親子の日 エッセイコンテスト2008 入賞作品

オリンパス賞
・Voice Trek DS-60
・olio photo coupon
こどもちゃれんじ賞
・直島・ベネッセハウス
 親子3名1泊宿泊券
トリニティーライン賞
・スキンケアベーシックセット
エプソン賞
・プリンタ カラリオ ミー E-520
毎日新聞社賞
・風呂敷 「もったいない風呂敷」
「親馬鹿力」賞
・新刊 「親馬鹿力」(著者の林家木久扇+木久蔵親子と写真家ブルース・オズボーンのサイン入り)
 
オリンパス賞Voice Trek DS-60
お母さん、ありがとう公絵
 去年の夏、「とにかく今から行くから」と母からメール。結婚して最近顔を見せていなかったけど、何か母の様子がいつもと違う。この間も私が勤務する旅行会社の窓口に突然父が現れ「たまには帰ってこい」そう言って帰って行った。だけど、「ま、いっか」とそんなに気に留めずにいた。30分後、チラシ寿司とケーキを持って母がやってきた。他愛ない会話をし、いつも通りの明るいお茶目な母。そんな母と話をしているうちに急いで私に会いに来た理由を聞くのも忘れて、私は畳の上にごろんと寝転がってくつろいだ。と、その時母が「実は言っておかなアカン事があるの」と切り出した。「何?どうしたん?何よ?」怖くて聞きたくないけど、聞きたい。語気を荒げて母を急かした。「実はね、お母さん癌になってしまってん。でもちゃんと治療するし大丈夫やから心配せんといてね」。私は一瞬理解が出来なかった。「お母さん、死なんといて」と泣きじゃくってしまった。「大丈夫大丈夫」と母は笑う。ショックなはずなのにいつもと変わらず笑っている。「驚かせてごめんね」と言って。
あれから1年。母は辛い抗がん剤治療と手術を乗り越え、今2ヶ月になる私の息子を抱いている。お母さん、元気になってくれてありがとう。おばあちゃんになってくれてありがとう。私も母になり、あの時泣きじゃくった私の前で大丈夫と笑った強い母の気持ちが今わかる気がする。
 
オリンパス賞olio photo coupon
一人二役西 直人
四歳のあーちゃんは、いつもママに怒られている。
「そんなに言うこと聞かへんのやったらお外に放り出すよ!」
ママのカミナリが落ちると僕までオロオロしてしまう。
「これからちゃんとするな。ごめんなさいやね」
お外に放り出される前に泣いているあーちゃんを救出する。
「パパは黙ってて!」
僕まで怒られる。みんなからあーちゃんは、パパっ子と呼ばれている。外ではいつも僕のあぐらの中にいる。
職場の懇親会があり、夜遅く帰った翌朝のことである。
「飲み過ぎで門限を破ったパパはお外!」
二日酔いの僕を見てママのカミナリが落ちた。あーちゃんを見るとニコニコしながら僕を手招きしている。僕はママに「どうだ!」を言わんばかりにあーちゃんのもとにすり寄った。すると小さな手は僕の腕をつかみ玄関へといざなった。
「パパ、そんなに言うこと聞かへんのやったらお外!」
恐ろしいことにママの口調そっくりだった。外に放り出された僕はこっそり窓越しに中の様子をうかがっていた。すると二人は楽しそうに朝食を食べ始めた。しばらくすると、 「ガチャッ」
玄関の鍵が開く音がしてあーちゃんが現れた。
「パパ、ごめんなさいやな」
八の字眉毛の表情は、僕そのものであった・・・・・・。
 
