザコンなだけなのだろうか?
そう、J-POPとは親子で作ってるコラボレーションミックスCDである。
私の父の名前はJORO。大の音楽好きで、とてもこだわりがあるのです。
毎年私、姉、そして、父が協力して作ってる家族プロジェクトは気が付けばもう10年、10枚。
父はこのJ-POPにその年気になった曲、家族で”これは盛り上がったね”と思う曲を選ぶのです。
話題曲、ドラマの主題歌、そして偶に単に彼の懐かしい曲、色々と20曲ほど毎回入っています。
まず曲選びから始まるのですが、これには姉の協力が欠かせない!
姉は父に色んな曲を聞かせたり、アドバイスを上げながら、
入れたい曲を最終的に父が選び、彼女はそのセレクションをまとめ、CDを作ります。
でもそれだけではありません。
J-POPの特質は父の独特な解説ページ。
それには一曲一曲、父のコメントが書かれているのですが、
すべととても個人的で多少上から目線。
「アップテンポで乗りがよく、効き易い曲、久しぶりのヒット!」の様な
あなたは誰だよ、どこの評論家だよ、と突っ込みたくなる感想ばかりなのです。
そのCDは徹底的でして、カバーデザインもあります、そう、ここで私が協力。
カバーには毎回フォトショップで加工された父が出演しています。
ある年はパイレーツ・オブ・ザ・カリビアンの海賊、
ある年はKAT_-TUNの新メンバー、ドラマのキャラだったりと
色んなバリエーションで父は驚く形で誕生します。
最終的にJ-POPは父の友達や親戚に配られますが、驚く事に、
なぜか喜んでくれる人が多く、人によったら、
ファンの様に次のJ-POPを楽しみに待っている人もいる。
私は正直J-POPはあまり聞かないのだが、一つ一つ作った思い出もあり、聞くとその年の出来事や家族と楽しんで見たドラマを思い出し、ちょっとした懐かしさを感じさせてくれる欠かせない作品である。
父は中学卒業後、故郷の新潟を出て、横浜の食品会社の工場で働き始めた。以来、定年までの40年以上を工場勤務一筋で過ごした。毎朝6時に家を出て夜8時に帰宅する生活。生真面目な父は愚痴など一切こぼさず、母や私たち兄弟のために一生懸命に働いてくれた。私は幼い頃から、そんな父の背中がとても偉大に見えた。
そんな父と違い、私の方はと言えば…。中学入学時、俊足を見込まれ陸上部に誘われたのにもかかわらず、朝の練習がないということだけで卓球部に入部するような、お気楽な子供だった。中学時代の恩師からも「もう少しやる気を出さないと、いざと言う時に苦労するぞ」と言われたが、その言葉は後々現実となった。例えば高校時代の卓球大会。あと一人勝てば全国大会進出という試合で大逆転負けをしてしまった。就職活動時には、大本命の会社の筆記試験で日付を書き間違えるミスをした。何事にも一生懸命になれない私は、土壇場の緊張する場面で、力を発揮できない人間だった。
そんな私も社会人となり、結婚して家庭を持った。しかし2年ほど前、46歳で突如リストラされた。そこで、家族のためにと一念発起して飲料メーカーの工場に再就職したが、すぐに腰の痛みに襲われ動けなくなった。病院に行くと、椎間板ヘルニアと診断され、もう力仕事は無理だと言われてしまった。これも、今まで一生懸命に生きて来なかった報いなのかもしれない。そう考えて、がっかりとしてしまった。
そして今、派遣で働きながら再就職先を探している。
そんな時、父が我が家を訪ねてきて、「少しだけど使ってくれ」と封筒を手渡してくれた。中には、かなりの額のお金が入っていた。
「ごめん、父さん。一生懸命働いていつかお金を返すから」
私は頭を下げた。すると父から一言。
「お前が一生懸命やっているのは分かっている。腰を大事にしろ」。
