親子の日 エッセイコンテスト2010 入賞作品

オリンパス賞
・オリンパスμTOUGH
・ 双眼鏡TripLight
トリニティーライン賞
毎日新聞社賞
エプソン賞
円谷プロ賞
ラスト・ソング賞
親子の日賞
 
 
オリンパス賞オリンパスμ_Tough
いてもいなくても、親子岡部 達美
この春、兄が一人暮らしを始めた。九州での学生生活だ。兄の椅子がポツンとひとつ。食卓の一角がぽっかりあいた。家が広くなった。そして、私の分担の洗濯物が激減した。私は、兄がいないのを実感した。
父が、おとなしい。あんなに怒ってばかりいたのに。あんなに威張っていたのに。今は落ち着きまでない。反面、母が、以前より忙しくしている。あんなに外で働くのを嫌がっていたのに、兄の仕送りのため、いそいそと仕事に出る。帰って来ると、三日に一度は、荷造りだ。
「野菜が高いからね。お兄さん、大変でしょう。それに、お菓子だって、男の子は買いにくいものよ。」
まるで私に言い訳をするかのように、丁寧に荷造りに励む。隣りで、父は、静かに新聞を読んでいる。
「お父さん、手伝ったら。」
私の声も、父には届かないようだ。
家族。たった、ひとりいないだけで、こうも空気が違うものか。家族。あんなにけんかばかりしていた私も、最近、けんか相手がいなくて、どうも変だ。
「早く帰って来ないかな。いたって、意地悪されるくらいなのに。でも、いないと調子がおかしくなっちゃう。早く帰って来てよ。」
そう、心の中で思いつつ、今日も、父母を気遣っている。寂しいのは、私ばかりではないはずだから。
先日、電話があった。兄からだ。
「ああ、達美か。勉強しろよ。ふざけてると、大学に入ってから泣くぞ。それと、お父さんとお母さんのこと、頼むぞ。」
そう言うと、切れた。私は、兄が、少しだけ好きになった。いてもいなくても、家族。いてもいなくても、親子なのだと、私は、そのとき、気づいた。
 
オリンパス賞双眼鏡TripLight
「おかえり事件」栗原 千明
私は幼い頃から母親っこだ。物心ついた頃から、母親とだけは学校のこと、好きなひとのこと、将来の事、なんでも話してきたし、その関係は今でも変わらない。しかし、父との関係は全く違う。私の父は非常に寡黙で、それでいてとてもシャイな人間だ。私が小学生の頃ですら、父とはほとんど口をきいた記憶がないし、怒られたり褒められたりした記憶もない。幼い頃は、私に対する父の無関心態度を当然のように感じていたが、私も思春期を迎える頃にはそのような父の姿勢に疑問を感じるようになった。そこで、母に「なぜ父と結婚したの?」と尋ねたことがある。すると母は、「結婚したときはもっとおしゃべりだったんだよ!」と、諦めの気持ちが半分見え隠れするような笑顔でそう答えた。
父は私のことが好きではないのだろうか…。
2007年春、私は第一志望の大学に合格し、上京することになった。大学一年前期は、とにかく色々なことが目に新しくて、楽しくて、時間は矢のようにはやく過ぎ去っていった。   あっという間に夏休みが到来し、数日間、実家に帰省する事にした。
久しぶりに実家のドアを開けて驚いたことがある。あの父が、満面の笑みで「おかえり」と声をかけてきたのだ。これは事件だった。少なくとも私にとっては事件だ。私はなんだかむず痒い気持ちになって、少々ポカンとしていた。父がその場を去ったあと、母が「お父さんの書斎を見てごらんよ」とにやにやしながら声をかけてきた。父の書斎をこっそりのぞくと、私の通う大学から送られてきたのであろう大学情報誌や、学部報が机の上に積まれていた。その光景を見て、なんだか心が締め付けられるような思いがした。父は私に関心が無かったわけではない。ただ、娘とのうまい関わり方がわからなかっただけなのだと確信した。今までは私もただ、無口な父を客観的に見ているだけだったのだが、久しぶりに実家に帰ってきた娘の姿を見て満足そうに微笑む父の姿を見て、私からも父に歩み寄ってみようという気になった。沈黙の18年を、これからでもいい、取り戻していこうと思った。
 
オリンパス賞双眼鏡TripLight
元祖デコ弁こうさか らんまる
給食は小学校までで、中学高校は、母の作った弁当を持って学校へ通いました。私の弁当は、ある一点を除いて普通の弁当でした。アルミの大きな弁当箱、ドカベンの中には、赤いウインナー、塩辛い卵焼き、ピーマンの炒め物、ご飯はギュウギュウ詰め。私の弁当の定番でした。
昼休み、弁当の蓋を開けると、ご飯の表面には、のりで眉や目や鼻を、桜でんぷんで口や頬を描いて、母は、その日の自分の気持ちを表していました。時には怒った顔、時には悲しい顔、まれに、にっこりとした笑顔もありました。前の日に母と喧嘩をしたときは、決まって怒った顔が書いてありました。最近は、キャラ弁、デコ弁などお弁当に工夫を凝らして、ブログなどで発表される方も多いのですが、もう三十年以上前になりますから、母の弁当は元祖デコ弁かもしれません。
そのころ、特に中学生のときは、ほとんど母とは口を聞かず、聞いたとしても、私が怒鳴ったり文句を言ったりするばかりでした。思春期や反抗期、いろいろな理由があったのですが、「なんでぼくのことを生んだんだ!ばかやろう!」そんなことを口走った次の日は、決まって悲しい顔が書いてありました。
「いってきます。」「ただいま。」も言わないで、無言で弁当を持って学校へ行く息子に、何かを伝えようと、弁当に託していたのでしょう。母が私に気持ちを伝えようとした元祖デコ弁の顔を、ときどき思い出します。どんなときでも、私とのコミュニケーションを諦めたり、私を見捨てたりしなかった母は、すごいと頭が下がります。ごめんね、かあちゃん。
お弁当の中に入っていた塩辛い卵焼きをときどき食べたくなります。実家に帰ったとき母に「何が食べたいんだい?」そう聞かれて「弁当に入っていた卵焼き」と、そう言ったら、「せっかく来たのに、そんなものでいい?」と言っていましたが、私にとっては、母を思い出すお袋の味。いちばんのごちそうなのです。
 
