親子の日 エッセイコンテスト2012 入賞作品
(ゼンハイザー社製)
(全10巻)
+被災地応援写真集
けんかのコツ久保田 愛(静岡県)
幸せはすべて父を許すことから始まった清水 なほみ(神奈川県)
暴れん坊将軍と呼ばれて宮永 富栄(千葉県)
挨拶吉野 成美(千葉県)
私は一年近く闘病生活を送っている。それまで仕事一辺倒だった私は、家族と過ごす時間もほとんどなかった。八歳の息子がいるが、父親としていろんなことをいっしょにしたい時期に何もしてやれず、寝顔を見るだけの生活が何年も続いた。一日のうち、自宅にいるのはほんの数時間、寝る間もなく、ほとんど職場にいた。
そして、とうとう、心も身体も悲鳴をあげ、病気になった。いったい自分はこれまで何をしてきたのだろうと、後悔ばかりの日が続いた。家族を犠牲にしたうえに、自分の希望も失った。情けなくて、悔しかったが、それでも泣くこともできず、生きていても死んでいるかのような数ヶ月間だった。
そんな私に、妻と息子は、いつもと変わらぬ笑顔でいてくれた。季節は冬を迎え、感情まで失った私には、それまでに感じたことのないほど寒い冬となった。身体中が冷え切って震えが止まらない。何枚重ね着をしても寒くてしようがない。そんな姿を見ていた息子が、ある日、「パパにマフラーをプレゼントしてあげるね」と言ってくれた。
それからずいぶん時間が経ち、私の病状も少しずつ良くなっていった。そして今年の父の日。息子が大きな袋を抱えてやってきた。「パパ、約束していたマフラーができたよ」そう言って、袋の中から、何種類ものマフラーを取り出した。「この中から、パパのお気に入りのものをどうぞ」と、素敵なマフラーを次々と見せてくれた。
あの冬の日以来、息子は、ずっと自分ひとりでマフラーをコツコツと編み続けていたのだった。聞けば、牛乳パックと割り箸で「編み機」を作ったのだとか。毛糸はお小遣いを使って、自分でお店に行って買ったという。
「ありがとう、ありがとう…」それ以上の言葉が出てこなかった。
「パパには、これとねぇ、それから…これが似合うと思うんだ」と、全部のマフラーを見ながら、息子のおススメのマフラーを二つもらった。
六月にマフラー。だが、毎日少しずつ、誰の力も借りずに、全部自分で編んだマフラー。
あれからずっと編んでいたのか…。妻でさえそのことを知らなかったという。あの日の息子の言葉は、息子のせいいっぱいのこころだった。毎日マフラーを編み続けて、約束を守ったのだ。
私は思い出した。まだ息子が小さい頃に、男同士の約束をしていたことを。「がんばるこころを忘れない。失敗しても、うまくできないことがあっても、絶対にあきらめない」と。
その約束を息子は忘れていなかった。そうだ。パパもがんばるこころを忘れてはいけない。
絶対に元気になる。
父の日にマフラーを巻いて、息子からかけがえのない大切なものをもらった。パパもがんばる。絶対にあきらめない。がんばるこころを忘れない。
幼稚園の友達はとっくに絵本を読んでいるのに、我が家のいたずら坊主が読めるのは自分の名前だけだった。
落ち着きもなく、雨の日には三輪車を家に持ち込み、廊下や畳の上を、絵本の上までも乗り回しているありさまである。あんのじょう、我が家の古い畳はさらにボロボロになった。女房は「このままで、この子は大丈夫だろうか?」と不安がっていた。「将来は競輪のスター選手かな」と、顔は笑いつつも内心、私も心配だった。
それから一年近く経って、ようやくクルマの絵本に興味をもち、字を覚え始めた。
すると、今度はフエルトペンでいたずら書きを始めた。目を話せば冷蔵庫や唐紙にまで書きはじめる。見ると「十」に「○」を付けて「す」にしている。正しく教えても、そのでたらめ書きはなかなか直らない。
その頃のことだ。私の誕生日に思いもよらぬプレゼントがあった。渡すときのちょっと恥じらった息子の笑顔は今でも私の心に焼きついている。手づくりの封筒に
「お と う さ ん お た ん じ よ う び お め で と う」と、どうにか読める字で二行に書かれている。中に「かたたたきけん」が九枚入っていた。
一枚は書き直しのとき破けてしまったという。
私はそのころ肩凝りはなかった。
だが、その日から二人で風呂からでると、せがれはフルチンのまま、「お父さん、券は?」と肩たたきをせがむのだ。
あれから三十年経った。一人息子は無事社会人となった。この春、幸いにも縁があって身を固めることになり、やっと肩の荷が下りた。とたんに肩凝りがはじまった。そんな時には少し温めの長風呂にはいる。湯船につかっていると、湯気で曇った鏡に指で字を書いてみたくなる。すると、あのでたらめ書きの字が目にうかんでくるのである。
先日、引き出しを整理していたら、隅のほうから、古びた封筒が出てきた。あの誕生日プレゼントであった。他人にとっては無用なゴミだ。
だが、私は捨てられないでいる。
私が小学2年生の頃、漫画で子供が母の日にカーネーションの花束を贈る話を見て、私も母の日にカーネーションを内緒で贈り母を喜ばせることを思いついた。
当時、自宅の周囲には買い物ができる店はなく、買い物は両親の車で行くのが常であった。
母の日当日「お母さん、花屋さん行きたい。」「なんで?」「いいから連れてって。」
母のカーネーションを買うことは秘密のため、理由を言えず、やっとのことで母の車で小さな花屋に連れていってもらった。
母の車の中で、私はポケットに100円玉を2枚入れた財布を何度もこっそり確かめて、母がカーネーションを受取り感嘆の声を挙げることを想像し一人、誇らしい気持ちになっていた。
母の日当日ということで、店内は真っ赤なカーネーションで溢れかえっていた。目的のカーネーションを探してウロウロする私。しかし、店に置いてあったカーネーションは一番安いもので1本300円だった。
私の財布には200円しか入っていない。花束はおろか、1本のカーネーションさえ買うことができない。
私はカーネーション「1本300円」の値札の前で立ち尽くした。
グズグズしている私に母が「買うものあった?」と声をかけてきた。「お金が足りん…」俯いて答える私。「いくら持って来たの?」「200円…」
母は何も言わず、自分の財布から100円玉を出し私に握らせた。
母の足してくれた100円と自分の200円で私はカーネーションを1本買うことができた。ねだって花屋まで連れてきてもらったのに結局母にお金を足してもらったこと、母をビックリできなかったこと、恥ずかしさや悔しさが込み上げ、店員から受け取ったカーネーションは、そのまま、母にぶっきらぼうに押し付けた。
月日は流れ私も5歳の子供の父親になった。父の日に子供が描いた似顔絵を目尻を下げて喜んでいる。今ならわかる。無言で渡したカーネーションに込められた想いがきっと母に届いていたと。子供が一生懸命に選んでくれた物はかけがえのない贈り物として母に届いていたと。
母は今でも健在だ。毎年の母の日にはつい枯れて無くなるカーネーションより、実用品を贈っている。次の母の日には久しぶりにカーネーションを贈ってみるか。ちゃんと自分の小遣いで買ったカーネーションを。
タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、、、
小学生の息子は、父親の僕に似ず、走るのが速かった。
陸上クラブに通う近所の子に刺激され、クラブに入りたいと言い始めた。
クラブに入り、競技会では陸上競技場のきれいなトラックを、小さな体でガムシャラに駆け抜けた。
トラックに立つ姿は、小さいけれど輝いて見えた。離れたスタンドの上から、僕は応援していた。
父親である僕も、走り始めた。
息子が走るマラソン大会で、僕も走り始めた。
息子の大会での順位とか、タイムとか、これまで気にしていたことが、たいしたことに思えなくなっていった。
走ることで、見える世界はかわっていった。
マラソン大会が近いある日、息子といっしょに走った。
タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、、、
息子が言った。
「不思議だね。まったく同じリズムだ。」
ふたりが走る音なのに、ひとつの音しか聞こえなかった。
背の高さも、足の長さもぜんぜん違う。
それでも、ひとつの足音しか聞こえなかった。
タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、、、
陸上競技場では遠くに見えた小学生の息子に、すこし追いつけた気がした。
「生まれてくるお子さんは水頭症かもしれません、異常に頭が大きいのです。覚悟しておいてください」。超音波診察をした医師からの衝撃的な言葉であった。
生まれてきた息子は水頭症ではなかったが、確かに頭の大きな子供だった。
幼稚園の入園児、Lサイズの帽子が被れず特注。運動会では遠目からでも一目で我が子とわかる頭の大きさだった。
徒競走で息子の順番がきた。私はこの日のために購入したビデオカメラを回した。しかし、帰宅して再生したビデオは途中から揺れて焦点が定まらず、最後はわけのわからない画像しか残ってなかった。
ピストルが鳴り、走り始めた六人の園児の先頭の子供が転んだ。二番手、三番手の子供は走り過ぎていったが、四番手を走っていた息子は転んだ子を助け起こして一緒に走り最下位になった。
息子が転んだ子を助け起こした時からファインダーを覗く私の手が震え、息子がゴールした時はビデオカメラを足元に放り出して、他の父親と一緒に拍手をしていたのである。
頭でっかちな風貌をした息子は、頭でっかちではない優しい子に育った。
その息子も来春には社会人になる。
息子が小学生の時、私は脱サラした。今は中小企業診断士として経営コンサルタント業を生業としている。息子は私が苦手な理系に進んだが、先日、外資系コンサルティング会社から就職の内定をもらった。
とかく経営コンサルタントは理論中心の頭でっかちなりがちだ。しかし、息子には理屈だけでなくクライアントの痛みがわかるコンサルトになってほしい。
蛙の子はいきなり蛙になるのではない、最初はおたまじゃくしだ。経験を積んで蛙に成長するのである。
息子よ立派な蛙になれ。
幼い頃、お母さんと手をつないで出かける事が好きだった。夕暮れ時に近所の商店街をゆっくりと歩く。幼稚園や小学校でおこった出来事を興奮気味に話す僕に、お母さんはしっかりと手を握りながら、一生懸命聞いてくれた。特に冬の寒い時期は、その手がより一層包んでくれ、偉大な愛情を幼いながらも無意識に感じていたのかもしれない。また、そういった様子を、一歩引いた形で微笑ましく眺めているお父さんがとても印象的だった。
そんな愛情を感じて育った僕も思春期に入り、成長するとともに、気が付けばお母さんと手をつなぐことが全くなくなった。温もりなんて少しずつ薄れ始めていた。いや、今想えば忘れてしまっていたのだろう。
こんな僕でも大人になった。普通の大学を出て、普通のサラリーマンになった。ありがたいことに、掛けがえのない女性にも出逢えた。新しい生命も授かった。一番大騒ぎしていたのはお母さんとお父さんだった。
風の冷たいある冬の平日、代休を取っていた僕は、夕方に妻と一緒に息子を迎えに幼稚園に迎えに行った。恥ずかしながら、迎えに行くなんて初めての事だった。息子は妻とてをつなぎ、今日の出来事を楽しそうに話す。
妻は「うん、うん」とうなずきながら話を聞く。僕はその光景に懐かしさを覚えた。妻の手が母と重なった。思わず涙が出そうになった。思わず手つなぎに参加した。そしてお母さんと同じ温もりを感じた。不思議と息子がうらやましく感じた。
「お母さんと手をつなごう」次は僕から愛情を届ける番だ。この先、年をとる度に、体も思うように動かなくなるだろう。僕が手をつないで支えよう。今まで受けてきた大きな大きな愛情と温もりをそのまま感じてもらえるように、いつまでもずっと。
僕はこれからも妻と息子と生きていく。成長していく息子を見守りながら、いつかまた妻と手をつないでくれるその日まで。
母が九十の誕生日近くに成ったある日「お母さんやがて九十歳になるね。卒寿のお祝いいつがいいね」と言った。すると「卒寿の祝いはせんでよか。百歳になったときは盛大にしてちょうだい。今はそのための通過点ということにしたい」「百歳の時はそりゃ盛大なお祝いをするばってん、祝いに呼ぶ人たちもだんだん少なくなって、主催者も元気でおらんといかんし責任が重かね」と大笑いした。
今は曾孫の成長を楽しみにしていて一番上を筆頭にしてこの子達のランドセルを買ってやるのが楽しみたい」そう言っていたが成長してくると「この子達が高校に入るまで生きていたい」二三日前は、「私は目標を代えたよ。この子達が結婚するまで生きておくのは無理だろうか。曾孫達の結婚する姿を見たかなあ」私は母に「生きるために目標を代えていくのは励みになって素晴らしかね。でもお母さんそこまで生きていたら日本一いや世界一の長寿者にっているかもしれんよ。頑張って生きらんといかんね」
母は離婚した弟と暮らし、面倒を見るのは生んだ私の責任と朝六時半に起きて炊事・洗濯等家事のことはほとんどこなしている。別居の私は月に二・三度母のところに行っている。私が行くと昼版は準備して待っている。気を利かして弁当等を持っていくとかえって機嫌がわるい。
私は1944年生まれで戦時中は空襲警報がなると防空壕に入って、赤ん坊の私を守るため上から覆いかぶさっていたそうである。六十七歳になった今でも「体は大丈夫かい、貴方のことが心配たい」と気遣ってくれる。いつまでも親は親、頭が上がらない。一日でも長生きしてほしい。親子のきずなは何よりも深いと感謝している。
父の歯並びは特徴があって、花(鼻)より葉(歯)が先に出ている通称“山桜”――いわゆる出っ歯の人でした。
小柄な体格でしたが屈強で溶接一筋の元祖ガテン系。
がさつで見てくれなど一切気にせず、一年中くたびれたジャージの上下を愛用しており、それが外出着でもありました。
その昔、父は町内会の団体旅行に参加したことがありました。
記念の集合写真をふと見ると、無理苦理に出っ歯を押し込み口を閉じ、不自然な表情で他人のような父がいるではありませんか!!
