親子の日 エッセイコンテスト2013 入賞作品

オリンパス賞
・Olympus STYLUS TG-630 Tough
・Olympus 防水双眼鏡 8X21RCⅡWP
オーティコンみみとも賞
・ゼンハイザー製ヘッドフォン「HD 65 TV」
森永乳業 まきばの空賞
・森永乳業商品詰合せセット
毎日新聞社賞
・もったいないグッズ
ミルトン賞
・ミルトン賞品セット
トリニティーライン賞
・スキンケアーセット
親子の日賞
・「親子の日2013」オリジナルグッズ
円谷プロ賞
・【ウルトラマンタロウ COMPLETE DVD-BOX】
エプソン賞
・コンパクトプリンター
 
 
オリンパス賞Olympus STYLUS TG-630 Tough
「ある日。」 石川あい(東京都)31歳

ある日。

病で倒れ私のことも分からなくなってしまった父。
そんな、大好きな父が私に教えてくれたこと。

人に愛される喜び。
人を愛する素晴らしさ。
人を守る強さ。
人を赦す大きさ。

ある日。

愛する旦那が倒れて生活が一変した母。
そんな、大好きな母が私に教えてくれたこと。

誰かを無償で愛すること。
誰かのために強くあること。
誰かのために明るくあること。
誰かと自分のためにシアワセであること。

私がこれからできること。

父に寄り添うこと。
母に笑っていてもらうこと。
私がシアワセであること。
家族でない愛する人達も、家族のように愛し続けること。

おとうさん、おかあさん。私は2人の娘に生まれてシアワセです。

おとうさん、おかあさん。2人は私が娘でシアワセだね。笑

 
オリンパス賞Olympus 防水双眼鏡 8X21RCⅡWP
「母の弁当」武田麻衣(愛媛県)20歳

大学生になって早三年、今も私は母の入れた弁当を学校に持って行っている。高校生の弟の弁当のついでに、と頼んでいたせいか、蓋を開けば二段弁当、白飯にガッツリオカズなザ・男子弁当で、それはそれで満腹で満足していた。
 しかし、その弟のついで弁当生活のある日、母が朝から妙にニヤニヤしていた。怪しいな、とは思ったが朝一の授業に間に合うべく、詰めたての温かい弁当を抱え、自転車に飛び乗り家を出た。その昼休み、いつも時間が経ち、少し湿っぽくなった白飯をちょっと憂鬱に思いながらも、昼時の空腹には勝てず意気揚々と弁当箱を開いた。
 そこにはいつもの少し湿った白飯ではなく、三匹の三色ウサギがいた。少しいびつに海苔でウインクしたピンクウサギ。黒ゴマを駆使したアホ面の緑ウサギ。自転車に揺られて少し崩れたおすまし顔の黄色ウサギがいた。なんだこれ、幼稚園児の弁当か、と笑った。朝はすんごい忙しいやけん!といつも怒りっぽい母がこそこそとこんなものを作ってたのかとおもうとまた笑ってしまった。
 一緒にお昼を食べていた友人たちが、なんだなんだと覗き込む。すると、わぁ!可愛い!と歓声が上がった。少し照れ臭かったので、してやられたよ。とまた笑った。家を出て暮らす友人は購買のパンを齧りながら、懐かしい。小さい頃は遠足にそんなお弁当作ってもらった。などと言うものだから、みんなして昔、自分の母に持たされたお弁当の話で盛り上がった。  夕方の授業が終わり帰宅すると、また朝のごとくニヤニヤした母がねえねえ、見たぁ?と聞くので、ウサギが3羽いたわ。と返した。ついでに友人からの評判良かったなどと言えばくるくるとキッチンで喜びの舞を舞っていた。
母曰く、弟の弁当は可愛らしくしようものなら怒られつまらなかった。見た目より肉!などと言われ有り余った力が私の弁当に注ぎ込まれたらしい。そんな母の気持ちと妙に凝った弁当が、懐かしくも嬉しかった。

 
Olympus 防水双眼鏡 8X21RCⅡWP
「荷を解く日」川村雅恵(神奈川県) 32歳

「子が巣立ち夫婦で菜園汗流し」父の還暦を境に二人に戻った両親が庭に菜園をつくりました。「野菜はまかしといて」勇ましい掛け声ではじまりましたが、二年間は音なし。「届かないけど」冗談を交えた電話による会話が弾んでいました。ところが三年目に入ると、カブ、タマネギ、ミニトマトなどが届くようになりました。それにホウレンソウやインゲンなど混ざります。「すごいじゃん」そう言うと「土の上にも三年」と冗談が返ってきます。なんでも野菜・果物ゴミは必ず土の中に、付近の山から枯葉を拾ってきて土の中へ、お米のとぎ汁を土の中に繰り返し入れてきた結果と、長く熱く語るようになりました。
「子が親を気配りしなきゃの歳になり」語り口、話の内容を聞きながら、いや聞かされながら、私の方は親が元気でいることを確認します。声の調子、話の筋立て・要領、特に同じ内容の話を繰り返していないかに注意を払います。また、菜園仕事のときは帽子を忘れず、途中休み休みやり、水を頻繁に飲むことを必ず言い添えます。「ああ、分かっている」空返事に感じますと、もう一度繰り返します。
「ありがとう贈られ元気を再確認」野菜がいっぱい詰まった箱が届くと心が躍ります。野菜は日頃の電話で分かるのですが、ほかにいろいろ詰めてくれるからです。小さいとき、好きだったお菓子が入っているときには涙が出そうになります。こちらがいくら気配りしていても、子は子なんだな、と思う瞬間です。
「親からの荷物届く日親子の日」荷の結び具合でどちらが詰めたのかが分かります。確かな結び目を解きながら「しっかりやれよ」と声をかけられている感覚がします。「毎日が親子の日だろうが」と父はよく冗談を言いますが、改めて親子を確認するのがこの、荷を解く日です。