果たして私は一生懸命にやっているのだろうか?自問自答した。ただ、父がそう言ってくれたのだ。たぶん、今の私は一生懸命にやっているのだと思った。
その日、駅まで見送った父の背中。かなり小さくなってはいたが、子供の頃と同じ偉大な背中だった。
これから、どのような未来が待っているのか、正直、分からない。不安ばかりが胸をよぎる。だが、父の偉大な背中を一生懸命に追い続けようと思う。それこそが、私の未来に繋がっていると信じている。
ごめんね。ありがとう
今だから言える言葉だ
僕は昔から大人しい方ではなかったから、たくさん迷惑をかけた。高校生の時に先生に呼び出されたり、遅く帰る日が続いたり、勉強しなかったり。
たった一言の『ごめんね』が言えなかった
毎日僕の好みに合わせたご飯を出してくれたり、急に美容師になりたいと言い出した時に背中を押してくれたり、美容師になって壁にぶつかり、泣きながら話す僕の話をうんうんと、黙って頷いて聞いてくれたり
たった一言の『ありがとう』が言えなかった
今の僕は店長になり、後輩の面倒も見ている。それなりに大人になれたつもりだ。だからか、最近ふと思うんだ。今までの自分の弱さや照れは何だったんだろうと。呆れるほどだ
たくさん心配も迷惑もかけた。きっとこれからもかけるんだろう
僕をこの家に産んでくれた事、感謝してる。
だから
ごめんね
ありがとう
これからは言い続ける言葉だ
めんどくさがりで人見知りの私は、小学生のとき学校へいくのが嫌だった。
そんな時、父は決まってこう言うのである。
「学校の、校の字を見てごらん。父という漢字があるだろう。学校のなかに、お父さんがいる。だから、元気で学校に行くんだ。」
父は、教師だ。
私が朝起きる前に仕事に行き、夜寝てから帰ってくる。
だから 子どもの時は、父と遊んだ記憶がほとんどない。
父は、早い話が出世の早い人だった。34歳で学級担任を外れ管理職に。そして49歳という若さで校長試験に合格。
しかし、父の思いとは裏腹に、校長として学校現場に入ったのは試験合格の数年後だったという。
その時私は気付いたのである。
「学校のなかに、お父さんがいる。」
しかし学校の校の字には、父の上に「鍋蓋」があることを。
私の胸はぎゅっと苦しくなった。
父は学級担任として、もっと子どもに教えたいことがあったのではないか。
校長として学校のために早く働きたかったのではないか。
その熱い思いを、重く冷たい鍋蓋で抑圧され、息苦しくなっていたのではないだろうか。
しかし父は絶対に不平を漏らさない。人と接する時はいつも笑顔だ。
花に水をやりご飯を作り、家族への優しさを忘れない。
そんな父の背中を見て、わたしも教師になった。
「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。」
「周りの人に感謝しなさい。自分一人では生きていけないのだから。」
いつしかわたしは、父に何度も言われていた言葉を、子どもたちに話していた。
やはり、
「学校のなかに、お父さんがいる。」
めんどくさがりで人見知りのわたしは、眠たい目をこすりながら今日も学校へ行く。
ちゃんちゃん
ちゃんちゃら
ジャラジャラ
ジャンジャン
軽快で明るくてうるさい私の性格のような音楽が聴こえてきた。
町外れにある田舎のパチンコ屋も、
都会の真ん中にあるそれも切り取ったように同じ、
すてきにうるさい。
軍艦マーチを聞くと、わたしは父のことを考える。
ギャンブル好きで、競艇で家を失くした爺さんとは違って、
私の父はまったくギャンブルをしない。
多趣味でそこまで手が回らない、そんな所だろう。
父として100点。
友達にも自慢で何歳になっても、かっこよくなる、私の父。
そんな父に8歳の私が放った一言。
「なんでお父さんいるのさぁ」
それは私の誕生会。友達もきて、なんだか浮ついていた私。
父も家にいた。