ちょうど里帰りで、母を囲み賑やかな顔ぶれが揃う茶の間は、その写真で打ち上げ花火のように弾け、皆、涙が目尻に溜まるほど笑いこけたのです。
無頓着と決めつけていましたが、意外にも劣等感を待ち、父なりに世間の目を意識している事が判明し非常に驚いたものです。
父は平成8年に亡くなりましたが偶然だったのでしょうか。
その時の写真は葬儀の遺影にも使われ、今も実家の仏壇に鎮座しているのです。
お線香を手向ければ自動的に目線の先には父がいます。
『俺ァ、シャッター閉めたんかな』と不本意ながら呟いているようなよそゆき顔も口元を見る度、
『父ちゃん、無理しちゃってェ』
と、胸の中でツッコミを入れるのです。
本当は野方図に大口をあけ、腹の底から笑うのを家族の誰もが知っているから。
故郷に帰省する時、とある駅近くを通過する、列車の窓から、そこを見る。少し遠くの海辺に出っ張った、小磯だ。忘れられない思い出がある。
35年前の春、私は、結婚した。その半年前に、式の日が来まり、会社に勤めながら、特に、休日は、準備に多忙だった。
大正14年生まれの父は、仕事一途の、厳しい人で、外では、愛想がすこぶる良い銀行員の顔が、家では無口な無表情で、3人の子供にも、かまうことはなかった。
長子の私は、そんな父を、いつも内心「この人は他人やろか…。冷たくて怖いだけの人やなあ…。もっと優しくして欲しいのに…。」と思っていた。水臭かった。
しかし、式が間近に迫った頃、父は照れながら「まゆみ、次の日曜日、釣りにいかんか。」と問う。びっくりした。父が、そして父から私を誘うなんて、初めてのことだった。
私は、釣りなどしたこともないし、父の趣味に「何で一緒に行かんとあかんの…。」と、ちょっと腹も立った。「嫌…。」と、即、断った。だが、次は母を介して、私を誘った。小声で母は「デートしてあげて…。」と笑った。
当日は快晴。車で駅近くに降り、そこから険しい山道を、30分以上歩く。「カバン持つわ。」と珍しく父は、私の荷、全てを持つ。「大丈夫かあ、道ですべるなよぉ…。」と優しく、とても変に思えた。
やっと磯に着くと、自分が釣りたいだろうに、父は私の横で、私につきっきりでいた。エサも針につけてくれ、私が、小さい魚を釣りあげると、「やったねー。」と、歓声をあげて、拍手した。初めて見る、優しい姿だった。他に誰もおらず、一日を、父と過ごした。
昔気質の人だから、式でも涙は見せず、気丈だった。けれど、あの一日で、私は、父のぬくもりと、愛情を、いっぱい感じた。嫁ぐ前の、父と娘の、思い出作りだった。
お母さん あなたほど
素直じゃない人を
私は知りません。
思春期から家族との長い長い確執を経て、やっと幸せをつかみ笑顔で嫁ぐ妹への祝福の言葉は本人にではなく、地方紙の投稿欄・・宴の最後に記事が紹介され出席した人への涙を誘っていたけれど、なんで直接言わないの~。家族はみんな苦笑だったよ。
お母さん あなたほど
KYな人を
私は知りません。
孫の二分の一成人式での「私は獣医さんになりたい」に感動してまたまた地方紙へ投稿。奇しくも掲載された日、孫娘は自宅で取り上げ育てた愛犬ベビーがもらわれて行き、別れの慟哭の最中でした。犬育てする孫娘の様子を誇らしく書いたこの記事は絶対に見せられないな…と私は必死で隠したのよ。
お母さん あなたほど
魅力的な人を
私は知りません。
若い時は名を知られた美人だったよね。「お母さん、美人だね~」て聞き飽きるほど言われたその面影は今も。仕事にも情熱的であなたを慕う人はたくさんいたみたい。同じ職業に就いたけどあなたは越せそうにありません。
そんなお母さんに生涯メロメロだったお父さん。長生きしてお母さんを看取るつもりだったらしいのに、アッという間に逝ってしまった。きっとお母さんを一人残すのが何よりの心残りだったのでしょう。葬儀の日は大嵐、初七日も二七日も三七日も荒れ模様の天気。でもお父さんは今あの世で満面の笑顔でいるはず。自分を思い嘆き悲しみ続けるお母さんの姿にさすがに大満足。だから四十九日は雨の予報だったのに快晴だったでしょ。
でもね、お母さん、何事も行き過ぎるお母さん、嘆くのもほどほどにしてね。今度はお父さんがあの世で成仏できないほど心配しないといけなくなるのよ。
どうかお母さん、悲しみは私たちと分け合って。脈々と続く、あなたの遺伝子を持つ私たちの人生の道標であり続けてくれないととっても困ります。
悠太くんのお母さん。
初めての母の日、おめでとう。
この一年近く、本当によくやり続けましたね。夜泣き・抱き癖・風邪の鼻づまり・毎日の薬。何度自分が変わってあげたいと思ったことでしょう。
一か月も続いた下痢のときでさえ、弱音を吐かず、泣き言を言わず、あなたはただ黙々と布のおむつを替え続けていましたね。
本当に、ご苦労様でした。
あなたはよく言いました。
『母としてあたり前のことをしているだけ』
いいえ、そんなことはありません。
いくらでも手抜きができるのに、ひとつひとつていねいに悠太との日々を過ごしていると、私は思っています。
悠太は母親が居るときと私たちだけで世話をしているとき。顔つきが、泣き声が全く違うことにあなたは気付いていますか。幼い悠太は充分わかっているようですよ。
幸せな悠太の日常は、お母さんが元気でいるからこそ訪れるのです。彼にとって母親は太陽なのです。
さぁ、離乳食も後半戦。もう少し忙しい毎日が続きます。体調に気をつけて、若葉マークのお母さん、がんばれ。今日も悠太が大好きな、おいしい野菜スープを作ってあげてください。
また会えることを楽しみにしています。
悠太にかわって、母の日おめでとう。
そして、ありがとう。
少し古くなったお母さんより
「大丈夫?痛い?」オロオロとする私。今年の春、次男が目の奥の骨を折った。柔道の練習中の出来事だ。部活の先生が運んでくれた夜のERで吐き続ける息子を前に何もできずにいた私は泣きたくなった。