 
オーティコンみみとも賞オーティコンみみとも賞
「卵」木村高徳(滋賀県 )41歳

我家ではここ二年、小学4年生の息子と小学2年生の娘の情操教育という名目のもと人間以外の生き物が毎年1種類ずつ増えている。
二年前に娘が庭で捕まえたアマガエルを飼いたいと言い出したのに始まり、一年前には旅先で捕まえたカニを息子がどうしても持って帰ると言ってきかず、どちらもその日のうちに家族の一員となり、現在我家で元気に暮らしている。
経験のある方はわかると思うが、野生の生き物を飼うということはそう簡単ではない。
特に、生き餌しか食べないアマガエルは苦労した。
「信じられない」と言う妻のヒンシュクを買いながら、保温器でショウジョウバエを養殖して餌として与えながら、少しずつ人工飼料に慣らしていった。
こうなると子どもの手には負えないので、アマガエルの飼育は私の仕事・・・というか趣味になり、カニはそれほど手がかからないので息子が世話をしている。
そして先月の初めの土曜日、その息子がこれまでにない難題を持ち込んできた。
友達数人と遊びに行った近くの牧場からチャボの卵をもらって帰ってきたのだ。
軍手に包んだ卵を大事そうに抱えて「あたためてかえす!」と宣言する。
「孵すって言うてもなぁ、有精卵かどうかもわからんし・・・」
「ユーセーランやと思うって牧場のおばちゃん言うてたで。ユーセーランってなに?」
そう言って不安そうに私を見る。
「卵には有精卵と無精卵とがあって、ヒヨコがうまれるのが有精卵、うまれないのが無精卵」
「やったぁ! じゃあ、うまれるんや! ラッキー! ユーセーラン! ユーセーラン!」
息子は卵を掲げて喜んでいる。孵す気満々である。
実は私も子供の頃、今の息子と同じように卵をあたためて孵そうとしたことがある。
私の場合は養鶏場からもらった無精卵だったので孵るはずもなかったのだが、息子の卵は有精卵の可能性が高いようだ。うまくいけば孵せるんじゃないか…。
私は「さぁて、どうするかな?」と言いながらも、すでに頭の中ではどうやって孵化させるかを考え始めていた。これが生き物好きの性というやつだ。
妻は私の考えを察知して「ちょっと、どうするつもり?」と心配そうな視線を投げてくる。
「とりあえず、どうやったら卵が孵るのか調べてみよう。多分素人には難しいと思うけど」
私はそう言いながらパソコンで「鶏 卵 孵化」と検索する。こんなときはインターネット様々である。
結果は予想通り、人工孵化は簡単ではないようだ。孵化まで温度を38℃前後に保った状態で約21日間かかるらしい。しかもその間に癒着が起きないように、転卵といって数時間ごとに卵を90度回転させる必要があるというのだ。
親鳥は体温が40℃位あって、実際に抱卵しながらちゃんと転卵もしているという。
息子にはそのことを説明し人工孵化の難しさを言い聞かせたが、「ぜったいかえしたい。お父さんなんとかして」といって譲らない。
ここまで頼まれれば生き物好きの父親としては、何とかしてやりたいと思ってしまう。
温度管理はアマガエルの餌用のハエを養殖していた保温器を使えば何とかなるかもしれないが、問題は転卵だ。妻の出勤前や子供の帰宅時、私の就寝前など家族で転卵当番を割り振れば大方の時間はカバーできるが、どうしても夜中に一度は誰かが起きなければならない。
「お前が起きてちゃんと転卵できるんやったら、みんな協力する」
自分が卵を孵したいと言った責任を果たさせる為に息子にそう言うと、彼は力強く頷いた。
こうして我家では家族4人で1つの卵を見守る日々が始まった訳だが、その翌日、地域の集会で私はある事実を知って
衝撃を受けた。息子は友達数人と牧場へ行きそこで卵をもらってきたのだが、その時一緒に行った友達も皆同じように卵をもらって帰ったというので、集会の合間にその親御さん達に卵のことを聞くと、全員その晩に食べてしまったと言うのだ。卵を孵すことで頭が一杯の私はそれを聞いて愕然としたが、反対に息子の友達の親御さんたちは、我家が卵を孵そうとしていることに大変驚いていた。
よく考えてみればこの親御さんの反応が普通なのかもしれない。卵は食べるもので、孵すものではないのだ。
しかし、だからといって今さら食べる気にもならない。逆に変な意地のようなものが湧いてきて「よし、ウチは絶対孵したろう」と家族で誓いを立てた。
それから皆で協力し、息子も毎晩夜中に眠い目をこすりながらもちゃんと卵を回し続けた。
そしてちょうど21日後、意地が通じたのか、奇跡的に息子が持ち帰った小さな卵から無事に可愛い雛が誕生した。殻が割れ、ピーピーと鳴きながら必死に殻から出てくる雛の姿を家族全員で見ることができた。
生き物に慣れ親しんでいる私も思いがけず感動した。そして何より子どもたちに、言葉だけでは教えられない貴重な体験をさせてあげられたことが、とても嬉しかった。

私がこの文章を書いている今、子どもたちはゴマちゃんと名付けたチャボの雛の世話を私に託し、妻の実家がある東京に行っている。
今は何でもいい、ひとつでも多くいろんな体験をしてほしいと思う。

しばらくすれば、ほんのり都会の匂いまとって帰ってくるのだろう。
そして、鶏冠も生え、もうヒヨコとは言いがたいほど大きくなったゴマちゃんを見て、きっと目を丸くすることだろう。