口が勝手に言ってしまった。
気づいたら誕生会も終わった夕方。
父の姿はどこにもない。
少しづづ心配になった私は母に聞く。
どうやら普段はしないパチンコなぞに行ってしまったらしい。
一向に帰ってこない。
父娘の立場が逆転して父の帰りを家で待つ私。
なんだか一生帰ってこないような気がしてしまうくらい。
少し遅くなって父が玄関から入ってくる。
「どこ行ってたのよ!」
娘がまるで大人のような言い方で、
真ん丸の顔に三角の目をのっけてそんなことを言うので父は笑っていた。
ちゃんちゃん
ちゃんちゃら
ジャラジャラ
ジャンジャン
あの音を聞くと、胸がきゅっとなる。
お父さん、あの時はごめんね。
ちゃんちゃん
ちゃんちゃら
ジャラジャラ
ジャンジャン
日曜日の朝になると、夫は食事が終わってもリビングにいる。いつものように自分の部屋でもなければ畑でもない。じっと待っている。全身を耳にして。夫より一瞬早く犬が鳴く。狂ったように嬉しそうに鳴く。そして夫ときたらまるで恋人でも来たかのようにいそいそと立ち上がる。四十代で脳出血で倒れた体をもどかしそうに足を運びながら。
「お父さんいこうか」
息子からのモーニングの誘いである。
二十年以上前、息子が中学、高校時代には
こんな日が来るなんて想像もできなかった。夫はお酒を飲んだ後、子供たちを並べて説教するのが常だった。子供たちは逃げることばかり考えていた。要領の悪い息子がいつも捕まり、さんざんの説教の後は必ず暴力だった。家を放り出されたいや逃げ出した息子の行き先を探して何度夜の街の中を探したことだろう。夫が病に倒れ、子供たちが成人していく中で、様々な出来事があった。
息子が結婚して、
「お父さんも、あの頃子供三人を大学に行かせて大変だったと思う」
ぽつりとそう言ったことがあった。息子が父親になった頃だった。その頃から息子の父親に接する態度に大きな違いが出てきた。まさに息子が父親を理解する瞬間だったと思う。
以来、体の不自由な夫をあちこちに連れて行ったり、モーニングに誘ったりしてくれるようになった。
娘と母親のようにぺちゃくちゃとしゃべり仲良く買い物に出たりなどはしないが、夫と息子はモーニングから帰って将棋の番組を見ながら、無言に近いような会話をぽつりぽつり交わしながら父子のささやかな時間を共有している。
自分の子供を持って初めて父親を理解できる時が来るのかと思う。愛情表現の下手だった夫の愛情が初めて分かるからかもしれない。
母は父の死をきっかけに認知症となり、2年前夜道に出たところでつまづき、大腿骨を骨折。これを機に、介護施設に入居している。
入居まもなくして施設の男性職員の方を「社長!」と呼ぶようになった、皆なぜ母がそう呼ぶのか最初わからなかったが、認知症となり名前を覚えられず母なりに考えた苦肉の策なのであろう。
車椅子に乗っているものの母は施設内一元気、今日も母の「社長!!」の声に皆苦笑いしながらも「はい!!」と答えてくれる優しい方たちばかり。
いつものように姉・兄・妹と食事を済ませ、母の部屋に行くと、母のベッドの脇のカレンダーに「やまむら」と、か細いえんぴつの文字が。
枕を直していると枕の下からは、私が母宛てに出した手紙の封筒が、裏には「やまむら」とある。
さすがに「やまむらさんてだーれ?」と聞くと、母ははにかんで、照れくさそうに「19歳のおとこん子、よーくしてくれるの、名前忘れないように。。。」と、まるでその70歳年下の19歳の男性職員に恋でもしているかのようでいじらしく、娘としてはその先は聞くことが出来なかった。
何でもいい、誰でもいいです、母の心を動かして楽しい気持ちにしてくれるのであれば。
「やまむらさん」母のことよろしくお願いいたします。 娘より