「大丈夫?もうすぐ病院だからね。」3才の時右腕を折った。姉とふざけていて倒れた時に右手側にたおれてポキンとやった。もうオンブヒモもママーコートも関係ない年令だったが、その時は、痛がる私を病院に連れていくのに母は使った。久しぶりの母の背中はあたたかく、なつかしい香りがした。みぞれ混じりの季節。北陸の暗くて寒い冬。時折吹く横なぐりの風にみぞれが混っている。三人兄弟のまん中でいつもは放ったらかしの私の唯一の母に甘えた思い出。痛くてあたたかい記憶。
「先生。大丈夫でしょうか?失明は?」次々と質問をぶつける。目の奥の骨折だけに不安で一杯になる。「時間が経ってみないと今は何も言えません。」と眼科医。しばらく外でおまち下さいと外来のベンチへとうながされる。「お母さん助けて。」と心で祈る。去年の10月の終り母がピンピンコロリとこの世を去った。生きていたらとんできて「どうや?」とERに来てくれていたであろうにと思うと胸が涙で一杯になった。
「いくつになっても、子供はこどもや。」というのが母の口グセだった。一人暮らしの母では食べ切れない程のおかずを作り「とりにおいで。」と電話をくれた。いつも幸せになるように心を配ってくれた。生きている間よりも死なれてみて気づいた事の多さに打ちのめされる。45年前、腕を折って泣きじゃくる私をおぶって小走りに走ったじゃり道をどんな気持ちで走ったか。外来のベンチで母の気持ちが分かったような気がした。
今、1歳2ヶ月の私の息子は生まれてくる間に大きなピンチを乗り越えて生まれてきました。
予定より3週間前に破水し、病院にたどり着いたときは「もうすぐ会えるんだな」などと呑気に考えていましたが、周りがばたばたと慌ただしくなり、先生が私のところに来て「赤ちゃんが危ないから、すぐ手術して出しましょう」と言いました。
頭の中が真っ白になりました。「わかりました」と頷くことしかできず、指示通りに必死に深呼吸したり体の向きを変えながらも「どうしようどうしよう」とそれしか考えられませんでした。
赤ちゃんは引っ張り出されましたが、泣き声はせず「蘇生!」と指示を出す先生の声が聞こえました。
ほどなくして赤ちゃんは元気よく産声をあげました。「お母さん、よく頑張ったね」と言われ、涙が出ました。そのとき「ああ私はお母さんになれたんだな」と思いました。でもきっと赤ちゃんも生まれてくるためにすごく頑張ったんだなと思い、すごく赤ちゃんが愛しく大事に思えました。
そしてこうやって私も母から生まれてきたのだと自分の母にも感謝の気持ちがわいてきました。
その夜、私は母に「私のことを頑張って生んでくれてありがとう。私もこの子を大切に育てます」とメールしました。「子育ては親育てです。一緒に成長してください」と返事が来ました。
親子でまだまだスタートラインですが、これからも一緒に成長していこうと思います。
夜中の電話は良い知らせを運ばない。
あの時もそうだった。受話器の向こうで叫ぶ声が言っていることを理解するまでにしばらくかかった。「子ども達の乗ったバスが、山道で転落、子ども達が大怪我をしているようだ。」崖から?命は?次々とわきあがる疑問に答えられるはずのない電話をすぐに切り、娘の携帯に電話をしてみたが繋がらない。
私達は海外在住の日本人家族。娘は海外で育ち、高校まで国際校、現在アメリカの大学生だ。その娘が10年生の時、世界中の高校生がカナダに集まる学生会議に学校代表として参加することになった。選抜された娘は意気揚々と出かけ、私達も喜んで見送り、元気よく帰ってくる、と当然のように考えていた。
帰国一日前の明け方にかかった電話がこれだった。電話の相手は一緒に会議に出席している生徒のお母さん。ようやく担ぎ込まれた救急病院の電話番号が分かり、生きていることだけは分かったが、本人の顔を見るまでは、それはそれは不安な時間だった。
体中のあちこちに骨折をする大怪我をしながらも飛行機で戻り、空港から出てくる時には、片手はブランと垂れ下がり、体中ガラスの切り傷だらけ。後には背骨にひびもみつかった。それでも、娘は言ったのだ。自分を外に出さないなどと言わないでほしいと。世の中に出て行くことを止めないでほしいと。10メートルもある崖から落ちて、命を失わなかった自分は強運の人間だ、だからもらった命を精一杯生きたいと。私はただ彼女を抱きしめることしかできなかった。
親とは、自分の力で羽ばたこうとする子ども達をじっと見守ることしかできないのかもしれない。時には正しい方向をアドバイスすることもあるだろう。飛び立つ方向を間違えないように。下ではなく、上に向かって羽ばたくんだよと心でささやく。
今、アメリカで、自分の力を生かすために、二度もらった命を無駄にしないために、懸命に生きる娘を、私はこれからも見守り続ける。
幼い頃好きだった雨も、今は鬱陶しいだけになった。
それでも、窓から見える雨に心が落ち着く。
雨が降り出すと、母は農作業を止め家に居てくれた。
板の間に座り、縫い物をよくしていた。
切れ端を貰い、人形のスカートを縫った。
「かあさん、これを結んで」と、玉結びは母に頼んだ。
「こんなの簡単だべ」と言いながら、母が出来ないことが出来る喜びと、
母の役にたっていることが嬉しかった。
靴下の踵に穴があけば、綺麗に継ぎはぎをしてくれた。
ズボンの裾が綻びれば、履ける程度に縫ってくれた。
新品にはほど遠いけど、なんでも繕ってしまう。
新しい服が欲しくても買って貰えなかった。
絵本が欲しくても「買って」とは言えなかった。
ただ、雨の日は雑誌の記事も読んでくれた。
小学生たちを荷台に乗せたトラックが、崖から落ち死亡した、という内容だった。
「どうしてなの」の私の質問に、解説を加えながら「ほんに可哀想になあー」と、たどたどしく読んでくれた。
母は、褒める、叱るは上手ではなかった。
口数も多いわけではなかった。
でも、母が家の中に居る、それだけで安心できた。落ち着いた。嬉しかった。
あの頃の母の年齢はとうに過ぎてしまった。
息子たちには、母のような母親に私は映っているのだろうか。
これから1人暮らしが始まる。大学受験を終え、上京が決まり高まる気持ちを抑えられない。