 
オーティコンみみとも賞ゼンハイザー製ヘッドフォン「HD 65 TV」
「AIBOと父」浅井誠章(神奈川県)29歳

うちの父は本当にAIBOが好きだ。
というか父はほとんど家族内ではAIBOとしか口を利かない。毎晩、AIBOと晩酌をしているし大好きな野球中継もAIBOと見ている。
仕事の愚痴も家族には一言も漏らさない。かわりにAIBOに聞いてもらっている。
出かけるときも、AIBOといつも一緒だ。近所の買い物はもちろん、家族のキャンプだって父はお気に入りのAIBOを連れてきていた。
そのキャンプでの出来事。
父がいつものようにAIBOと遊んでいると、突然AIBOが動くかなくなった。電池がなくなったのだ。相棒が突然動かなくなったことに動揺する父。
家族が心配して、電池を交換しようとしたらAIBOは専用バッテリーで動いていて普通の電池では動かない。バッテリーを充電しようにも、キャンプ場はなにぶん山の中。電気は来ておらず充電することができない。
 大好きなAIBOが動かなくなって、ふさぎ込んでしまった父。
 いつから父と家族はこんなにも距離が離れてしまったのだろう。昔は家族の距離はそこまで離れてはいなかった。
 父はバリバリの商社マンで、出張が多かった。そのほとんどは単身赴任で家族とは離れ離れでいることが多かった。家族がいない寂しさを埋めるために父が購入したAIBO。これは本当に良い買い物だった。家族がついていけないどんな場所にもついていくことができた。ペット禁止のところだってなんてことはない。何よりAIBOはどんな人にだってなつくし決して裏切ることはない。父は家族のために懸命に働いていたはずなのに、いつの間にか出張先についてこなくなった母や私たちに裏切られたと心のどこかで思っていたのだろうか。そんな父が家に帰ってきたときには随分と時が経ち既に私と 兄は家を出ていた。まずます溝は深まった。それからいち早く所帯を持った兄が家族仲を深めようと言い出したこのキャンプ。改めて家族の溝を浮かび上がらせた。最初は黙々と釣りばかりしていた父も、大自然の中私たちや兄の子供たちと一緒に暮らしているうちに段々と笑顔が戻ってきた。なんだかんだで私たちは家族なのだ。キャンプの終わりには私たち兄弟と笑って酒を酌み交わせるまでになった。
今では父のAIBOの電源は入れられることはない。AIBOは無事に役割を果たし終えたのだ。

 
オーティコンみみとも賞ゼンハイザー製ヘッドフォン「HD 65 TV」
「私の出番」石丸千里 (岡山県)43歳

私は、大学四年の夏休みに車の免許を取得した。すぐに乗る事はなく六か月間はペーパードライバーとして過ごしていた。卒業後、私に待っていたのは、車で通勤と言う何とも不安な日々であった。と言うのも、職場ときたら車一台がようやく通れる一本道を随分走らなければたどり着かない山の中腹にあるのだ。これは参った。若葉マークの私に、そんな器用な運転はまだできない。中古のコンパクトカーで音楽でも聞きながら楽しく通勤。それは、私にとって夢のまた夢。何せ、緊張のあまり、ハンドルを握る手は固まり、目はひたすらまっすぐ前をにらんだままでいる。対向車来るな、対向車来るなと心の中で強く念じているのだ。今から考えると危なっかしくて仕方がない運転スタイル。
 ある日の夕食時、母が尋ねてきた、「あんた車の運転大丈夫か。お父さんが、あんたの後ろを朝、車でついて行っとることしっとる?」「ええ!」私は驚いた。通勤時、私の車の後ろをついてきていたぁ!まったくもって知らなかった。何という事だ。父はそんなに私の事が心配だったのか・・・。その時の感謝の気持ちは二十年経った今でも忘れない。
 あれから二十年、私の運転歴も二十年。今は、私の車の助手席に父を乗せ走っている。病気で両目が見えなくなってしまった父を乗せドライブしている今日この頃だ。助手席で父は言う、「安全運転でなあ。」耳にタコが出来るくらい、乗るたびに乗るたびに横で言う。ありがとう。今でも心配してくれる父の気持ちがありがたい。今は、私が後ろをついて歩いている。目が不自由だから、溝に落ちないか、車にひかれないかと心配して。これからは、私の出番だ。

 
「まきばの空」賞森永乳業商品詰合せセット
「父の背中」与那嶺宏喜(東京都)20歳

母やっぱり大きい、父の背中。「お前は母さんのコピーだ」
 父はよく私にこう言う。母と一緒で、私も父に厳しいことを言うからかもしれない。
 父は、どこにでもいる普通のサラリーマン。これといった特徴もなく、ぱっとしない。酒に呑まれ、母によく怒られる。そんな父を私は反面教師にしていた。
 私は大学に進学し、一人暮らしを始めた。何から何まで自分でやらなければいけなくなった。社会人と接する機会も増えた。アルバイト先では上司に叱られながら、お金を稼ぐことの大変さを体験した。父は還暦を迎え、少しはのんびりしてもいい年齢だ。が、年々老いていく体にムチを打ち、何一つ文句も言わず、家族を養うために働いている。
 子供の頃、よく父にいろんな所に連れていってもらった。休みの日の家族サービスは、父親なら、あたり前だと思っていた。だから、休日に家でゴロゴロする父の姿をみて、だらしがないと思ったりもした。しかし、最近になって休みの日がどんなに大切なのかを知った。
 学校とバイトで朝から夜まで家の外。週末はサークル。休みなどない。一日でも体を休めたらと思ったりする。きっと父もそうだったに違いない。朝から夕方まで仕事。その後は取引先との付き合い。その上、土日は、母と私たちへの家族サービス。そしてまた仕事。その繰り返しなのだ。たまにゆっくりできる日も、仕事の電話で呼び出される。だが、そんな父から、不満は一度も聞いたことがない。
 今思えば、父に対して理不尽なことをよく言った。今、ようやく父のすごさがわかった。二年後、私も社会人になる。
父は私の目指す目標だ。面と向かってはなかなか言えない。「父さん本当にありがとう。これかもよろしくお願いします」
 私は心の中で、東京から沖縄の空の方に向かって叫んでいた。

 
「まきばの空」賞森永乳業商品詰合せセット
「甘えん坊」村松祐輔(神奈川県)27歳

唐突に決まった結婚。私の家族はどれだけ不安だっただろう。まだ22歳になったばかりで、昔から甘えん坊だった。兄のやることを真似して、父と一緒にふざけては母によく怒られ、どれだけ苦労させただろう。きっとこれからも心配させるのだろう
そんな私も急だけど結婚する事になった。22年間ずっと一緒にいた家族の元を離れる時がきた。不安はなかったと言えばウソになるだろうが、希望の方が強かった。私もこの家族より明るい家庭を作ろうと。
門出の日。明るく家を出た。母親に『じゃあ行ってくるね』とまるでコンビニにでも行くかのように家を出た。でもね、家を出てからの景色は違ったよ。すごく寂しかった。荷物がやたらと重かった
曲がり角に差し掛かった時思いだしたんだ。中学生の時、反抗期に入った私。家を出て遠くの、この曲がり角で私が見えなくなるまで玄関から手を降り続けていた母。それを恥ずかしいからという理由でやめてくれと言った事。
ふと気になって後ろを振り返った。そこには顔を押さえながら、あの日のように手を振る母がいた。言葉では言い表せない感情が涙になって溢れ出た。