トリニティーライン賞
ふう、今日も笑ってるよ。ふう
「ふう、今日も元気に過ごせた?」
母から私(ふう)に毎日このメールが送られてくる。
「元気だよ。大丈夫。」
私は決まってこう返信していた。私は高校を卒業し、地元から少し遠い短大に進学したため、ひとり暮らしを始めた。新しい環境で生活し、不安がたくさんあるなか、家族とのメールでのやりとりはとても貴重なものになった。少しづつ短大生活にも慣れ、楽しく毎日を過ごしているとき、私に試練が与えられた。
ある日の授業中に突然顔の右半分が麻痺し、思うように動かなくなってしまった。急いで病院に向かった。仕事が終わったばかりの父も病院にかけつけてくれた。医師の診断によると、私の病名は、『顔面神経麻痺』。環境の変化によるストレスからなる麻痺ということだった。人によって治るはやさは様々だが、早くて1カ月。長くて半年くらいで治ると言われた。その日は、薬をもらい、帰宅した。私は、怖くて怖くて仕方がなかった。目が閉じられない。うがいが出来ない。笑うことができない。昨日まで普通に出来ていたことが、いきなり出来なくなった。
ごめんね。お母さん、お父さん。「元気だよ、大丈夫。」ってメール、送れないよ、ごめんね。ふうの薬買うために働いてるんじゃないのに、ごめんね。わたしは精神的にもすごく落ち込んでしまった。しかし家族は、私を献身的に支えてくれた。実家に帰ったら、うまくものが食べられない私のために、やわらかい食べ物を作ってくれた。顔が動けない私のために、マッサージを教えてくれた。私は、病気が治ったら、笑って「ありがとう」って言おう。と心に誓った。
それから毎日、薬を忘れずに飲み、マッサージも続けた。そして、発症から1か月ほどしたある朝、「おはよう。」という母に、口角がしっかり上がった笑顔で「おはよう。」と返せた。とても嬉しかった。そのことに家族が喜んでくれたことが嬉しかった。だから私は笑顔で「ありがとう」って言った。 病気なんて、ならないほうが幸せだ。って、心から思う。でも、今回の病気から、家族にありがとうって純粋に言うことが出来た。怖かったけれど、嫌だったけれど、成長できた。
「元気だよ。大丈夫。」
私は今日もこう返信できた。私は今日も笑っている。
 
トリニティーライン賞
朗子への手紙伊勢田恵子
朗子。あなたが二歳のとき事故にあって以来、病院や相談所を駆けめぐる日々が始まりました。そして中二のとき、いじめで不登校になってから三十八歳の今まで、片時も離れず一緒に過ごしてくましたね。初めは言語障害児、そして知的障害児と呼ばれるようになっていました。
障害とは何なのか、と考え続けてお母さんなりにわかったことがありました。見えない、聞こえないなどは確かに不便ではありますが不幸というわけではないでしょう。意識的に人を害する言動をするほど重い障害はないのです。目には見えない心から生まれてくるので、本当の障害は見えないものだったのです。…この意味では、朗子よりお母さんの方がずっと重い障害者なのです。これを語ってから、もう朗子はお母さんにとって障害者ではなくなりました。朗子を侮ったり、共に行動するのを嫌う人たちがいる場合にのみ、朗子は障害者となるのだ、と思っています。
この頃はニュースを聞くたび酸素が薄くなっていくように苦しくなるんですけどね、世界が競争で動いているためではないでしょうか?競争は人と人、国と国の間に勝者と敗者、優劣を作り育ててゆかずにはおきません。もし世界が協調で動いてゆくなら…厳しい競争が緩和されて全員にとって生きやすい社会になる事でしょう。お母さんはその日がくるのを夢見ているんですけどね。
今まで周囲にいた人たちにずいぶんと助けられてきました。人は優しいものなんだ、と思って感謝しています。そして誰よりも、お母さんは朗子に感謝をしているんですよ。朗子の笑顔が大好きで、一日でも長く笑顔を見ていたいと願っています。傍にいてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう!
 
トリニティーライン賞
「嬉しかった、親の失敗」関根 真知子
結婚して落ち着いた頃、珍しく父から電話があった。
「そこの住所を言ってみて]、知らないはずは無いのに唐突に父が言った。
「うん、確かに間違いない」と電話の向こうで母との話し声が聞こえる。
「手紙を書いて送ったのに戻ってくるのだよ。住所も間違いないし、どうしてなのか分からないから、もう一度投函してみる」といって電話が切れた。
父から電話があることが嬉しかったが、用件だけポツリと話して、それで終わりだった。
数日後、新居のアパートの小さなポストに、父からの大きな茶封筒が在った。
無事に届いたではないの、と思いつつ封を切った中から、封筒に入ったままの手紙が出てきた。宛先にたどり着けない、と言うような旨の朱色のスタンプが白い封筒に色鮮やかに押されてあった。
「戻ってきたその手紙を送りましたので、何が間違っているのか見てください」とメモが貼り付けてあった。
どこが間違っているのだろう、自分でも気がつかない。暫くその手紙の宛先を見つめている内に、可笑しさがこみ上げてきた。
たまらず声を出して笑った。とても可笑しいのに涙も出て止まらなかった。
私宛の名前が旧姓のままだったのだ。
この日に届いたのは新しい姓で宛名も書いてあったが、戻って来たと言う手紙には旧姓で書いてあった、そこに気が付かなかったようだ
長い間付き合った姓、愛着があるのは私も同じだったが、子煩悩な父らしいと思ったり、几帳面な父らしくないと思ったり、暫く手紙を読む事を忘れていた。
手紙には私が嫁いだ後の、父の病状の事、そして田植えや農作業の近況が細やかに書いてあった。
結婚には反対だったが、私の幸せを願い最後には祝福してくれた。
旧姓のままの娘の宛名に気が付かなかった両親に、あらためて親の気持ちを想い、遠く離れた事に気が付いた。
「とうちゃ~ん、かあちゃ~ん」と小声で呼んだ。
自分のことしか考えていなかった若かりし頃を思い出す。
 