家事は実家でなんとなく手伝っていたから問題はないだろう。大好きなお風呂には何時間も入っていられるし、帰る時間が遅くても怒られない。今晩はご飯がいるとかいらないとか今日は何時に帰るというメールを送る必要もない。1人暮らしを始めるにあたり自由を得た気持ちでいっぱいだった。
いよいよ出発の夜、買い揃えるものがたくさんあるため母と一緒に東京へ。母は3日間、私のアパートにいることになった。
初日は大家さんに挨拶をし、近くのデパートへ行きベッドや自転車を購入。通うことになる大学へも一緒に下見に行った。
2日目は電化製品屋へ。私は洗濯機売り場でどれにしようか眺めていた。ふと目をやると母は、恋人同士であろう若い男女に話しかけている。「洗濯槽は穴が開いていないものがいいんだよ。穴が開いているとカビが生えちゃうからね」。彼らは母にお礼を言い、穴が開いていない洗濯槽を探し始めた。
母は世話焼きというかおせっかいというか、困っている人を見ると助けずにはいられない。そんな母を見て、やれやれと思いつつ、ほほがゆるんだ。
最終日はホームセンターやスーパーへ行き家具や食料の調達。母はさばのみそ煮やきんぴらごぼうをたくさん作ってくれた。そして帰りの新幹線の時間ぎりぎりまで家具の組み立てを手伝ってくれた。
そんなドタバタした状況で母が帰った。だれもいない家は静かで落ち着かない。実家に1人でいたときは悠々としていたのに、なんだか気分が浮かない。さっきまでここにいた母は明日からはもういないと思うと、急に寂しくなり涙が込み上げてきた。私は泣きながら冷めたきんぴらごぼうを食べた。いつもの味にほっとした。
いつも恥ずかしくて手紙やメールでしか伝えていない言葉をいつか口にしたい。「お母さん、ありがとう、大好き」
久しぶりの帰省。
「夕飯は何がいい? いつものでいい?」
何日も前に届くお決まりのメール。私の帰省を待ちわびた母が、少々フライング気味で聞いてくるいつもの質問。一週間後のことなんて分からないよ。そう思いながらわたしはいつもの返事を返す。「うん。楽しみにしてるね」
実家に帰るのは決まって週末。習い事を始める前は、金曜の会社帰りそのまま電車に乗り、片道2時間半をかけて静岡の実家に帰っていた。
夜の小田急線、一人きりの帰路は、ずっとひとりぼっちで私を待っている母への思いでなんだかいつも泣きそうになる。
地元の友達に帰省を知らせるとじゃあ飲もうと誘われることもある。そんなときは、いつも少しだけ遅い時間に約束を取り付ける。到着が遅くて、なんて嘘をついてまで。母の夕飯を食べるために。
懐かしの我が家の扉を開けると、母がちょっと嬉しそうに、恥ずかしそうな顔で私を迎えてくれる。私も多分、同じような顔をしている。
台所へ立つ母の小さな後ろ姿を眺めながら、冷蔵庫に寄りかかって色々な話をする。母は適当に相づちをうちながら人参や玉ねぎまみれのお肉を取り出し「ちゃんと下ごしらえしてあるからおいしいよ」なんて言う。私はこのとき、なによりも子供に戻っていて、そんな自分がちょっとむず痒くなる。
バターとニンニクのいい香り。出来上がったのはいつものステーキ。「家でステーキっておかしいよね」って言うけれど「だってたぁちゃん好きだったでしょ?」って当たり前のように返される。だから何も言えなくなる。ステーキは特別な日だけ、昔はそう言ってたくせに。
お母さん、また絶対一緒に住もうね。だからそれまで元気に待っててね。
素直に言えない気持ちと一緒に、今夜も「いただきます!」ととびきりの夕食をいただく。料理上手じゃない母の、愛多めのちょいこげステーキセット。私の一番の大好物だ。
私の祖母は遠く宮崎県に住んで居る。幼い頃は長期休暇を利用し両親に付いて帰省していた。私は田舎を満喫し、終止笑顔。毎回、まるで決まり文句かの様に「元気でねー!」と祖母に別れを告げていた。しかし母は毎回大粒の涙を流し「元気でね」と言うのだ。幼心の私には何だか大げさな様な、不思議な感覚があった。また会えるのに、と。
あれから20年以上経ち、私は今二人の子供を授かった。子供が苦手だった私が信じられないくらい子供を好きになった。そして無償の愛とは何か、身を持って知った。だけど楽しいだけではない。まだ幼い子供達は私の感情を大きく揺さぶる。困り果てた私が頼るのは、やはり母。まず母を想う。こんな時お母さんならどうする?何て言う?それでも煮詰まった時は無意識に電話をしている。“どうした?”の一言で気持ちがスーッとなる。母の愛情が私の隅々にまで行き渡る。自慢であり、目標であり、憧れる母だ。
そんな母も今は高齢の祖母の近くに住んでいる。あの頃と同じ様に、今度は私が子供達を連れて帰省する。昔を思い出す。でも今は母の気持ちが痛い程解る様になっていた。
帰省の度に少し背が低くなったかな?と感じる母、まだ親孝行が全然出来てない。まだ支えて欲しい、とにかく元気で…。
母と別れる空港で私は決まって泣いている。「お母さん、元気でね。」
子供達は不思議そうに私の顔をのぞき込む。
窓越しの母は笑いながら泣いていた。
帰りの飛行機で隣の席に座ったのは、七十三歳の老人だった。飛行機が離陸すると、見ず知らずの私に自分の人生を語り始めた。
彼は、十年前に奥さんと離婚し、それからは子供とも疎遠で、独りで暮らして来た人だった。家に帰っても、電子レンジで温めたご飯を独りで食べるんだ、と寂しそうに言った。
両親が離婚したのは十年前のことで、八つの私と十の姉を残して、父は去って行った。それからは、父とは連絡を取らずに過ごした。
しかし、高校卒業後に偶然SNSで父のことを見つけたのである。無視されてしまうかもしれない、そんな不安とともに、ぎこちない敬語でメールを送ったのだった。
メールを送るとすぐに、父からの返事が来た。学校の話、父と離れてからの生活、大学に受かった事、何十通もメールのやりとりをして、父が現在ベトナムに住んでいるのだということがわかった。
高校を卒業し、自分の知らない国へ行きたいという私の意思を告げると、