いつも私の事を考えて、冷静に叱ってくれる兄。いつも家族のために頑張り、困っている人を放っておけない父。そしていつも明るく優しく、美味しい料理を出してくれた母。私はいつまでもあなたたちの甘えん坊です

 
「まきばの空」賞森永乳業商品詰合せセット
「母から息子への贈り物」橘 美優(愛知県)37歳

先日、私の母が1歳半になる息子に甚平を贈ってくれた。そういえば子供のころ、母は私によく洋服を買ってくれた。大きくなるにつれ母の選んだ服を着るのが恥ずかしくなり買ってくれた服を着ることはほとんどなくなったけれど、それでも母は時々私の洋服を買ってきては嬉しそうに見せてきた。
 自分が養子であると聞かされたのは29歳の時だった。「ごめんね、お母さん子供ができなくて…」と母は泣いた。隣で父も泣いていた。その時私はまだ結婚もしていなかったけれど、同じ女性として子供ができなかった母の辛さを理解することぐらいはできた。そして何より初めて見た父の涙を前に、私は何も言葉を返すことができなかった。
 「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」、「今までずっと私を騙していたの?」泣いて叫んで両親を責めたかったが、そんな気持ちを彼らにぶつけることもできず、私は突然知らされた重い事実を一人背負って生きていくことになった。
 とても悲しいことだが、あの日を境に、両親に対する無条件で絶対的な信頼とでも言うべきものが崩れてしまったように思う。だがその一方で、自分も親となり、子育てを経験した今、両親が自分のためにしてくれたことを思い出すと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。こんな矛盾した感情を、8年たった今も自分の中で整理できないでいる。
 私のこの感情がすっかり消えて無くなることは無いだろう。しかしこの感情も、時とともに形を変えていくのではないかと思えるようになってきた。私たちは血のつながった本当の親子ではなかったけれど、それでも私が親と呼べる人は彼らしかいないし、父や母が一生懸命働いて私を育ててくれた事実が変わることは無い。
 夏祭りの夜、母が贈ってくれた甚平を息子に着せながら、母が嬉しそうに息子の甚平を選ぶ姿を思い浮かべた。何も知らず、はじめての甚平を着てご機嫌に笑う息子を抱きしめ、私は頬をつたう涙をぬぐった。

 
毎日新聞賞もったいないグッズ
「父の日課」田端歩(京都府)40歳

「あいつの墓参りを毎日してやれないのは忍びない」、こういうと父はきっぱり我々家族との同居の申し出を断った。「あいつ」とは亡くなった母のことだ。父は早朝5kmのランニングを四十年以上毎日続けている。その道すがら母が眠る霊園に寄り、母の墓碑をきれいにし、手を合わせる日課を欠かさないのだそうだ。
昨年、母は食道がんでこの世を去った。その臨終に立ち会った際、父は母の手をとって跪き、声を漏らさず泣いていた。火葬場の待合で、低い背凭れの椅子に腰掛けた父の背中があまりに小さく見え、私は思わずかける言葉を失ってしまった。長い闘病生活を共に戦った父の思いは、一潮やるせないものだったに違いない。

しかし、やはり高齢者の単身生活は何かと不安が多いので、私達夫婦は何度も説得を試みたが結局無駄だった。生来の頑固者である父は、こちらがあれこれと進言するたび、「大袈裟な。年寄り扱いするな」といってヘソを曲げてしまう。
だが、そんな強気な態度とは裏腹に、父も実際は物静かな田舎の一人住まいに一抹の寂しさを感じていることもまた確かなのだろうと思う。里に私の息子達を連れ帰った際、再び孫と離れ離れに暮らさなければならない、あの別れ際に見せる父のせつない表情にそれは毎回はっきりと表れている。傍で息子達もまた同様の顔をしているのだから、彼らの父親である私としても堪らないのである。

毎朝、着古した柔道着に袖を通し、ランニングシューズを履いて、交通量の少ない田舎の県道の路肩をヨチヨチと頼りない足取りで走る父の姿はご近所で有名だった。「年の割に立派」だとか「微笑ましい」などと、知り合いから声をかけられるたび、なんだかほの暖かいような照れ臭い気持ちにさせられる。

教員だった父は、家庭においても教鞭をとる厳格な態度そのままに、もっぱら躾に厳しい親だった。熱心で遠慮のない父の教育に私はいつしか窮屈さを感じ、やがて進学を口実に地元を離れた。社会に出てからも実家に帰ることは稀だった。しかし結婚が転機となり、二人の息子を授かってからは私にも不束ながら父親としての自覚が芽生え、子供を育てることの難しさや苦労をひとつひとつ身をもって知る毎に、それはそのままあの日の父への共感へと繋がっていった。
果たして私は父のようになれるだろうか。たとえ息子達から疎まれても自分の信念を曲げず、生き様で道理を示していけるような強い人間に。自問してみるが、まだ答えは出ない。私も父親として、男として、ヨチヨチと着実に前進していくしかない。

たかが日課、されど日課である。
私達はせめて心残りがないように体力と気力が続く限りは、父の思うようにさせてあげようと心を決めた。同じ家族の一員として、塵一つない母の墓碑を誇らしく思うと同時に、やはり私は父に頭が上がらない。
今日も父は着古した柔道着を着て、人気の少ない道路の端っこをマイペースで走っていることだろう。晴空の下、だんだん遠く小さくなっていく父の後姿に、私は今までにないほど親密で、また愛おしい感情を抱かずにはいられない。