トリニティーライン賞
息子がくれた指輪井上陽子
息子と私、母子家庭ながら充実した日々だった。「僕、働くようになったら毎日お母さんにお金あげるよ。それでデパートに行くといいよ」小学校低学年の息子はそんな言葉で母を喜ばせてくれた。
夏休み、二人で自転車で郊外の科学館に向かったときのことである。帽子を忘れた私は途中で大型店で買うことにしたのだが、即座に
「いいや、行こう」といい引き返した。
「お母さん、僕のものならすぐに買うのに」
帽子売り場をあとに息子が呟いた。
少し行くと宝石店があった。「お母さん、買うの?買うの?」ショーケースを何気なく覗いた私に息子はすかさず言う。それも満面の笑みで・・・。そういえば前に言ってたことがあったっけ・・。「亮のかあさんも哲のかあさんも指輪してるけど、お母さんはしないの?」って。
符帳を見ながら笑う私に息子はショーケースを廻りながら畳み掛ける。「お母さん、買う?綺麗だねその指輪。ねえ、買う?買うの?」ショーケースは息子の汗ばんだ手の跡がべったりついている。ペタペタペタペタ、息子はちょっとした興奮状態で私の目を見る。
「お安くしときますよ」店員さんの苦笑いにようやく決心した。帽子が十個買える買い物になったが、息子の喜びようが嬉しかった。
息子の興奮状態はそれからも続いた。
「お母さん、指輪ちゃんと持ってる?指輪つけないの?」到着した科学館でも水族館でも
何度も何度も確かめてきた。スキップしながら嬉しそうに・・・。「なんでこんなに嬉しいんだろう?」
息子は自分でも不思議そうに、それでも嬉しそうに何度も指輪の入った袋を確認した。
あの指輪は息子のお嫁さんになる人に大事にとってあります。この指輪を買ういきさつも一緒に喜んでもらってくれるおよめさんだったら母にとって最高の喜びになるでしょう。
 
トリニティーライン賞
母の家出傘の日
 私の母はすぐ泣く。すぐ落ちこむ。その上すぐ家出する。家出の場所は決まっている。伯母の家だ。ケーキ片手に伯母の家に行き、伯母の家の近くにある普段から足しげく通う洋服屋で前々から目をつけていた服を買い、伯母にリクエストした料理を食べ、1日かそこらで帰ってくる。家出の理由は嫁姑問題であったり、父の浮気疑惑であったり、とにかく家に居たくない何かがあるときだ。その何かは突然やってくる。母はゴミ袋に当座の衣類を詰め、ゴミ出しに行くふりをしてそのまま家出したりする。ゴミ袋の中にはきちんとコーディネートされた服が入っている。私と兄は思春期を迎えるころまで必ず母のお供だった。ゴミ袋を持ったまま小学校まで迎えに来たこともある。それでもやはり家出中、伯母の家で撮られた写真にはかわいいお揃いの服を着た兄妹が写っている。母の性分なのだ。幼い私は、母に連れられていく度に今度こそ家に戻らないのではないかとはらはらした。でも母は私たちの手を引き自分の足できちんと帰る。祖母は亡くなり、兄と私は成人し家を出たが、母は今もちゃんと家にいる。
 母は専業主婦だ。働いた経験はほとんどない。運転免許も持っていないから、身分を提示できるものはフラダンス教室の会員証だけだ。よくしゃべるが、政治経済の話をしているのは聞いたことがなく、美味しいものとお洒落に目がない。当然肉付きもよい。俗に言うおばちゃんだ。私が社会人になり転職を考えたとき、母は安定した仕事を辞めることに強く反対した。母はそこでいい人を見つけ、早いうちに結婚してほしいと思っていたと思う。社会に出て数年が経ち、世間がわかった気になって、自信をつけていた私は母に対して、一人で生きていけないくせに嫌なことがあったらすぐ逃げ出す母のような弱い人間になりたくないから経験を積みたいのだという意味合いのことを言った。それから母は何も口出ししなくなり、私は仕事を変えた。
 去年私は大病をした。今まで健康であることが当たり前だった私には正に青天の霹靂だった。検診でひっかかった私は医師である伯父に相談し、さらに詳しい検査を受けた。もし結果が悪くてもまだ両親には言わないでほしいと頼んだ。母が泣きじゃくるのが目に見えていたからだ。検査の結果は最悪で、事の重大さを考えた伯父は私との約束を破り両親に話した。その日の私の携帯は母からの着信で一杯だった。仕事を終えた私が電話をかけ直すとやはり母は泣いていた。泣きながら「一緒に頑張ろう」と言った。それから母は私の看病に徹した。病気に効くと聞けば何でも実践してみせ、入院中は一日も休むことなく私の好物を持って毎日病院へやって来た。私が照れ隠しで母のことを「婆や」と呼ぶと、母は「はいはい」と答えた。検査の後、手術の後、やはり母はよく泣いた。一時退院をして私が一人で住むマンションに戻った際には、私に内緒でやはり一日だけ家出もしていた。けれどいつものように何もなかった顔をしてすぐに戻ってきていた。それから「あなたは私の命」と言った。治療は来月ようやく終わる。
 正直、私は母に肝心なところでは頼れないと思っていた。母は目の前にある問題を見ようとせず、泣いては逃げてばかりいるように見えたからだ。しかしこれまで母が戻ってこなかったことがあるだろうか。母の涙はこれからの戦いへの宣戦布告だとしたら。
 やっとわかったことだけれど、母の家出は逃げているのではない。逃げ出せないから、次のラウンドのゴングに向けて、腹ごしらえをし、身支度を済ませ、息を整え、闘う準備をして帰ってきているのだ。逃げ出せないから、どんなに嫌なことがあっても、全て受入れ、自分の足で必ず戻ってくるのだ。きっと家出の度に母の度量はお腹の脂肪と一緒にどんどん大きくなっている。私はそんな母に手を引かれ、ずっと守られてきた。
 私の病気がわかったとき、伯父に両親に言わないでほしいと頼んだ理由はもう1つある。これからの長くなるであろう戦いに備えて、何にも知らない、一点の曇りもない、いつもの母の声をもう一度聞いておきたいと思ったからだ。私に起こったことを知った母が、自分の命に代えても私のことを守ろうとすることを知っていたから、この世界に自分以上に私のことを愛してくれる存在がいることを知っていたから、私のために涙を流すことを知っていたから、だからその前にいつもの母の声が聞きたかった。私は無償の愛というものを知っている。それはきっととても幸せなことだ。
 私の母は携帯をうまく操作出来ず、更年期障害に悩み、週に一度公民館で開かれるフラダンス教室に通う。もちろんムームーにもこだわる。冷蔵庫の中はいつも荒れ放題だけれど、筑前煮と鯵の南蛮漬けは絶品で、家族と二匹の猫を心から愛す。そして時々、家出する。私は今、母のような女性になりたいと思う。
 