オリンパス賞olio photo coupon
子どもたちが与えてくれる夢小田 慶喜
 私の膝には、息を殺して生き物を観察する息子たちの重みが残っている。私の背中には、美しい花に感動をする息子たちの鼓動が残っている。私の瞳には、星空を指差す妻 と息子たちの輝きが残っている。私の心には、家族で体験した美しい自然と楽しい思い出が残っている。そしてそのひとつひとつが、私や妻を成長させてくれたと感謝している。
 私たち夫婦に、子育ての楽しさを教えてくれたふたりの息子たちは、京都と北海道でそれぞれの夢に向かい、学生生活を謳歌している。再びふたりとなった私と妻は、子どもたちと暮らすことが如何に刺激的で楽しい事であるか、ため息をつきながら話している。
 息子たちを豊な自然を愛する人間に育てようと、幼い息子たちを連れて実施する、毎年のキャンプ旅行計画やスキー旅行計画は、子どもたちの視線で自然を捉えるすばらしい体験となった。仕事で疲れているからは単なる言い訳であり、息子たちのために時間をつくり出す努力が必要なことを家族から学ぶことができた。
 子どもたちとアイデアを出し合い、採集、飼育、観察、製作、そしてそれぞれをまとめることも、楽しい家族の時間となった。家の中を占領する多数の飼育ケースに、飼育の不備を指摘する妻の目は笑っていた。日常生活において、常に子どもの感性を刺激することが重要であり、共に家族が成長する機会になることを体験できた。私たちが子どもの時に毎日出会っていた、ドキドキやワクワクが子育てにはいっぱいあり、子どもたちと一緒に学ぶことができる。
「高山植物を観察したいから白山へ連れて行こう」、「山間部を走る道路の側面処理の調査をしたいからドライブしよう」など、高校生になった息子たちから頼まれた時、私 の心は「やった!」と小躍りした。
 子どもと共に学び成長する子育ては、本当に楽しい。次は大学生となった息子たちから、私たち夫婦が多くのことを吸収できるかが重要だと考えている。
 
オリンパス賞olio photo coupon
大草原の猛獣たちゆずこ
 青い空を見て、いつも思っていた。「自由に暮らしたいよ・・・。」シトシト降る雨を見て、いつも思っていた。「気ままに暮らしたいな。」と。
 でも、絶対に無理。何故なら、うちには猛獣が2頭いるからだ。しっかりしつけをしないといけないからだ。それはそれは、重要な使命である。大きな義務であり、重大な責任があるのだ。その猛獣の種族は、息子という。そんなわけで、私は毎日いきり立ちながら、大声で罵声を浴びせながら、ビシッ、バシッと猛獣たちに鞭を振り回しているのである。なんとも恐ろしい形相だと、自分でも思う。けれど、猛獣たちは、ちっとも言うことを聞かないし、罵詈雑言を浴びせられても、どこ吹く風で、三六五日、二十四時間、まった~りと悠久の大地で寝そべっているのである。気分はモンゴルの大草原である。
もうお手上げ。私は精も根も尽き果てた。作っても作っても決して余ることのないおかず、炊いても炊いても残ることのないお米たち、洗っても洗っても底から湧いてくるような洗濯物の山、片付けても片付けても空き巣が入ったかのような部屋、ドタバタドタバタと1日中ノイズがなくならない日々。もうダメだ。野生のカバとゴリラを調教しようとした私が、バカだった。人間って愚かな生き物だとつくづく思う。
 力尽きた私は、ある日曜日の朝、目を覚ますことができず、十時過ぎまで寝てしまった。
慌てて部屋から飛び出すと、なんと、猛獣たちが目玉焼きを焼き、温かい紅茶を入れ、パンを焼いていた。「お母さん、この紅茶好きでしょ?」なんと、私の大好きなアールグレーをヤカンいっぱい入れてくれていた。
 いつの間にか、猛獣たちは「やさしいヒト」になっていた。気がつかないうちに、しっかりとした、やさしいヒトに進化していたのだ。私もモンゴルの大草原で昼寝をしよう、ヤカンいっぱいの紅茶を飲みながら、思った。
 
こどもちゃれんじ賞直島・ベネッセハウス親子3名1泊宿泊券
息子と僕と父とゴルフ!?石津 孝
 最近、僕はゴルフを始めました。友人や仕事関係の人に会った時、挨拶がてら『ゴルフを始めた』と話しをすると僕を知る殆どの人が『意外だねぇ』と応える。自分でもゴルフを始めたのは意外だったが、他人から見てもやはり意外に感じるらしい。

 昔サラリーマン時代、どんなに誘われても断り続けたゴルフ。それが今では、時間を見つけては打ちっ放しに行くまでになったのです。このゴルフ生活…ひょんなことがきっかけでした。