「ベトナムに遊びにおいで。そして、パパと一緒にメコン川を見に行こう」
と言ってくれた。その言葉が、本当に嬉しかった。
空港に着くと、変わらない父が、笑顔で待っていた。それから二週間半、父は色んな所に連れて行ってくれた。
お気に入りのマッサージ屋さん、ダチョウのステーキを食べれるお店、地元の定食屋、そして、メコン川。十年も会っていないのに、自然過ぎる事に「親子」を感じた。
メコン川の船の上で、パパは離婚した時のことを語った。私と姉に別れを告げることもできず、今まで、離婚は人生の最大の後悔だった、と言った。
でもこうして会えた事や、私と姉が幸せに暮らしていることが、本当に嬉しい。そう言って、パパは笑った。
メコン川の帰りに、二人でプリクラを撮った。小さい時みたいに、パパと一緒にゲームセンターに行って。
「娘さんに電話をしたら、きっと喜んでくれますよ」飛行機を下りる時、私は老人に言った。彼はしわくちゃの顔で照れ笑いをした。
母親と比べると、父親とは会話も少ないし疎遠な気がする。母の日よりも父の日はいつの間にか過ぎているし、仕事で家に居る時間が少ない分、父とは接する時間が少なかったように思える。
だけど幼い頃、ほんの数日間父と二人きりで過ごした日々を二十年近く経った今でもはっきり覚えている。父が私の為にたった一回作ってくれたお弁当が今も忘れられない。
その日は遠足だった。当時小学生だった私が毎年楽しみにしていた登山遠足。でもこの年弟が入院し、母がずっと病院で付き添っているため、家は私と父の二人きりだった。
遠足当日、朝起きたら既にお弁当が用意されていた。とても驚いた。普段料理をしない父が私の為にお弁当を作ってくれていたのだった。
そのお弁当は、いつも私が愛用しているキャラクターの小さなお弁当箱ではなく、父が普段使っている大きなお弁当箱に入っていた。
母が作る色とりどりの可愛いお弁当とは違い、中身も大きな卵焼きが入ったシンプルなものだったが、父が出勤前に早起きして作ってくれたのが嬉しかった。
その後順調に山を登り、いよいよお弁当の時間がやってきた。周りの子達は多分お母さんが作ったであろう色とりどりのお弁当箱を開いてた。私はいつもと違うお弁当をおそるおそる開いた。
「私のは今日、お父さんが作ったんだ」
そう言いながら開こうとすると、物珍しそうに友達が集まってきた。
「すごい、お父さん料理上手だね」
意外な言葉が周りから返ってきた。
「お料理が出来るお父さんっていいな」
とたくさん言われ、私は一気に誇らしくなった。
今ほど「主夫」や「弁当男子」なんて言葉が無い時代に、滅多に台所に立たない父が作ってくれた唯一のお弁当。それはどんな優しい言葉よりもどんな高価なプレゼントよりも嬉しかった。
大人になった今、そんな父とは現在離れて暮らしている。
ますます会話も少ないが、言葉がなくても離れてても、あの頃と変わらずお互いを思いやる心で強く繋がってる気がする。家族とはそういう関係の事だと思う。
いつも変わらない愛情を持ち、いざというとき、子どものヒーローになれる母親に私もいつかなりたいと思った。
おかあさん。いつもわたしのわがままを聞いてくれて、やりたいことをやらせてくれてありがとう。いっぱい怒ってくれてありがとう。いっぱい夢を追わせてくれてありがとう。
おとうさん。いつもおもしろいことを言って笑わせてくれてありがとう。ダメなことはしっかり叱ってくれてありがとう。わたしを大切にしてくれてありがとう。
半年前にわたしはおかあさんになりました。まだ二十歳の一人では生きていけないおかあさん。子どもを産んで初めて思ったよ。おかあさんとおとうさんが、どれだけ大切にわたしを想ってくれていたか。
わたしは言うことの聞かない子でしたね。夜は遅く帰って、朝は早く出て行って、ほとんど家にいない子でした。
十九歳の春、わたしの体調が良くないことに一番に気付いたおかあさんは、わたしにこう言いました。「妊娠したんやろ」って。そのときわたしは泣きながらあなたに、「ごめんなさい」って言いました。
まだ大学生で、自分のしてしまった事の重大さにわたしはただ泣くだけしかできなかった時、あなたは「産むんか、どうするんや」と、とても優しく言ってくれたのを、今でもよく覚えています。
おかあさん。あの時、わたしに産む選択肢を与えてくれてありがとう。
おとうさん。その後おかあさんから妊娠したことを聞いたのに、わたしにストレスを与えまいと何も言わないでいてくれてありがとう。
わたしは、あなたたちの心の寛大さにとても救われました。
今、おかあさんとなって、家族が二人になりました。わたしとむすめ、二人だけの家族。きっとこれから、いろんな大変なことが待ってると思う。
けど大丈夫。おかあさんとおとうさんが、わたしを信じて愛してくれたように、わたしも人を信じて愛することを忘れません。
この小さな素晴らしいかけがえのない命を、おかあさんとおとうさんがわたしにしてくれたように、ずっと大切に育てていくね。
今、わたしは毎日幸せいっぱいです。おかあさんおとうさん、そしてわたしの大切なむすめへ「ありがとう。
喜寿を迎えた私に、子供達から目録が届いた。中を開くと『祝喜寿パソコン一式』と記載されていた。 数日後予告もなく、近くの電気店から大きな荷物が運ばれてきた。
『何だ、これは?』と思う間もなく、店員はパソコンを設置し、理解不能な説明を私に繰り返して、嵐のように去っていった。
配線は勿論、プロバイダー契約、メールアドレスなどの手続きなどすべて込みの契約であったらしい。
会社退職後、携帯電話をはじめ流行の電気製品は一切無関心に過ごしてきた私にとって、パソコンは全く別世界の機械であり、正にキツネに包まれたような心境であった。
危険物に触れるかの様に、しばらく放置していたが、せっかくの子供達の好意を無にしてはと老妻に強要され、恐る恐る、ガチャガチャと悪戦苦闘の日々を重ねた。
説明書をよんでも理解できない。人に聞いても覚えたそばから忘れて行く。突然画面が消え、頭にきてコンセントを引き抜いた事もあった。