毎日新聞社賞
「はちまき」みゃーらん
ワールドカップの日本代表を応援するため父がはちまきを買ってきた。そのはちまきを締め、日本酒を手にテレビの前を陣取っている。「こういうのはな、団結が必要なんだ。気持ちで勝負だ。ここに味方がいるぞ。」あきれる家族をそっちのけに父は大声で選手と一緒にボールを追っていた。それを機に孫である、私の娘の運動会にもはちまきで登場。周囲のくすくす笑う声もなんのその。娘も祖父の必要以上の応援に少し気恥ずかしげに、もじもじしている様子。熱い応援も功を奏すことはなく、徒競走では、一人転んだので結果はびりから二番目だった。
そんな折、父の母親である私の祖母が認知症の症状がひどくなり、施設に入院することとなった。九十近い祖母は家族の顔はすっかり忘れ、孫の私のことはもちろん自分の生んだ息子のこともおぼろげになっていた。祖母の入院する施設に父と私で会いに行った。父の顔を見ても、恭しくお辞儀をするだけの祖母。父は何と声をかけたらよいか迷っているようだった。無言の時間がどれだけ続いただろう。父は自分の汚れたズボンのポケットから例のはちまきを取り出した。そして、そっと、祖母の真っ白な頭に巻いてやった。「気持ちで勝負だよ、母ちゃん。ここに味方がいるぞ。家族はいつでも母ちゃんの味方なんだよ。」
そう、声をかける父の目には涙がにじんでいた。私は後ろで声を押し殺して泣いた。祖母はやわらかく微笑んでそのはちまきを触っていた。
 
毎日新聞社賞
父からの手紙石原真弓
久しぶりに箪笥の上に置いてある父の写真を手に取った。「ずいぶん埃をつけて、ごめんね。」と言いながら自分の手でうっすらと付いた埃をはらった。 写真の父は笑っている。
若いころの私は、父とは気が合わず、憎んだこともあった。家にいるときは気難しい顔しかしていないような記憶しかない。 でも、今は笑っている父の顔ばかりがうかんでくる。
「何もしてやれなかった・・」と思った瞬間、父の顔が見えなくなった。 埃を払った同じ手で今度は自分の涙を拭いていた。
私には母にも兄たちにも言っていない父からの手紙がある。家を離れて仕事のため海外に行っていた半年間に父が書き送ってくれたものだ。
その手紙を読みたくなった。 無性に父の字が見たくなった。 箪笥の中のアルバムの間にそれらは挟んである。写真屋の袋を開けると海外用の封筒に入った手紙が6通あった。 その内のひとつを取って読み始めると、みるみる涙で字が見えなくなった。
いかにも神経質そうな細かい字で書かれた手紙はどれも取るに足りない内容ばかりである。 母のこと、孫のこと、兄のこと、兄嫁のこと・・そして、みんな元気なこと。そして必ず「体に気をつけるように。」と結んである。
嫌いな父の手紙など捨ててしまえばよかったのに、捨てられなかった。捨てずによかったと思った。
私にとって父とは「好き」とか「嫌い」とか、そんな単純な存在ではなく、ただ ただ「大切な人」だったのだと気づいたのは、父は亡くなってからのことだった。
 
毎日新聞社賞
「魂のキズナ」瀧野 稔
今から4年前、きままな一人暮らしをしていた僕はある女性に出会いその人を好きになりました
その人には3歳の男の子がいました
もともと子供が好きだった僕は3人でよく遊びにでかけるようになりました
出会う度に僕はどんどんその二人を大切に思うようになりました
でも「付き合ってください」の一言がなかなか言えずにいました
付き合う事がすぐ結婚と結びついてしまい、中途半端な気持ちでは言えないと思っていました
だけどその僕のモヤモヤを一瞬で吹き飛ばす事件が起こったのです
ある動物園に行った帰り道、休憩で寄った喫茶店で僕の前に座ったその男の子が僕を見て
「おとうちゃん」と言ったのです
その女性は困った顔でコラコラと言っていましたが、僕はすごく嬉しかった
そこで僕は気付きました、あぁ僕はもうそれを望んでいるんだと、そうなりたいんだなと
その翌日ずっと言えずにいた一言をやっと伝える事ができました
そして1カ月後僕たちは入籍しました
僕はこの男の子といると不思議な感じがします、なぜかずーと前から知っているような
血縁という物よりもっと深い、なにか魂の絆のような
僕はこの子に出会う為に生まれてきたのではないかとさえ思います
うまく表現できないけれど僕たちは紛れもない親子です
今ではその子ももう小学生、弟と妹も生まれ幸せな日々を過ごしております
 
エプソン賞
親子のキャッチボール笹井良太
『聞きたくない。』
国際結婚をすると告げた私に父は予想通りの反応をした。私も反発して別に祝って貰わなくて結構だと言い放った。
父は野球が好きで地元の少年野球団の監督をしており、自らも草野球チームのエースである。一方私は大の運動嫌い、専ら家で読書をしていた。父の期待を踏みにじり、買って貰ったグローブを雨の中外に置き去りにした事もある私とは対象的に弟はスポーツ少年に育った。私は父が弟ばかり気にかけていると感じ、遂に大学で一人暮らしを始めるまで父の前で素直になれなかった。そうして出来た深い溝を時折感じては父は私を誤解していると悲しんだものだった。
大学時代を私は世界中を放浪して過ごした。そんな私をずっと心配してくれたのは母だった。父には黙って旅に出ていたが、母は父に全て話していたらしい。
その後私が商社に内定した時、父は私を行きつけの居酒屋に連れていった。最後まで野球の話をぽつぽつと話すだけだったが、常連客から『息子さんと飲めるなんて幸せだね。』と囃されると嬉しそうにしていた。
徐々に解れた親子の糸は、私が大学時代に出会ったカンボジア人女性と結婚すると決めたことで再び拗れてしまった。
母や弟、婚約者のためにも父との関係を修復しなければならない。私はその後再び実家に出向いて父をキャッチボールに誘った。私の投げる玉は父の所まで届くに精一杯だったが、父の玉は私の胸元まで真っ直ぐ飛んできてその度に掌がビリビリと痺れた。
最初に口を開いたのは父だった。
『お前のやりたいようにやれ。お前より年上の人間なんて先に死んじまうんだから、周りの理解ばかり求めんでいい。その代わり親より先に死ぬな。』
私が返事をするより先に弟が来て『仲良しじゃんか。』と嬉しそうに言ってきた。
私はボールを投げ返しながら『親子だからな。』と言ってみた。
 