私が中学生の頃のことだ。休日になると、父は「今日は何処か行くか!」と張り切るのだった。「弁当持って公園でも行くか!」と、家族で出かけたがる父を、私はウザったいと思っていた。中学生という難しい年頃に、家族で出かけるなんて、恥ずかしい。それに当時の私は部活に勉強にと忙しく、休日くらいは寝ていたいと思っていた。
そして母はその頃更年期で、出かけるのが億劫だったらしく、「落ち着いて黙って家にいたらいいじゃない」と言っていた。私と母に出かけることを拒否されると、父は決まって「うちは出不精だね!」と吐き捨てるように言った。
時は経ち、私は現在働いている。毎日コンピュータに向かう仕事で、息が詰まる思いだ。週末が待ち遠しく、休みを楽しみにして働いているところがある。休みの日くらいは出かけたい、と思うのだ。出かけられなかった週末明けは調子が悪い。そんな毎日を送っていて、はっと気づいた。父も昔はこんな思いだったのだろうか。父はもう定年になって退職したが、きっと大変な思いで働き、家族を養ってくれたに違いない。働くとは大変なことだと、今になって気がつく。戦いのような職場で、週末くらいは出かけたい、そんな父の気持ちが漸く分かったのだ。あの時は父に悪いことをしたな、と思う。大人になって初めて分かった父の気持ち。父は、俺が働いているおかげだ、なんて一度も言ったことがなく、定年まで立派に勤め上げた。
お父さん、今なら外へ出かけたい気持ち、分かるよ。あの頃は強く拒否してごめんね。
「おじいちゃーん!次はこれで遊ぼう!」
「よしよーし、それか!おいで!」
小さいころからおじいちゃんが大好きだった私。三歳の夏、いつものように家族揃っておじいちゃんの家に泊まりに行った時のことです。みんなで食卓を囲んで談笑していると、お母さんがにやにやしながら近付いて来て、てっぺんだけ髪の薄いおじいちゃんの頭を指差して小声で言いました。
「おじいちゃんの正体なんだか知ってる?」
「人間じゃないの?」
「おじいちゃん本当はね・・・・カッパなんだよ。」
「え!?」
びっくりして慌てる幼い私。
「カッパは頭の上のお皿が乾くと死んじゃうんだよ。・・・あれ?もしかして今乾いちゃってるんじゃない?」
バシャーン!
言い終わるか言い終わらないかのうちに、なんと私は手に持っていたオレンジジュースをおじいちゃんの頭に浴びせていました。
「なんだ・・・?」
一番驚いたのはおじいちゃんです。私を怒ろうにも
「おじいちゃんが死んじゃうー!」
と訳の分からないことを叫びながら、ジュースをかけた張本人は号泣しているのですから。お母さんは事情を説明し、
「ばっかもーん!」
とこっぴどく怒られ、後から私にも
「まさか本当にかけるとは思わなかった。お母さん嘘ついた。ごめんね。」
と謝りに来てくれました。それを聞きながら私は、「お母さんでも怒られることがあるんだ。」と新しい発見をし、「大人も嘘をつくと怒られるんだ。嘘は絶対つかないようにしよう。」と心に誓いつつ、おじいちゃんがカッパじゃなくて良かったとほっとしたのでした。
「かあちゃーん、今日なに?だれ?」と3号君。
「わかんない。カレンダーみて。」と私。
「ほら。今日は30日だからここ!ゆてり、じゃなくて、てりゆ、だよ。」と1号ちゃん。
「やっぱりオレが母ちゃんの隣だよ。ゆう、どいて!」と3号君。
「今どくところだよ。はいよ。」と2号君。
「お茶々。飲むー。」と4号君。
このナゾの会話は、毎晩我が家でくり広げられる会話です。別に何かの暗号を行っている訳ではございません。これは今夜寝る並び順。母ちゃんの隣になる人の順番を言っているのであります。
我が家には、小6の1号ちゃんの娘をはじめ、2号君、3号君、4号君と息子がいます。それぞれの名前の一文字目を上から読むと「りゆてめ」。4号君は小さいので、いつも私の隣に寝るが、上の3人は毎日順番で寝る場所がかわる。つまり、3日に1回私の隣にねる順番となるのです。今日は、てりゆの日。私の隣は「て」。明日の隣は「り」。という具合です。