幸いにして、現役当時、貿易に携わっていた経験もあり、英文タイプには馴染みがあり、キーボード叩く事への抵抗はなかった。
一ヶ月近く経過して、漸く子供達へメールを発信する事ができ、孫から祝福の返信を受けたときには、急に若返ったような感動を覚えた。
今では、孫達とのメールの交信が日課になっている。おかげさまでボケる暇もなさそうである。 最近になって、子供達の狙いが私のボケ防止だったのかと、ようやく気がついた。
私が小学生のころ、両親はしょっちゅう喧嘩をして、母は必ず実家に帰った。母のいない我が家はカスカスで心許なく大きな忘れ物をしたみたいだった。
当時のうちには野良猫がいた。私が寂しさにかまけて猫に残飯を与えていたからだ。夕暮れ、一人になると不安と寂莫に苛まれて、とにかく周りに生き物を置きたかったのだ。
その猫が子を生み、子猫が着々と育っていくのを、母猫と一緒に微笑ましく見守った。
ところがある日、母猫が、近づいてきた子猫を強烈な右ストレートでぶちのめしたのだ。背中を弓なりに曲げ牙を剥きだし、毛を逆立てた姿は阿修羅のようだった。
いきなりの事にびびったのは私だけではなく、殴られた子猫こそまさに晴天の霹靂だったはずだ。目を真ん丸く見開いて口すら開けていた。
親離れが来たのだ、と知った。訳が分かっていない子猫はなおも近づこうとしたが、母猫はその度に強烈パンチを浴びせ続けた。
十分くらい経ったろうか。
子猫は母猫に背を向けた。テッテッテッテと離れていく。母猫は伸ばした後足をなめていた。子猫の姿が見えなくなったころ、彼女は顔を上げ、子猫が消えた行方をじっと見つめていた。
私はふいにこみ上げてきて泣き出した。
出て行った母はもう帰ってこないんじゃないだろうか。今が私の親離れの時期なのだろうか。焦りと不安と寂しさでドウドウと涙が溢れ出てくる。
猫が体をこすり付けてくれるがちっとも寂しさは薄まらない。
「ただいま・・・・どうしたの美由紀」
その声に私は顔を上げた。持っていった荷物を両手に提げてきょとんと見下ろしている。私は母に飛びつきたい衝動を堪えた。母が隣にしゃがみこんだ。私の頭に手を置いた。
「ごめんね」
またやっちゃった、と母は舌を出した。またやっちゃったけど、また帰ってくる。
母の手は毛糸の帽子のように私の頭をすっぽりしっかり抱え込んだ。お化粧の優しい香りがした。
親子の縁を切ろうと決断した日があった。20年前。私四十三歳。
その日、私は一週間前の検査結果を聞きに病院へ向かった。「悪性と告知してくれない場合、どういう手段で先生に口を割らせたものだろうか」それだけが唯一の懸念だった。
なにしろ我が家は十四歳の息子との母子家庭。私の命が尽きるなら、整理しておかなければならないことが山ほどある。
「悪性ですねぇ。ベッドが空き次第すぐ入院しましょう」案ずるより産むが易しどころじゃない。拍子抜けする位あっさり先生の癌告知。
その足で図書館に向かい、関係本を熟読し、自分の生存年数に見当をつけた。最大で五年。さて、どうするか。
生命保険が下りるから息子が一丁前に働ける位までは食べていけるだろう。但し、私の身勝手で彼から父や友達や親戚やを取り上げて、替わりに寂しさを与え続けてきたのだ。
これ以上の寂しさに耐えてくれよは死んでもできない。一人ぼっちで生きる息子が、私は地獄の業火よりも怖ろしい。
ぐじぐじと泣き喚いた長話の果てに、「お父さんの所へ行ってはくれまいか」「お母さんは今日限り死んだものと思って生きてはくれまいか」と私は懇願した。
「お母さん、俺は泥棒してでも生きていく。だから、最後までここでお母さんに付き合うよ」 まだ子供体型から脱皮していない彼。声変わりもしていない息子は即座にに言い切った。
息子の即断は私にとって、親子から同志に変わった瞬間だった。自力本願を捨てた瞬間だった。ままよ。なるようになる・・。
息子は現在嫁さんをもらって、目障りな私を気兼ねて暮らしている。ちょっんちょんと私を突いては「これが一番の粗大ごみなんだけどなぁ」という。
最後まで付き合うと言った、若気の至りの結果だ。甘んじて受け入れろ、と私は内心感謝もしつつ、毒づいている。
私が幼い頃から、母とけんかばかりしていた父。私は何となくいつも母がかわいそうで、「ごめんなさいが言える女になれ」とか私に言うくせに。自分は「悪かった」の一言もさえ言えないくせに、と怒れていた。
そんな風だったから、父みたいに威張る人とは結婚しない、私は15歳にしてそう誓っていた。
あれから15年。おおらかで、優しくて、威張らない。そんな人と私は結婚した。…はずなのに、今日も夫は怒って家を出て行った。喧嘩の原因は書けないほどにくだらない。
今日の場合、家に着くや否やテレビをつけた夫に「何か飲む?」と聞いたら返事が無いので「何か飲むって聞いてるのに」ともう一度聞いたら「テレビ見てんのがわかんないのか。別にお茶でいい。」と返ってきたのが発端。苛立ちの言葉をぶつけ合っているうちに、夫は今日も出て行ってしまった。
けんかばかりだった両親を思い出し、母の声が聞きたくなって電話をする。出たのは父だ。「元気か」との声に「また怒らせちゃった」とこたえたらぱたぽたと涙が溢れた。
「大丈夫だからな。泣くな。ほら。大丈夫だから。」父の声が聞こえる。「男はな、悪いとわかっていてもそうは言えないもんなんだ。悔しいかもしれないけどな、お前が「ごめんね」って言ってやれ。うまいもん出して「ごめんね」って言ってやれ。俺もそうだけど男は本当に馬鹿で子どもだからな。」
父が謝るのは聞いたことが無い。その父が、実は自分が「馬鹿で子どもで謝れない」と知っているのかと思ったら、何だかふふっと笑えてきた。
そして、夫がとても愛おしくなる。
やっぱり私はけんかばかりする妻に、そして、母になってしまった。父に似た人を好きになったのだから仕方ない。「お父さん、今度また、うまくやるコツ、教えてね。」