円谷プロ賞
赤い鳳凰大迫一幸
二ヶ月振りに母が帰ってきた。
「お父さんの還暦祝いをするんだけど、熊本まで来てくれる?」
父の勤務地が変わって、母は父と熊本へ行ってしまった。ときどきひとりで神戸に帰ってくるのだ。
母が熊本へ戻る日。僕は仕事で休めないから無理だと言うと、母は寂しそうな顔で家を出ていった。
家でひとりになると、母には悪いことをしたなあと後悔した。沈んだ気分を吹き飛ばしたくてテレビをつけた。司会者とゲストが楽しそうにおしゃべりしている。その遣り取りで、ゲストが司会者から電報を受け取っているのが気になった。
そういや、電報があったんや
僕は真っ赤な鳳凰が羽ばたいているデザインのカードを選んで、メッセージを添えて贈ることにした。
父の還暦祝いが行われた翌日に母から電話がかかってきた。声がいつもより弾んでいた。
「ありがとう。電報届いたよ。感情をあまり出さないお父さんの久しぶりの笑顔が見れたわ」
「お父さん、喜んでくれたんやー」
「当り前よ。お父さんね、メッセージを読んでからしばらくの間、鳳凰にみとれていたわ」
母の話は続いたがいつものように脱線し、ようやく電話を切ることができた。母の声が聞こえなくなると、今度は父の姿が浮かんだ。
座敷に胡坐をかいて愉快な顔で父はビールを飲んでいた。その横で、あの真っ赤な鳳凰が羽を休めていた。
 
ラスト・ソング賞
父の存在感かおり
海外にお嫁に来た今も、毎日眺めている数枚の写真がある。それは母と幼い私が写った数枚の記念写真。
京都の街角で、青い染め抜きの花模様の着物を着て、微笑む母のそばでにっこりしているおかっぱ頭の私。
どこまでも広がる黄色い菜の花畑で、花に顔をうずめている小さな私と、それを見守る母の優しいおくれ髪。
長い一本の道を、手をつないで歩いていく母と私の後姿。子供の頃の思い出の横にはいつも母がいて、私はこんなにも母に見守られて、育まれてきたのだという実感がいつも心を暖かくしてくれた。
でも子育てをしてみて初めて気がついたことがひとつある。
それは、そんな思い出の数々を今日の日まで残してくれたのは、そのフレームの中にはいない父だったということ。
不思議なくらい、今の今まで気がつかなかった。

子どもが生まれて、私がカメラを持つようになり、アルバムを作ってみればそこには、赤ちゃんを抱く旦那さん、お風呂に入れる旦那さん、寝かしつける旦那さん・・・。私と赤ちゃんの写真なんてまるでなくて、これじゃ将来うちの娘は私が育児放棄をしたと思うかな・・・と日々、苦笑いしている。
写真という記憶の不思議。
フレームに存在しないという、存在感。
お父さん。
気づくのが遅くなっちゃいました。
でも間に合って、よかった。
今までずっと、ありがとう。
控えめなあなたの深い真心を、ありがとう。
 
「親子の日」賞
『君と似ている私』息子はママの宝物
私と母は顔がそっくり。顔の他にも声や話し方も全てがそっくり。小学生の頃、参観日の度にその事をクラスの男の子にからかわれてとても嫌だった。母と似ていると言われる度に私は母に毒付いた。
ある日、参観日に母は来なくなった。その事を最近まで思い出す事もなかった。 月日は経って、私も母親になった。とても可愛い、男の子。顔も手足の形も、爪の形も私にそっくり。話し始めると声も話し方も私にそっくり。
お母さんにそっくりね、そう言われる度に私は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。自分に似ている分、その分可愛くてもっと言って欲しいくらいだった。
そんな息子が今年幼稚園に入園した。参観日。。とても楽しみにしている今の自分。
ふと、母の顔が蘇る。
『今日、お母さんに似てるって笑われた。恥ずかしいから参観日来て欲しくない』
私は確か、こんな事を参観日の度に母に言った気がする。5年生になった時、母は参観日に来なくなった。
あの時、母はどんな気持ちだったんだろう。本当は先生の問いに元気に手を挙げているところを見て欲しかった。帰ったら、参観日で手を挙げた私を褒めてくれた優しい母だった。恥ずかしかったから、。ただそれだけの理由で母を拒否して傷つけた。
息子は私と似ている。性格も何もかも。
きっといつか言うだろう。私が母に言ったひどい言葉を。
でも、私はその言葉に負けずに息子を見に行く。きっと彼も、本当の気持ちは私と似ているだろうから。負けずに見に行こうと思う、。
そして、初めての参観日を終えたら、母に謝ろうと決めている。
 
「親子の日」賞
歩く高木朝雄
ちょうど小学6年生だった。昭和22年生まれの僕が、親父と一緒に正月用の花を行商の形で、岡崎の町まで売りに行った時のことだ。昭和34年、愛知県地方を襲った伊勢湾台風で大きな被害が出た。農家であった僕の家も米が壊滅的で、現金収入が無く年末のやりくりが大変だった。親父が、一念発起して正月用の花を行商に行くという。僕にもついて来いという。リヤカーに花類を満載して、僕の住む村から山道を約10キロ程歩くのだ。師走の早朝の山道は凍てついていた。白い息を吐きながら親子で黙々と歩いていく。小学6年にもなると、自我も強くなり、親父を「お父ちゃん」から「おとっつあん」と呼ぶようになっていた。岡崎の町に着くと、親父はいきなり「エエー、オハナー」と声を張り上げる。普段無口な親父の変貌ぶりに驚いた。そして、花を売りさばく親父を見直したりもした。夜になり町から引き揚げるとき、疲れた僕は、リヤカーの中に乗り込んで眠り込んだ。親父は、黙々とそのリヤカーを引いて山道を帰った。それから30年後、僕にも息子ができていて、神戸という都会に住み、交通機関の発達した町では、長距離を歩くということがない。息子が小学5年のとき、遠足で行った事のある五色塚古墳に行きたいというから僕が連れて行った。往きは電車だったが、どちらともなく歩いて帰ろうと言い出した。ここから家まで約10キロある。都会育ちの息子にこれだけの距離を歩きとおせるか疑念があったが、息子はかなり乗り気だ。夏である。かなり暑い。二人とも汗だくになりながら。激しく行き交う車を横に見ながら、東に向かって歩いてゆく。途中で休みながら10キロの道のりを歩きとおした。家に着いた息子は、晴れ晴れとした顔で「やったね」と、僕とハイタッチしたのだった。僕は、30年前の親父との気持ちをそのとき感じ取ることができたと思う。それから20年の月日が経った。
 