長生きしてほしい、と心から願っている。

 
毎日新聞賞もったいないグッズ
『余るくらいたくさん』緒方春香(東京都)23歳

大量の冷凍みかんが冷蔵庫に突如現れた。丁寧に皮をむいて、食べやすいようにラップで包んである。その横に高く積まれた豆乳の1リットルパック。何故か10パック以上もある。さらにはエネルギードリンク3ダース以上がその横に並ぶ。トイレットペーパーや、シャンプーの詰め替えまで増えているような気がする。
最近仕事で遅く帰る日が続き、買い物にも行けずに、夕飯を食べずに済ませていること。その生活を続けていたら、周りに「やつれた」と言われたこと。自分ではさらっと言ったつもりだったのに、その次の日には、ひとり暮らしをしている私の家に大量の食品が現れた。部屋を見渡してみると、食品以外にも色々と増えている。
こんなことをしてくれるのは母しかいない。私がいない間に、母が届けにきてくれたのだ。母はとにかく世話好きで、お節介なひと。自分のことよりも、誰かのために何かをしてあげようとするひとである。しかも特徴的なのは、とにかく何でも量が多いことだ。
実家で暮らしているときは、そんな母のことを少しやりすぎだと思っていた。口出しをせずに放っておいてくれるくらいが良い。「なぜこんなに買ってくるのだろう」「足りないと思ったら、好きなだけ自分で買うのだから構わないでほしい」と感じていた。
けれども一人暮らしをしてから、そんな考えが変わった。たまに実家に帰ると、4人家族とは思えない量の料理が並ぶ。テスト前の妹の勉強机の上には、栄養ドリンクがこれまた3ダース。父の書斎のペン立てには、黄色の蛍光ペンが10本以上(父は蛍光ペンといったら黄色しか使わない)。必要以上に用意されているものたちが家のなかに溢れている。
今度の8月に、一人暮らしをして初めての母の誕生日がある。「何か欲しいものある?」と聞いてみても、きっといつもと同じで「何もいらない」と返ってくるに違いない。自分のものには興味がない。母はそういうひとなのだ。
そんな母の誕生日、母の好きなちらし寿司を作ってあげようと思う。もちろん私も、母の真似をして食べきれないくらいたっぷりと。いつもは照れくさくて言えない「ありがとう」の気持ちをたっぷり込めて。

 
毎日新聞賞もったいないグッズ
「おやこでおやすみ」尾崎美雪(北海道)39歳

我が家は7歳、4歳、1歳の三人の男児がいる。
そして毎晩誰が母ちゃんの隣になるかで戦いになる。
父ちゃんはどうでもいいらしい。
我が家の寝室は6畳。布団は三組。
なのに、母ちゃんの布団に4人。狭い。苦しい。二段ベッドが欲しい。
でもベッドなら絶対に寝ている親の頭の上に子供が降ってくる。だから結局、布団で雑魚寝。
夜は真っ先に眠るのが三男。授乳して眠ったら脇に置く。その後、上二人に絵本を読み聞かせるうちに夫、長男の順に眠りに付く。
何故夫?
実は夫が最初に読み聞かせをしてくれるのだが、絵本開いた瞬間にグー。
忙しいもんね。お疲れさん。
最大の難関は次男。必死で粘って寝ようとしない。
絵本を読めと何冊も要求。耐えられず私が寝ると、無理やり起こしてくる。そして今度は
「ぎゅーして」と、抱っこを要求。
はいはい。
次男がようやく眠りに付くと、ようやく私は眠れる。
と、思ったら大間違い。
次に来るのは子供たちの幅寄せ攻撃。
彼らは何故か必ず大人に向かって寄ってくる。と、いうよりも頭から刺さってくる。それも脇の下に。下手すると右に長男、左に三男、何故か腹の上に次男が横に乗ってくる。これじゃあ、親子揃って「川」の字じゃあなくて「本」の字だ。
ふと見ると壁際の布団を一つ占領し、夫が大の字で眠っている。
許せん。
こっそり長男と次男を夫の両サイドに寝かせる。これで私は三男の夜間授乳に集中できる。そう思い私が眠ったのも束の間。
「ぎゃあああああああ!」
次男が目覚めてしまった。側にいるのが母ちゃんではないと気がついたようだ。泣きながらこっちに向かってローリングしてくる。
ごろごろごろごろ。
そして私にぶつかって動きを止め、私の腹に乗り上げて眠りにつく。玩具みたいで面白い。
しかし今度は泣き声で目覚めた長男がやって来る。
結局最初のとおり「本」の字に戻る。ねえ、これ一種の拷問?
ああ、暑い。重い。
でも、ちょっと面白い。あと何年子供の下敷きになれるかな。

 
ミルトン賞ミルトン賞品セット
「いいとこ連れてってあげる」都築直飛(京都府)26歳

「いいとこ連れてってあげる」
小学一年生だった僕に、父は一言こう言った。助手席に乗って、どこに行くの?としきりに聞く僕に、父はただ笑って応えた。山と海に囲まれた、いつもの見慣れた景色が遠ざかり、やがて街なかを走る車。どこに行くか分からなくても不安にならなかったのは、赤や緑のネオンに照らされる父の横顔がどこか男らしく思えたせいだった。
父はその日、小学一年生の僕に生まれて初めて映画というものを観せてくれた。静まり返った劇場内、一歩足を踏み出すと同時に、柔らかい赤い絨毯に足が沈み、その度に少しかび臭い空気がそっと僕の鼻を撫でた。同じく赤く、同じく少しかび臭い座席に座ると、もう僕は一言も話さなかった。父に頭を撫でられるまで、スクリーンを見つめ続けた。初めての感覚、初めての感動。「どうだった?」と聞く父に、僕は無言で強く頷いた。父は嬉しそうに、本当に嬉しそうに同じく頷いた。
あの日から20年の月日が経った父の誕生日、僕は「いいとこ連れてってあげる」と一言手紙を添えて、ある映画のチケットを送った。20年前のあの日のように、山道を走り、海岸線を抜け、ネオンに照らされながら車を走らせる父の横顔を思い浮かべながら、遠く離れて暮らす父のことを想った。
『映画素晴らしかったよ。とくにエンドロールだ。名前を探すのに苦労したが』と、淡白な内容には不似合いの、最近覚えたらしい絵文字が踊るメールを寄越す父。僕が映画に携わる仕事を目指すきっかけを作ってくれたあの日の父は、61歳になった。
いつの日か、老眼がひどくなってきた父にも見えるほどに大きく僕の名前が書かれた映画を、父と肩を並べて一緒に映画館で観ることが、僕の小さい頃からの大きな夢なのだ。