父が亡くなるほんの一年ちょっと前まで、私と父はほとんど絶縁状態だった。父は、私が高校を卒業する時期に早期退職して起業したが、事業がうまくいかずそのせいで家族はバラバラになっていた。
私が大学を卒業してほどなく、母が我慢しきれず両親は別居となった。大黒柱を失った我が家では、研修医になりたての私に父親役が否応なしに押し付けられる形となった。
頼りになる父親を心の中で求めても、資金繰りに困るたびにお金の打診をしてくる父親に失望するしかなかった。
そんな私が、父との関係を修復したいと思ったのは、結婚して幸せな家庭を持ちたいと思い始めた事と、これから起業(開業)する上で父親との家庭を正常に戻す事が不可欠と感じたからだ。
「とくに何があったわけじゃないんだけど」と前振って父親を突然ランチに誘った。
ぎこちない会話の中で父の口から「どんなに離れていても親は子どもの事を思っているもんだ」という言葉を聞けて、それまでのわだかまりが一気に消えていった。
そのランチの半年後には、父が食道がんの末期であることが判明し、自分の勤め先で手術を受けさせ、自宅で在宅ホスピスを行った。
病気のことがわかってからの母や叔父たちの対応を見たり、会社をたたむ手続きをする中で、父がいかに孤独な戦いを強いられていたかを知った。
「初めてパパの孤独さがわかりました。今まで一人で戦わせてごめんなさい」とメールをしたら「パパの気持ちをわかってくれるのはなおちゃんだけです。入院して初めて泣きました」と返事が来た。
会社のことや借金のことなどは私が一手に引き受けて、父の介護は妹と分担した。今まで「父親役」を強いられてきた私が、父を看病することでやっと「娘」に戻れたのだった。
そして、病気がわかってから半年後に、妹とダブルで親族のみの結婚式を挙げた。父の病気がわかってから、「最後に何か父親らしいことをさせてやりたい」と思うようになり、諦めかけていた婚活を再開した結果だった。
父はモルヒネを飲みながら、バージンロードを2回歩いてくれた。入場前の控え室で、「生きているうちに晴れ姿が見れてよかった。でもやっぱりママの花嫁姿の方がきれいだ」という父の言葉を聞いて涙があふれそうになったのと同時に、「あ~パパは永遠の片思いをしているんだな~」と、なんだか切なくなった。
結婚式の2ヵ月後に、父は自宅で息を引き取った。私が見守る中で、最後に深い深いため息のような呼吸をして、ひっそりと旅立っていった。
父が亡くなってから半年後には、開業の夢を叶え、1年後には娘を出産した。
父と絶縁状態で家族もばらばらだったころからは想像もつかない程の幸せな毎日が、今は自分の手の中にある。
父に対して十分なことがしてあげられたのかどうかは分からない。でも、今の私の幸せはすべて父を許すことから始まったのだ。
「らいおん組さんに入れちゃうよ!!」途中入所で年少組さんに入ったが、なじめず暴力ばかり振ってしまう息子に担任の先生も堪忍袋の緒が切れ、発したひと言だった。
その連絡帳に涙した。
「途中入所の子も一ヶ月もすれば慣れますよ」と言われたが、息子は二ヶ月たっても私を門のところまで後追いし、鉄の扉のむこうで泣き叫んだ。
「お仕事一日休んで影から見てください!!」
その日は3びきの子豚の劇をやっていた。狼扮する息子の暴力は歯止めがきかない。
いつしか先生達の間で暴れん坊将軍と呼ばれた。
「どうしてお友達や先生をたたく?」と悲しい顔で聞く私に、「だってね、さくら組さんのみんながいじわるするんだもん」目に一杯の涙をためてお話してくれた。
きっと小さな心は淋しさで一杯ではりさけそうなくらいだったのだ。私は息子をぎゅうっと抱きしめて二人で泣いた。
時がたち、息子は少しずつ成長してくれた。園長先生から「面倒見のいい、優しい子ですザリガニの世話、うさぎ小屋のうんちの片付けは率先してやってくれます。障害をもつお友達にはひざを曲げてお話をしてあげて、ゆっくり一緒に歩いてあげれるんです」と。
発表会、和太鼓、運動会とどれも活躍し、私を喜ばせてくれた。
そして卒園する頃にはひまわり組さんのリーダーとなり、先生方やお友達の人気者になっていた。
あの私を後追いし、泣き叫ぶ息子はそこにはもういなかった。
「僕ね、お母さんをずっと守るからね。」そう言って暴れん坊将軍は私の小さな騎士になってくれました。
朝起きて「おはよう」の挨拶のみで会話が終わってしまう。最近母との会話は無い。理由は簡単、私と母は仲が悪い。
だけど昔は違った。家での会話は絶えなかったし、一緒に買い物にも出掛けていた仲だ。
仲が悪くなったきっかけは、高校3年での進路決め。私は就職と決めていたが、母は進学を求めてきた。
「看護師の資格があれば将来は楽よ」母に促され看護学校を受けたが失敗。「病院で働いて、来年受けなさい」私は気付く。自分の人生が母に決められていることに。
なりたくない資格なんて意味が無いなんて思っていたからか、2回目の受験も失敗。
「どうして勉強しないの?」怒鳴られたら「そんなに看護師いうなら自分がなれば?」怒鳴り返す。最後に「私の人生を決めないで」
病院に就いてしばらくは会話はあった。お弁当はおにぎりだけでいいと言うと、「休憩とれないくらい忙しの?」体を労ってくれた。
毎朝駅まで車で送ってくれて、迎えにも来てくれていた。今は自分の車で通勤している。思えば自分で通勤し始めた頃から顔を合わせなくなった。というか機会が減ってしまった。
看護への道を決めていれば、今でも仲は良かったのだろうか。今まで育ててくれたのに、ひどいことを言ってしまってことを後悔しても遅い。
でも母が私を嫌いになったとしても、私は嫌いになれない。仲が悪くて会話も無いけど、起きたら朝食はあるし、毎日お弁当も作ってくれる。
季節ごとに飲み物も変えてタンブラーに入れてくれたり、帰宅したら夕食がある。そして受験に失敗したとき母は、陰で泣いてくれていたのを知っている。
家族に尽くしてくれる母を嫌いになんてなれない私は、仲が直るきっかけの会話を見つける為に「おはよう」の挨拶を言い続ける。