「親子の日」賞
ありがとう、息子様達木村チヅ子
私には、三人の息子がおります。長男四十才、次男三十八才、三男三十二才です。
過ぎし子育ての頃や、今でも「男ばかりで大変だったでしょう、大変でしょう…」などと言われてきましたが、私は三人の息子達から戴いた三つの心のお守りを信じ、それにすがってきましたので、数々の大変さも私の心の栄養となって心身に残ったように思っています。
そのお守りの一つは長男が小学三年の時の作文です。大きくなったら何になりたいかという題に、なんと「お母さんになりたい」と書いたそうです。先生もびっくりして本人に聞いたところ「僕の家は仕事とお客さんとでものすごく忙しいからお母さんが二人いたら助かると思うので」と答えたそうです。
その二つめは次男が中学二年の頃ボーイズスカウトで夏のキャンプに行った時のことです。「この水冷たくてすご~くおいしいよ!飲んでみて」と水筒に山の水をいっぱいにくんできてくれました。なまぬるい水のおいしかったこと…
そして三つめ、三男が小学一年の春のことです。私は風邪で高熱を出し寝こんでいました。学校から帰った三男がまくら元に来て「お母さんちょっと起きて、ここに座って外を見てね」と。やがて二階の窓から桜の花びらがハラハラと!「お花見だよ~、お花見だよ~!」と大きな声、学校からの帰り道、近くの公園に落ちていた桜の花びらを袋いっぱい持ち帰ったようです。
三人とも中学高校大学とそれぞれの反抗期を含め、それはそれはいろいろな事がありましたが、私はその度にそれぞれから戴いた思い出の心のお守りを信じ、ゆれる胸の内を押さえ続けてきました。
いくつかの欠点よりもひとつの優しさを信じ続けることが、私の心の最強のつっかい棒になってくれたようです。
ひとつの優しさを信じ続けることを教えてくれた息子達、私の子供に生まれてくれて本当にありがとう!
きっと今頃、貴方達も子育てに大奮闘している頃ではないでしょうか?
 
「親子の日」賞
「よかったやんな!」たまたまこ
「よかったやんな!」
そう言われて耳を疑った。義父のがんの再発が判明したというのに、10歳の息子は何を言っているのか?
「頭おかしいんちゃうかっ!」
怒鳴ろうと思ったその瞬間、
「早期発見できて、よかったやんな。」
もう一度息子が言った。
怒鳴ろうとした自分が、恥ずかしくなった。そんな素敵な「よかった探し」をしてくれた息子に感謝した。
そうだ、その通りなのだ。腫瘍がまだ1センチの早期なので、開腹手術ではなくラジオ波で焼ききるという。6センチもの腫瘍を摘出した前回に比べれば、入院も短くてすむし、体への負担もずっと少ないだろう。楽天的な妹に比べてなにかとネガティブだった息子が、こんな前向きな考え方ができるようになっていたことに感動した。
子育ては、素敵なサプライズの宝庫である。
 
「親子の日」賞
「バランス剤」飯島文香
私の家族は、五人家族。父・母・兄・私・妹。
私のお家は、ラーメン屋。
お父さんの左腕は、ムキムキ。28年間変わらず毎日毎日湯切りする腕。この腕で高校・大学・専門を出してもらった。その腕で丁寧に作られるラーメンは、ものすごく美味しい。
お店にいる時のお母さんは、記憶マシーン。注文を次から次へと間違えることなく暗記していく。お客さんへの対応も、すごい。"看板ババァ"。キャラクター勝ちのその接客は、お客さんも楽しんでいるのかな。
子供の頃、ラーメン屋の娘なんて、本当はちょっと嫌だった。でも、今は自慢のお店。
私のお兄ちゃんは、美容師。私の受験の日、お兄ちゃんがトンカツを作って持たせてくれた。何があっても私の味方でいてくれる優しいお兄ちゃんは、自慢のお兄ちゃん。
三つ離れた妹は、舞台女優のハシクレのハシクレ。あどけない笑顔は、今も昔も変わらない。でも、客席へ向けられる笑顔、その大きな体で軽快に踏むステップ、自分が知るドンくさい妹とはかけ離れて見える。
私は、三人兄妹の真ん中。何か取り柄があるわけじゃない。でも、バランスをとるのは得意。三人兄妹の真ん中だから。
笑顔でどこまでも突っ走れる天真爛漫で予測不能なお父さん。太陽よりも明るいのに、石橋を叩き過ぎちゃうくらい心配性で慎重なお母さん。優し過ぎて自分をいつも犠牲にしちゃう口下手なお兄ちゃん。何も考えてないように見えて、本当は考え過ぎの妹。いろんなことが極端な私の家族。たまーにバランスを崩す。
バランス。
お父さんの暴走をほんの少し和らげ、お母さんの不安をできる限り拭い去ってあげて、口下手なお兄ちゃんの気持ちを引き出してあげて、自分のことがよく分かってない妹には、ヒントを出してあげる。
なんて言いながらも、お父さんの懐の広さに、お母さんの温かさに、お兄ちゃんの優しさに、妹ののどかさに、私の方が助けられたり救われたりしている。
「家族ってやっぱりいいよね。」と、いつも思う。
 