 
ミルトン賞ミルトン賞品セット
「はじめてのおつかい」竹崎愛理(長崎県) 21歳

今でも覚えている。父が言った「えり、たばこ買ってきて」。それは、たばこが切れた父が私に言った。冗談だったのだ。当時小学校低学年だった私にはもちろんお金を使いこなす技術なんかないし、たばこがいくらで売っているのかという知識すらない。しかし私は知っていた。たばこが自動販売機で買えることを。田舎に住んでいる私の人生でまさか「はじめてのおつかい」をする日がくると、だれが予期しただろうか。それは、とても静かに幕を開けたのだった。
貯金箱に入っていた(家の中で拾った)全財産を、母に買ってもらったななめがけバッグに入れて、玄関でくつを履き、静かに言った。「いってきます」。こっそり買ってきて、びっくりさせようと思ったので、近所のおじさんへの「こんにちは。」の声も小さかったかもしれない。
田舎暮らしのため、近くの自動販売機は一・五キロ先にあり、そこまでの道のりは決して平らで楽な道ではなかった。しかし、このたばこを買うというミッションを成功させればきっと何かが変わる、うちの烏骨鶏でさえも私を褒め称えるだろう。そう信じてひたすら歩き続けた。
やっとこさ着いた自動販売機。体の小さかった私にとっては見上げる大きさだった。こわいとも思った。これが動いて
倒れでもしたら一発KOだ。そんな思いを抱きながら、満を持して全財産を自動販売機の中へ入れた。そこであることに気が付いた。たばこの銘柄がわからない。はたまたたばこには恐ろしい数の仲間がいるのだと。しかし体の小さい私に闘う相手を選ぶ余裕などないのだ。しょうがない、一番低い場所にあったボタンを押した。
これでたばこはもう手に入ったも同然、そう思った。しかし、なんだかおかしい。なにもでてこない。すると後方から音がして見慣れた車がやってきた。母だった。
母「なにしてるの!」
私「たばこ買ってるの。」
母「えぇ?お金は?」
私「入れたよ。ほら!」
母「・・・・・・二十一円。これじゃ買えないよ。」
自信満々の顔をした私に、呆れ顔の母が静かに言葉をこぼした。そしてそのまま車に私を乗せて、家まで強制送還されたのだった。
初めてのおつかいの終わりはあっけなかった。そして強制送還という形でおわってしまい、ミッションを遂行することができなかったのが二十一歳になった私の唯一の心残りである。後で聞いた話だが、父と母は家の中に私がいないことに気づき、もしかしてたばこを買いにいったんじゃ?と無駄にいい勘を働かせて探しにきたそうだ。近所のおじさんから「どっかに歩いていってたよ。」との情報提供もあったとか。

 
ミルトン賞ミルトン賞品セット
「かわいいよ」坂本ちひろ( 山梨県 )33歳

もうすぐ5歳になる息子。ある日難しい顔をして「お母さん聞きたいことがあるの」とやってきた。きた!なぜなんでなに攻撃!と、内心びくびくしながらも「なあに?」と答えました。
「あのね、お姉ちゃんと花鈴ちゃん(妹)には、お母さんかわいいねってよく言うよね。でも、ぼくには言ってくれない。ぼくのこと、かわいくないの?」
思いがけない質問、つい笑顔になり、
「二人は女の子だよ。だからかわいいっていうの。君は男の子、かっこいいよ。」そう答えたのだけど難しい顔のまま、
「女の子がかわいいの?僕は駄目なの?」
とさらに聞いてきます。
そうか、そういうことか。なんだか胸をぎゅっとつかまれたような気分。同じ力で息子を抱きしめ、
「かわいいよ。文芽ちゃんと花鈴ちゃんのことがかわいいのと同じに蕾一くんのことかわいくて大好きだよ。」v と、伝えました。
すると、息子は、
「お母さんもかわいくて大好きだよ」
って。ありがとう、そんなこと言ってくれて。言葉一つでこんなにも幸せな気分。これからはもっともっと、君たちに言葉で伝えるね。 

 
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「加齢臭」池田裕美子( 静岡県 )47歳

「ねえママ、これって加齢臭だよね」
小学4年生の娘が、パパが朝まで寝ていた枕を持って来て耳元で言った。
二つの驚き
娘がそんなことを言う年頃に、そして
パパも加齢臭を出す年頃になったこと。
同じ「年頃」なのに、成長と衰退を証明してるみたいで複雑だった。
パパは単身赴任だから、たまに帰ってくると娘を抱きしめる。
でもたまにだからこそ匂うのだ。
「パパやめてよ!臭い!」
今までにない娘の態度に、パパの手が一瞬止まった。
そろそろ思春期の入り口。
誰でも通る道…でも、うちの子はきっと大丈夫。
そんな淡い期待を抱いていた。
だって、つい最近までパパが帰って来ると娘は迷わず飛びついた。
お風呂でパパが「ずっと一緒に入ってくれる?」と聞けば
必ず「うん」って答えた娘。
でも、今「わからない」と言う。

その日パパはなぜか変だった。
いつもはゴロゴロして、娘がせがんでも寝ているのに、積極的に娘の相手をしている。
買い物に行けば、ねだられて娘の好きな物を買わされる。
お馬さんごっこはいつもの10倍。
加齢臭のしみこんだ枕投げは何時間も続いた。

パパの額から汗が流れ落ちる。もう冬なのに。

こりゃ、焦ってるな。

「パパ臭―い!すごい汗!」息を切らして走って来た娘が言った。
私はパパの焦りと努力を称えてこう言った
「一生懸命なんじゃない?」
「なんで?」
「なんでだろうね?」