毎日カレンダーがかわると、全ての日に大きな字がかかれる。
「り、ゆ、て、り、ゆ、て、り、ゆ、て」
3日に1回となりになる子は、寝る前にいろいろお話をしてくれる。いつもより少しだけヒミツも話してくれる気もする。
「へー、そーなんだー。」の日もあれば、「えー、そんなことあったの?」の日もあったり。
3日に1回私の隣を喜んでくれる子ども達。私って、世界一幸せもんな母ちゃんだなーと思って寝る私。帰りが遅い父ちゃんには申し訳ないけど、親子のおいしいところ、ガッツリ毎晩満喫させて貰っている私です。
「りゆて、ゆてり、てりゆ」
えへへ。
「お父さん!おかくち(赤口)ってなんのこと?ボクの誕生日のところにあるよ」
一人息子のオマエは、朝ごはんをこぼしながら新しくなった二月のカレンダーの二十七日を指差していた。
毎日のように読める漢字を見つけてはやたらと訊いてきた。
それまでは、何を訊かれてもすぐに答えられたから、お父さんは何でも知っているとおもっていただろう。
ところがカレンダーの六曜には、まったくうとい。大安、仏滅、友引はまだしも、赤口、先負、先勝は読み方さえも知らない。まずいものを見つけてしまったな、とおもわず顔に出てしまったようだ。
国語辞典でしらべているところを、オマエが不安そうな眼差しで見つめていた。それは私にはじめて失望した顔だった。
「・・・・あかくち(赤口)ってなに?」と訊いたオマエも今ではすっかり父親の顔になり、自分の息子に「何でも食べないと、大きくならないよ」と諭している。小さい頃ピーマンは嫌い、トマトは嫌い、とお母さんを困らせていたことなど覚えてはいまい。
男の子は父親の真似をしたがるものだ。ボール投げでも、ボール蹴りでも、初めは父親のようには上手くできない。だから、息子は「お父さんはすごい!」とびっくりする。
息子にとって父親は万能なのだ。だから、オマエの言うことは素直に何でもよく聞く。
オマエも、子どもは思い通りになるものだ、と有頂天になっている。だがいつまでも続きはしない。
地区の運動会の障害物競走で転んだりすれば、息子はショックだ。オールマイティーの虚像は空しく崩れてしまう。
でも、心配するな。実像が虚像より小さくなってしまっても、その分にあり余る愛情を注いてやればいい。
私は、母が苦手だ。
電話に出る時にも緊張する。特に機嫌の悪い時、必ず私に言う言葉がある。
「貴女のような専業主婦は、暇でいわね。私は、仕事しているから休む暇は無いのよ。働かざるもの食うべからずだわ!」
そう、母は、薬剤師として長年働いてきた。
八十三歳の今も、現役である。
今年母は、年明け早々に一人暮らしになった。父が、他界したからだ。末期癌だった薬剤師の父は、病院嫌いで、入院わずか六日間で旅立って行ってしまった。
私が駆け付けた時は、まだ普通の会話が出来ていた。夜、そばに付き添った私に父が、唐突に、
「母さんは、掃除機が怖いのかもしれない。
きっとそうだ。あの音が怖いんだ。」
と、言った。
薬局を経営する我が家の家事は、幼いころは祖母と従業員が全部やっていた。祖母が、寝たきりになり老老介護が始まった頃から、薬局の仕事もしながら、朝食の仕度と掃除は、父の役目となった。
父が亡くなる半年前、突然父は、最新式のコンパクトで軽い掃除機に買い替えた。他にも自動で掃除をする丸い形の掃除機も購入している。しかし、母は一度も使わなかった。
父が、何度か教えようとしても、逃げるように嫌がった。そのたびに、父は首をかしげた。
父亡きあと、すぐそばに住む弟が、たまに掃除機をかけてくれるらしい。しかし、弟夫婦も忙しく、母の家の掃除まで手が回らない。
今年、父の初盆で、私は帰省する。