「親子の日」賞
「世界で一番たいせつな絆」山本久仁子
私は、小学3年生の時、自分は母の実の娘でない、と疑ったことがある。秋、窓を閉めて寝る季節の頃だった。母は毎週日曜日の夜9時から10時の間に自分の部屋にこもり、決して襖を開けてはいけない、と言った。新たなる法律制定により、私はそれに従った。
だけど、それにしても、一体全体、母は何をしているのか?なぜ私は見てはいけないのか?見られてはいけないものでもあるの?何か秘密でもあるの?秘密・・・?そのうちだんだん妙な疑惑と不安がのしかかってきた。
もしかして、母は「鶴の恩返し」に出てくる鶴ではないか?隠れて織物を織っているのではないか?実は「雪女」で、襖を開けたら、真っ白の風にくるまれ、消えていくのではないか?私は、そんな化け物たちから生まれたのか?じゃぁ、私は桃太郎か?もしそうだったらどうしよう?黍団子あげるから、鬼退治に行ってきなさい、って言われたらどうしよう。怖いやん。めちゃ怖くて、泣きそうやん。壁の落書きのにわとりが、ろばと犬と猫を連れてくるから、いっしょに逃げ出せ!ところが私はガリバーのように、この座布団に縛り付けられ、どこにもいけない。そうだ、玉手箱を開けると、何かいいことがあるかもしれない。竜宮のお姫様は開けるなって言ったけど、お母さんは開けてしまったかもいれない。襖の向こうで、髪が真っ白のおばあさんになっているかもしれない。ぁぁぁ、、、
こんな秘密を持つなんて、きっとお母さんは私が嫌いなんだ、実の娘じゃないからだ。私はなんてかわいそうな娘だ。泣きたくなって、襖を開けてしまった。すると、母はなんと腕立て臥せの真っ最中。
「こら、開けたらあかん、て言うたやん」
もうすぐ運動会で、教師の母は、競争に勝つために、特訓中なのだった。
「あんたがおったら集中でけへんから、ひとりでやりたかったのぉ。はあ、もうええわ。やめよっ。」
と、食卓に来てお茶を飲んだ。そこで、べたべたとくっつく、しけたしょうゆのあられ、それをひとつづつ5本の指先につけ、指をなめずに食べた。これ、母と私のおもろい食べ方。
「いつものことやけど、こうして食べたら、なぜか、おいしいなぁ~」
と、にちゃっと笑う母。で、私は5本の指を寄せて、5つのおかきを同時に口に入れるという技を極め、母の絶賛と大笑いを得るのだった。こんなことで絶賛してくれるのは実の親以外あり得ない。間違いなく私は母の子である!すごく嬉しくて、そして、涙がとてもしょっぱかった。
 
「親子の日」賞
おとんの最期の写真展猫背
おとんは膵臓癌らしい。もって半年。なんじゃそりゃ。はじめて聞いたときは実感がなかった。
あたしはおかんが嫌いだけど、おとんは大好きだ。芸大の写真学科に行きたいって言ったときも、おかんはつぶしがきかないと言って反対していたけど、おとんはやりたいことをやるべきと賛成してくれた。おとんは良き理解者だった。 日に日にやつれていくおとんが確実に死ぬと決まってから、あたしはおとんが楽しそうなところを撮影することに決めた。バイト先のギャラリーが2週間個展をさせてくれると言ってくれた。大好きなおとんの写真集をつくろうと決めた。死んでゆく人の最期を写真に撮るなんて不謹慎だ、という人もいるかもしれない。でもおとんはオモロそうやんと言ってくれた。
病室で呼吸器をつけられたおとんを撮影した。おとんが営んでいたうどん屋の常連客が次々と病室に訪れて、あまり話すことはできないけどやさしい表情で迎えるおとんを写真に撮った。
おとんが亡くなって、おとんの写真展を開いた。ギャラリーに訪れたおとんの常連客や弟子たちは涙を流し、写真集をめくりながら、おとんとの思い出を語ってくれた。写真はあたしとおとんとの共同作品になったと思う。
おかんとの関係も少しずつよくなってきている。あたしはおとんの子どもに生まれて良かったと思う。
 
「親子の日」賞
母の日とチョコレート毒魔女館長
「完全に頭にきたッ」
怒りの沸点が100度に達し、どうにもこうにも抑えられない。中学2年生の良太は、まるで言うことを聞かない。バスケ、寝る、食べる、寝るの基本生活を送り、学力はみるみる低下、屁理屈だけはこねまくりの毎日だ。
成長期の食欲なのか、買っても買っても冷蔵庫の牛乳は忽然と消える。夫の給料で家のローンを払い、私のパート代は牛乳と塾代へと変わる。
パートから疲労困憊して帰ってくれば、まず飛び込んでくるのが玄関に蹴っとばしてある大きなスニーカーと、娘の運動靴。第1関門をクリアすると、リビングの入口に放り投げてあるランドセルや良太の補助バッグ(またこれが重い)や脱ぎ捨てたままの汚い制服。もうこの辺で、コメカミのあたりがキーっとなっているのだが、子供達に雷を落とすものの、ゲームや本に夢中で私の声なぞ全く届かない。
疲れる、本当に心の底から疲れを感じる。
残念な学力テストの結果でさらに眩暈を覚え、「別に」「どうでも」という良太の言葉に全身の力が抜け、そして強烈な悔しさが私を襲う。
お母さんはね、勉強だってバスケだって、あんたが一生懸命やってそれで負けて、悔しいって言うんだったら何も言わない、なのに何なの、あんたのその態度は。不毛な言い合いの後、良太はプイと2階にあがっていった。
今年最大のバトル勃発が、哀れな私の「母の日」前夜であった。
5月13日、手作りのカーネーションなんぞを作ってくれた遠き日を思い浮かべ鬱々と過ごすのもバカらしく、実家に帰り愚痴をぶちまけたが腹の虫は治まらない。良太とは口も聞かず顔も見ず、戦闘態勢はいまだ解けぬままベッドに入ろうとすると、赤いパッケージの板チョコ1枚と、殴り書きで「ごめん、感謝」とメモがあった。
「ふん」である。
「ふん、こんなもんで」だ。
もっとおこづかい持っているだろうに、板チョコ1枚かよ、と毒づきながら、やはりどうしても心の中がホンワリとしてしまう。
チョコは甘くてほろ苦くて美味しかった。
とっても悔しい。
 