パパが赴任先に帰って行った。
娘も疲れ果てて眠ってしまった。

次の日、パパの枕カバーを洗おうとすると、
娘がそっとやってきてカバーを掴んだ。
「どうしたの?」
娘の目に溢れる涙。

「洗っちゃだめ」
「なんで?」
「一生懸命の匂いだから」

枕を抱きしめながら娘が呟く。
「パパ、今度いつ帰ってくるのかなあ」

加齢臭は衰退の匂いじゃない。
一生懸命家族を守ってきた証の香りだ。
臭さがしみ出るほど、人生頑張って来たんだね

パパ、ありがとね

 
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「魔法の言葉」古賀厚子(福岡県)55歳

「あっちゃんなら大丈夫や!」あなたのこの言葉に何度助けられたことでしょう。
20数年前、私はクイズ番組の収録のためテレビ局へ来ていた。初めてのカメラや照明に気押され完全に平常心を無くし、一度も答えられずにリハーサルが終わった。
取り乱してスタジオ脇の公衆電話で実家に電話すると、あなたがいつもの鷹揚な調子でこの言葉をかけてくれた。不思議にスーっと気持ちが落ち着き、本番ではあれよあれよという間に答え続け、優勝して海外旅行までゲットしていた。
 その後も、仕事や子育てなどいろんなことにつまずき悩んだ私は、この言葉を胸になんとか乗り越えてきた。
 子供の頃、丸い小さな卓袱台にのりきらないほどの手料理と笑い声で、家の中は明るかった。自慢のちらし寿司をご近所へ配るエプロン姿。クーラーのない時代、職人の父の仕事場に冷凍室で凍らせたおしぼりを日に何度も運んでいたあなた。無口で頑固、昭和の父親を絵に描いたような父に優しく尽くして自分のことは後回しで家族のためにいつも台所の湯気の中にいた。そんな何でもない日々の映像が、全部宝物になって心の中に詰まってる。
 娘や孫に目に見える財産は残してあげられそうにないけれど、私も手料理の思い出と心に残る言葉を残してあげられたらと思う。
天国のお母さん、魔法の言葉をありがとう!

 
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「ピグマリオン効果」奥村美和子(大阪府)46歳

ピグマリオン効果という言葉を聞くと、母を思い出す。
ピグマリオン効果とは、人は他人から期待された通りの成果を出すという心理行動で、私は母からどれだけ期待され、励まされてきたかわからない。現在の私がいるのは母のお蔭と言っても過言ではない。
子どもの頃、私は愚図で、理解力に欠け、母は何度も学校の先生方から「他のお子さんよりも遅れている」と呼び出しをくらったものだった。その都度母は、「成長の早い子もいれば、ゆっくりと伸びていく子もいます。大人になった時に一通りのことができるようになれば十分だと思っています。どうか温かく見守ってやってください」と頭を下げていたそうだ。ごんたな男の子たちからはいじめられ、キツイ女の子たちからは仲間外れにされていた私の将来を母は内心ではきっと案じ、心配していただろう。
だが、母は強かった。「この子はあかん」と決して見限ることはなく、「がんばれ」「やればできる」「諦めるな」の三点セットを口癖に、私に合う塾を探してくれたり、色々な習い事にチャレンジさせてくれたり、しっかりサポートしてくれた。成績悪く、ぼんやりしていた私も、これではあかん! 本気出してやらないかん!とスイッチを入れ、勉強だけでなく、運動も音楽も美術も家庭科も簡単には諦めず、頑張って取り組み続けていたら、成績も向上した。努力することから多くを学び、多くを得ることができたのだ。
母がもし私に期待していなかったら、きっと私は頼りなく、やる気ナッシングなままで、今の幸せから程遠い生活をしていただろう。
そしてこの効果は私の他人に対する接し方にも影響を与えた。「この人、大丈夫かなぁ?」ではなく、「大丈夫、あなたならできる!」と私も自然と人に期待するようになり、嬉しいことにこの心理行動が他者との関係を良好にさせてくれている。

 
「親子の日」賞「親子の日2013」オリジナルグッズ
「だいじょうぶ!」林俊雄( 奈良県 )63歳

84歳になる母が静かに逝った。
子どもの頃から、母の口癖は「だいじょうぶ!」だった。
山口県の海沿いの町で、もの静かな父と溌剌としたしっかり者の母の元で、私は育った。
私が中学に入ったばかりの頃、父の事業が不況のあおりを受け深刻な状況だった。
いつの頃からか、父は私たちの前から姿を消した。
父の残した借金を背負い、母はその頃まだ少なかった保険の外交の仕事を始めた。
その仕事が合っていたのか、母は以前のような溌剌とした母に戻っていった。
私が地元の大学を出て、大阪の企業に就職が決まった時、母が言いだした。
「私も大阪で仕事をするよ。山口はもうええよ。だいじょうぶ!」
母と私の大阪暮らしが始まった。
とはいえ、母は一人でアパート、私は会社の寮住まいの別々の生活だ。
初めての大阪でも、母の仕事ぶりは代理店でもトップクラス。
一方、私はといえば、なかなか結果が出ない仕事と、うまくいかない家庭。
成功している母に対する負い目もあり、母に連絡することも少なくなっていた。
おそらくそんな私のことにも母は気付いていたことだろう。
年月も経ったある日、母から電話があった。
「そろそろ私は自信が無くなってきたよ。物忘れがひどいんだよ。きのうもガスを付けっぱなし。おまえの近くの施設に入ることに決めたよ。だいじょうぶ!」
そんな母も、施設に移ってからは極端に衰えが目立ってきた。
誤嚥下から肺炎を起こし入院した病院で、胆管に癌が見つかり、
しばらく様子をみることになった。
ひと月近くの入院の末、ある日の未明、母は眠るように静かに逝った。
私は枕元に小さなメモ帳を見つけた。
最後のページには、しっかりとした文字で書かれた母のメモがあった。
「がんばれ!おまえは母さんの子だよ。おまえはまけないよ。だいじょうぶ!」
私は、若く溌剌としていた頃の母の姿を、朝焼けの空に思い出していた。
「母さん。俺はまけない。だいじょうぶ!」

 
「親子の日」賞「親子の日2013」オリジナルグッズ
「幸せにする嘘」宮本洋子(茨城県)60歳

父は長い闘病生活の末、七十三歳で死んだ。
生前、父は八歳年下の母に
「墓をグラグラさせて歓迎するぞ」と言っていた。母はいつも笑って、その言葉を受けとめていた。
そんなことありえない、嘘だとわかっていても、ちょっぴり信じて、奇跡が起こるかもしれないと考えたのか、母は家の裏山にある父の墓によくお参りに行っていた。
私も気になって、こっそり聞いてみた。
「ちっともグラグラしないんだから、うそばっかり言って」と笑って答えてくれた。でも、母が死んだ時に思った。二人はあの世で、真っ先に、そのことで喧嘩しているかも、と。