「早く帰ってきてね。掃除が待っているわよ。掃除機できちんと掃除してね。」
電話口から聞こえる母の声は、心なしか寂しそうだった。
「母さんは掃除機が怖いのかもしれない。」
最後の力を振り絞って、父は、私に残された母を気遣うように頼んでいったのだと思った。
・男 人間には、いく度か知識欲の昂揚期というのがあるらしい。その第一期とも呼ぶべき時期は、二歳後半から四歳ぐらいにかけてだろうか。とにかく、何でも質問したがる時期らしい。
たかがガキとあなどってはいけない。夕食の会話中だとか、風呂の中だとかで、ぼくはそれが、しっかりとヤツらの中で花になり、実になっていることを実感する。しかも、ちゃんとTPOに合わせた心にくいばかりの実践ぶりだ。
先達ってこんなことがあった。
久しぶりに家族ででかけた折、外国人の家族と一緒になった。その中にかわいい金髪の女の子がいた。彼女を見るや三人のガキ共は さっそく好奇心をそそられたらしい。おもむろに近づいていくと、ヒロスケが話しかけた。全く女には手がはやいのだ。
「いくつ?」
「どこかち来たの?」
「名前は?」
しかし、むこうは知らんぷりだ。勿論、相手は何をいわれているのか理解できていないのだが、尋ねたヒロスケはそれが面白くない。何とかして気を引くべく、常日頃のピエロぶりを発揮する。すると今までだまっていたヨーヘイ、兄貴らしく、諭すようにのたまった。
「日本語じゃだめだ! ヒロ、英語でなきゃ!」
「英語って何だ?」
「うーんと、ホラ、A、B、Cってあるだろ!」
「あっ、ABCか.ABCね」
かくて、ヒロスケはこれを素直に実践にうつし、女の子に向っていわく。
「A? B? C?」
「・・・・?」
「A? B? C?」
「Go away !」
まさに、『学ぶ』の語源、『まねぶ』を地でいくような何ともはや漫才みたいな話だが、子どもは学んだことをすぐに試すものらしい。そして、失敗をくり返す。だが、くり返しながら学んでもいくのだろう。
「いってきま〜す!」という元気な声とともに切れた母からの電話。長年教師をしていた母が退職を機に、どうしても叶えたかった夢へと走り出しました。そう、こつこつとお金を貯めて出かけた先は…世界一周三か月半の船旅!
「ふ、ふなたび!?」と、あんぐりと口を開けたのは一年前。母は佐渡の出身でしたが、その行き帰りの2時間半の船でさえ酔う人でした。しかし、絶対行かないはず…とタカをくくっていた私を裏切り、母はどんどん準備を進めます。
日頃から家事が得意な父は笑顔で賛成し、子ども4人は終始不安の声。しかし、母の決意は固く、ついに意気揚々と出かけてゆきました。
乗船当日、相部屋となったのは一歳違いの他県の女性三人。みな一人で参加というので、「類は友を呼ぶ」状態です。楽しい旅になることを確信した母の声は、ご機嫌そのものでした。
さて、その声を全く聴かなくなってから一か月。
感じた、この不思議な気持ちはなんでしょう。
今までは私の娘(つまり孫)のお世話で遊びに来てくれることも多々あったものの、パッタリなくなると寂しいものです。聞きたいことがあっても、話したいことがあっても、メールも電話も通じません。にわか、もう会えない相手のように感じ、私は『母ロス』に陥ったのでした。急に大切な家族を失うって、こういう気持ち?母の旅を通して、その存在の大きさに驚き、そして日頃からもっと「感謝」しておくべきだったという反省の気持ちが生まれたのです。
そして今日、三か月半の旅を終えて、母は無事に横浜港に戻りました。
「ただいま〜あ」というのんきな声を聴いて、ほっとしたのはもちろん、一回も船酔いで苦しまなかったというのには心底驚きました。幼稚園の帰りに、久しぶりのおばあちゃんに飛びついた娘を見ながら、私もこころいっぱい、母に飛びついていました。