「親子の日」賞
忘れんぼうになった母へ宮永富栄
「ごま漬けに酢は入れんだかい?」母の認知症を決定づけた一言だった。
姉や妹からは、最近母が少しおかしいと聞いていたが、遠く離れた私はあまり気にもとめていなかった。
九十九里の名産であるごま漬けは、小指程度の小さな背黒イワシを丸ごと・・・といっても頭と腹ワタをひとさし指でキュッと取って塩水に一晩、酢水に一晩つけ、一段ずつ、きれいに並べ、ゆず、はりしょうが、ごま、とうがらしの輪切と順番に振り、一段、又一段と、気の遠くなるような作業を繰り返し、又しばらく置くと子どもも年寄りも骨ごと食べれるイワシのごまづけの完成だ。
母の味はどんな有名な土産もの屋よりもおいしく、母自身もそれをわかっていた。
だから私が実家へ帰るからというと必ず手土産にと作ってくれておいた。
いつからか少し味がかわってきて、ん?何かが違うという感じが、現実のものとなったのだ。
50年やってきた当たり前が、母の記憶から消えた。
たばこの自動販売機に古い500円札を入れて入らないと泣きだしそうになったり、お札に火をつけてもやしてしまったり、一体何があなたの中におきているの?
父が亡くなって七年、独りで淋しかったんだね。ごめんね。
今はまだ、あなたの中にいますか?
私達の笑顔は・・・あなたに届いていますか
私達の想いは・・・。
忘れんぼうになったあなたは「ありがと」「ありがと」とそればかり。もういいよ。あなたのシワシワになった笑顔の中にいつまでもいられますように。ありがとうは、こっちだよ。
 
「親子の日」賞
「父の似顔絵」おかぴ
私が幼稚園児だったときのことだ。父の日のプレゼントとして似顔絵を贈ることになった。私はどのような絵にしようか、ものすごく迷ったのだろう。
 数日後、『パパ宛』に届いた似顔絵を見た家族は「ん?」と首をかしげた後、
「あっ!」と納得して大笑いしだした。
私は『パパのすきなところ』と題して父の頭だけを描いていたのだ。
 父は髪が薄く、家以外ではいつもバンダナや帽子をかぶっていた。父は髪が薄いことを気にしていたので、そのことについて触れることは我が家のタブーになっていたのだが、私が描いた一枚の似顔絵で状況は変わった。
 似顔絵を見た父は、すぐに自分の頭が描かれた事に気づき大笑いしだした。父は似顔絵を大変気に入り、額に入れて丁寧に飾ってくれた。それ以来、父は帽子やバンダナをしなくなった。父いわく、この似顔絵を見ていると、どんな悩み事があっても自然と笑いが込み上げてきて明るい気持ちになれるらしい。私は知らなかったが、病気で入院した時も、父は病室にこの似顔絵を飾っていたようだ。
 現在、その似顔絵は父の写真と一緒に大切に保管している。たまに家族と一緒に見るのだが、その度に笑い声が家中に響く。
―やっぱり、そっくりだなあ。
 
「親子の日」賞
「花屋の息子」神谷 嘉人 
自宅脇に花屋を構えて1年になる。夫婦で始めた小さな店だ。近所の幼稚園に通う一人息子は、園から帰ると真っ先に店の中に飛び込んでくる。客のいる時は店内に入らないよう言い聞かすが、5歳の息子には、なかなかこれが分かってもらえない。
その日は、いつになく私の足元から離れようとしなかった。下を向いて何かごそごそやっている様子。何度注意しても聞かない息子の態度に腹を立てた私は、つい息子の顔の前でさっと右手をあげた。
覚悟ができていたのか、息子は両目をギュッと閉じて固まっている。
「いい加減にしろ!」口で叱りながら何気なく息子の手元を見ると何やらしっかりと握りしめている。薄眼を開けながら息子は、「お父さんとお母さんにプレゼント!
と手を伸ばす。束ねられた花が2つ、それぞれがラッピング用のセロファンでまかれ、バランスは悪いがきっちり、リボンまで結んである。贈呈用花束の完成形だ。
聞くと、母の日も近かったので、お母さんに自作の花束を渡したかったらしい。
花の扱い方を教えたことなどないのだが・・。よく見ると、結ばれたリボンの先は、うまい具合にくるくるとカールしている。いわゆるカーリングリボンの扱い方を知っていることになる。こんな短時間のうちに、親父のどなり声にもひるまず、よくそこまで作れたものだ。幼児ならではの感性と集中力、そしていつの間に覚えたのか、その観察力に驚いていると、さっきまでの怒りは自然に消え、顔を張るつもりであげた右手はいつの間にか力も抜けて、いがぐりのような坊主頭の上に軽く置かれていた。
一つでなく二つの花束を作った息子の優しい気持ちがうれしかった。
その日の晩、もう一つの花束はリボンが外されぬまま自宅のキッチンで飾られていた。
 
「親子の日」賞
父親らしさ井中かわす
「おならぷう」
「おしりぷりっ」
口を開けばふざけたことしか言わない父。私が子供の頃、そんな幼稚な言葉を父と飽きもせずに言い合っていた。
くだらないことで不条理な父。私が勉強でわからないところがあって父に聞きに行くと、最初は機嫌よく教えてくれようとするが、結局理解できず最終的に「授業をちゃんと聞いとかないからだ」と逆に叱られた。
父は仕事が休みの日には私と外で遊んでくれた。今でも笑えるのは、父と向かい合ってボール蹴りをしていた時のことだ。私が小学生ながらに少し勢いのあるボールを蹴った時、父は飛び上がり足を伸ばしてそれを止めようとしたが、それが見事に父の股間に入ってしまった。父はうずくまってしばらく動けなかった。
中学、高校の思春期に入ると私は父によく反発するようになった。その時私がよく思ったのは、父のようにはなりたくない、ということだった。安月給の中小企業サラリーマン、会社でストレスを溜めてきては家庭でやつあたり、休みの日は家でだらだらとテレビの前で横になり、そんな父に対し母親はぶつくさと私に愚痴をこぼす。だが私は父が嫌いなわけではなかった。相変わらずふざけたことばかり言う父が好きだった。だが、父のようにはなりたくなかった。
私が大学に入った頃、父は鬱病にかかった。会社の経営が傾いたことが大きな理由だった。父の苦労など気にも留めず、私は近所にアパートを借りて家を出た。時々家に帰ると平日の昼間なのに父は会社にも行かずテレビの前で横になっていた。私を見ると相変わらず冗談を口にするが、その顔には疲れがにじんでいた。人生への疲れに見えた。
 就職してから私は、父の苦労が少しずつわかるようになった。私はストレスから1年半で会社をやめ、今は公務員を目指して勉強している。
父はまだ病気と闘っている。母によると、会社も以前よりは行けるようになったそうだ。一日一日、自分と戦いながら生きている。弟、母を守る為に。もしかしたら私に父親らしさを見せようとしているのかもしれない。
私は父のようになりたくなかった。でも私はまだ父を越えられない。