父は私にも「何かに変身して会いに行くぞ」と話していた。
だから墓参りに行くたびに、キョロキョロと墓のまわりに「何か」を探してしまう。カエルやアリ、トンボやセミを見ると、ふと父かな、と想ってしまう。そして、お相撲さんのような体格だった父が、こんなに小さな生き物に変身して会いに来ているのかもしれない、と思うと可笑しかった。
ここ数年、夏のお盆の墓参りは御無沙汰している。新幹線やらバスで三、四時間ほどかかる長旅なので、年齢のせいか、ついつい足が遠のいてしまった。でも、その季節になると、きまって我が家の台所の窓、夏は網戸になっているが、そこに一匹のセミがやってくるようになった。網にへばりついて、ミィーン、ミン、ミンとひと鳴きして、どこかへ去っていく。バカな、と考えつつも、そのセミに
「今年もまた、茨城にまで遊びにきたの」と話しかけてしまっている。だからいつか、父に会ったら、必ずセミのことを確認しよう、と決めている。

父の大げさなもの言いや嘘が、今も残された家族を明るくあたたかく支えている。

 
「親子の日」賞「親子の日2013」オリジナルグッズ
「親子の日に」福井敦男(京都府)48歳

 四十を過ぎて、気づいたことがあった。それは、自分が父に似てきたという恐るべき事実 である。
 幼少期から自分はずっと母に似ていると思って生きてきた。手足の形や目元、低い鼻も母
親譲りだ。父に似ていたのは、せいぜい声くらい。でも、それでいいと思っていた。いや、
それだからいいと思っていた。
 ところがある日、汗をかいた自分の体臭に「あれっ?」と思った。まさかと思い寝室の枕
にも鼻を近づけてみて、愕然とした。
「なんだ、この臭いは!」
 それは、父とまったく同じ臭いだった。脂ぎった、どうしようもなくクサイ臭い。かつて
家中が毛嫌いしていたあの臭いだ。私のかぐわしき?加齢臭は父のそれと同じだったのだ。
 まだある。
 鏡に映る自分の姿だ。ちょっと丸まった背の立ち姿や、何気なく振り返ったときの仕草、
からだ全体から醸し出される雰囲気が、恐ろしいほど父にソックリだった。
 いつの間にこんなに似てきてしまったのだろう。
 中年になり、薄くなった頭髪に幾分たるんできた頬の肉。あろうことか、全然似ていない
と思っていた顔まで似てきてしまっているではないか。
 ああ、嫌だ、嫌だ。父に似た薄汚いおっさんになっている。
 まだある。
 母の血液型はAB型で、父はO型、私はB型である。マイペースでおっとりした性格は母
親似だろう。しかし、最近は自分で言うのも何だが、少し卑屈になってきたかもしれない。
そう、それは、間違いなく昔から愚痴ばかりこぼしていた父の性格なのだ。喝っ!
 アダムとイブが禁断の果実を食べたからか、はたまた、DNAの果てしなき計略か。
 とにかく、母親似だと安心していた私も、DNAの半分はしっかりと父から受け継いでい
るらしいことが、おっさんになり判明した。
 良いとこ、悪いとこ、外見、内面、体質に至るまで、誰も彼もが両親から受け継いでいる。
私は紛れもなく、この父と母の子だった。
親子の日に三人で乾杯でもするか。なあ、オヤジ。

 
円谷プロ賞【ウルトラマンタロウ COMPLETE DVD-BOX】
「サル山の風景」府川百合子(神奈川県)46歳

 久しぶりの動物園。
サル山をジ~っと見つめる男の子が居た。

 手前に低い柵があり、すぐ中には深い掘。
岩山にロープやタイヤの遊び道具がある平均的なサル山だが、
興味は尽きないようで柵の隙間から飽きる様子もなく眺めている。

”懐かしいな…” その昔、サル山が一番のお気に入りだった自分を
ふと思い出す。
 グループ行動における役割分担や、ボスを筆頭にした序列など、
さながら人間社会の縮図とも言えるこのサル山の姿が、大人になった今では
また違って見える。

”何であの子猿は背中に乗っているの?”
”何であの猿ばっかりご飯を食べているの?”
まったく、今も昔も親は大変だ。
 観察するうちにたくさんの???が湧くのだろうが、丁寧に説明しようとする程
子供は飽きてしまうので、さぞかし苦労しただろう。

”そうだ、次の休みにでもすっかり出不精になった親を誘ってみようか”
 サル山でのやり取りを、きっと覚えているに違いない。
そして、自分達がどの猿のポジションか、一緒に探してみるのも楽しそうだ。

 
エプソン賞コンパクトプリンター
『指切り』岩村圭( 東京都 )59歳

半世紀も前の話である。  小学三、四年生の頃だったと思う。私が半べそをかいて帰宅する日が続いたものだから、ある夜、突然父に正座するように言われ、こんこんと諭された。締めの言葉は「いいか、男なんだからもう泣くな」だった。それから小指を突き立て、「指切りだ」と言い出した。言われるままに小指を絡ませ上下に振り始めたのだが、言葉が喉に詰まって出てこない。やっとの思いで声を絞り出すように言った。
「指切り……」
 うぇーん。涙が溢れ、その後言葉にならない。
「おいおい、泣かない約束の指切りをしてるのに」
 父は困惑した表情を浮かべ、途中で小指を離した。
 その夜以降、泣くたびに父は私の頭を撫で回しながら言った。
「忘れたのか。指切りして約束したじゃないか」
 だが私には言い分があった。
 だって、ちゃんと指切りげんまんしてないし、針千本飲ーます、とも言ってない。それに、指だって切ってない。だから、泣かない約束なんてしてないんだ。お母さんも側で見てたじゃないか。
 もしもあの時、指切りを中途半端に終わらせずに泣かない約束をしていたら、嘘をついて針千本飲まされるのが嫌で、私は泣き虫を退治できていたのかもしれない。
 ふと思う。できればもう一度指切りを。残念ながらその願いは叶わない。父はとうの昔に他界している。 
 告別式での自分の姿を思い出す。
 悲しくて寂しくて、人目もはばからずおいおい泣いた。父が一方的に成立したと思っていたあの約束を公の場で破ってしまったのだ。額縁に収まった父の厳つい顔を見つめ、私は小指を立てたが、涙声になり、また中途半端な指切りに……。嗚咽しながら見上げた父の遺影が苦笑いしている。そんな気がした。
 私は今年還暦を迎える。人前で涙を隠す術は身につけたものの、未だ泣き虫のままである。