いつもありがとう。いつまでも元気に、そしてこれからも夢を大切に、楽しく生きていってください。
2年ぶりに会う父の姿は、うんと老けて見えた。頬のしわが一段と深くなり、頭部はまるで、タンポポの綿毛のように白く染め上がていった。口数が少なく、愚痴をこぼさない父だけれど、仕事と祖母の介護で疲れ切っているのが明確だった。
アジア一危険だと言われる土地に留学し、もう2年が経つ。父は私のすることに、口を挟んだことは一度もない。
テストで赤点を取ろうが満点を取ろうが、叱ることもほめることもしない。父親の威厳を見せようともしない。私のことには全く無関心なのだと、当時の私は感じていた。
そんな父が私の目の前で感情を表にするのを、一度だけ見た。
小学3年のころ、新しく買ってもらった真っ白の運動靴を学校にはいていったときのことだ。真新しいその靴は、虐めっ子に踏みつぶされ、水田へと放り投げられた。
片方の靴紐がなくなり、泥を吸い込み黒くなった靴とともに帰宅した私を見て、父は言った。
「これ、誰がやってん。」
虐められていることを隠していた私は、
「自分で、やってん」と答えた。
すると、父が声を荒げて言った。
「誰がやったんやって聞いてんねん。」
私は初めて怒鳴る父に驚き、正直に答えた。
父は私を引きずって、その虐めっ子の家まで行った。ガラの悪そうな虐めっ子の親に対して、父は物怖じすることもなく怒鳴りつけた。
その日の夜、私は父の蒲団に潜り込んだ。今日のことで恨みを買ってしまい、誰かだ父を殺しに来るのではないか。そういった不安で、胸が痛くなった。私は大きな父の体を抱きしめて、
「絶対に死なんとってな。」と言った。父は、なにも言わずに、少しだけ強く抱きしめ返した。
家を出てから、父との連絡はからっきしだ。
しかし、私は知っている。本当に折れてしまいそうになった時だけ、さりげなく手を差し伸べてくれる。それが、私の父だ。私もあんな立派な男に、なれるのだろうか。
ふと鏡を見て、気づいた。私の側頭部に咲く、一本の綿毛。
今年の春、僕は母と大喧嘩をしてテレビ、ゲーム機、携帯電話を壊した。喧嘩の原因は僕の生活態度だった。僕は学校から帰宅するとテレビの電源を入れ、おやつを食べて、ゲームをする。勉強は寝る直前。なぜなら学校で友達と話をするので、携帯のネットを利用してゲームのことを調べたり、ゲームのレベルを上げたり、好きなアニメを観たりしなければ仲間との会話についていけないからだ。それで母から禁止されていたネットを長く使ってしまい、バレてこっぴどく叱られた。本当は直に「ごめんなさ」と素直に謝れば良かったのだが、その時は閲覧履歴を隠すために思わず携帯電話を壊した。「もう使わないから」と断言し、友達の会話を心配した。ところが母は「これを買うのに母さんはどれだけ苦労したか分かって言ってるの」と言った。大きな失敗だった。
僕は母がいくつも病気を抱えているのを思い出した。飲んでいる薬は一日9種類以上でどれも医者から完治しないと言われている。それでも母はどんなに体調が悪くても仕事を休まない。足の爪の手術をした時も、肋骨を骨折した時も、仕事と家事を両立させていた。それはきっと僕が友達から「あいつの家は母子家庭だから貧乏だ」と言われないために頑張ってくれているのだと思う。僕は何て馬鹿なことをしてしまったのかと気づいて後悔した。癌を患いながら治療より出産を優先させて産んでくれた母。僕はそんな母を助けていかなければいけないのに。僕は涙を流して「ごめんなさい」と言った。母は「今まで知り合った多くの人達がお前を応援している。そのことを忘れてはいけないよ。正しい選択をしなさい」と言った。そうだ、僕は周囲の人達に支えられて今がある。もっと皆に感謝し、人のために何ができるか考えて、行動していくことが恩返しなのだと気づいた。