 それは、幼稚園に通う息子と僕と父(ジジ)と親子三代で出かけた時のことです。そこで息子に「ある疑問」が生まれました。

 『ジジはぼくのおじいちゃんだけど、パパのおじいちゃん??』というのです。どうやら息子にとって「ジジ(祖父)と僕(父)」の関係が今ひとつわからないようなのです。
確かにパパ、ママは理解できても祖父、祖母の理解は難しいのだろうなと思いながらも『ジジはパパのパパなんだよ』と答えると、息子は不思議な顔をして『ウソだよ。ジジはパパのパパじゃないよ』というのです。

 やはり子供にとって少し難しい話しに感じるのかなと思っていると

 『パパはいつもボクと手を繋いでくれるのに、ジジはパパと手を繋いでくれないじゃない?ジジとパパが親子なら、なんでボクみたいに手を繋がないの?親子だったら繋いでよ!』と半泣きになっているのです。

 息子にとって「親子は手を繋ぐもの」と感じたらしいのです。

 息子の泣き顔と孫の言葉に恥ずかしながらも僕と父は手を繋ぎました。何十年も繋いでなかったその手は、ゴツゴツした父の手からシワシワのおじいさんの手になっていました。不思議と涙が出て来ました。元気で頑固な父も本当におじいさんになってしまったのだと感じました。そしてこれから先、少しでも父と一緒に過ごしたいと感じたのです。お酒も飲めない僕にとって、これから父と楽しく時間を過ごせるもの…。それがゴルフだったのです。

 今では、一緒にラウンドに出るのが楽しみです。力(飛距離)では勝てるのですが、あのシワシワの手からでるミラクルショットには敵いません。今の僕の目標は『打倒!父(ジジ)』です。

 こんな素敵な目標ときっかけをくれた息子に感謝です。
 そして、いつか息子に『打倒!父』と言われるようになりたいものです。
 
トリニティーライン賞スキンケアベーシックセット
未確認飛行物体おとつき
2歳になる息子はちょうど言葉を覚え始めたところで、その少ない語彙でなんとかしゃべってやろうといつも必死だ。

ある日のこと。
「おかあさん、きょう、ゆーふぉーみた」
・・・えっ!?な、なんですってぇ!?
あまりの唐突な話に、高鳴る胸を手で押さえながらゆっくりと息子に問う。
「ゆ、ゆーふぉーみたの?どこでー?」
「こうえんで。たんぽぽぐみのゆうすけとーはるきーとさとみせんせいとみた」
時々語尾を伸ばしては一生懸命そのときの情景を思い出すように話す息子はさらにこう続ける。
「ぐるぐるーって、ぐるぐるーって」
口をすぼめてそう言いながら、脂肪のたくさんついた小さな手を丸めて円を描いている。
うーわー!!ゆーふぉーっぽーい!!
私はさらに息子に問う。
「ゆーふぉーに誰か乗ってた~?」
「うん、のってたよ」
「だ、だれが乗ってたのかな~?」
おそるおそる聞く私に息子は元気いっぱいに答えた。
「おじさん2ひき!」

抱腹絶倒。もうサイコー。オモシロすぎて少々記憶が飛んだほど。
1日中、子どもの親になって得したゼ、というこの上ない幸福感をかみしめていた。

翌日、保育園の先生に衝撃の事実を明かされ、私の幸福感は至福に変わる。
お散歩のときに公園で見たモノは、工事現場で働くくるまやひとたち。
「ゆーふぉー」ならぬ「ユンボー」で、確かに作業員の男性が2人乗っていたそうな。

なんというおかしみ。
相手は笑わそうなんて思ってないから、それがピュアなおかしさを引き出す。
それがどんでん返しまでおかしかったから感動すらした。
こんなに自然に、こんなに心から笑うなんて大人になってからあっただろうか。
固まっていた顔の筋肉がほぐれていくのまでわかった。
私があんまり笑うもんだから首をかしげていた息子も楽しくなってきたようでケラケラ笑う。

何がおかしいのかわからず首をかしげる表情も
何がおかしいのかわからないけど母が笑うのを見て笑う顔も
そのときの高らかに歌うような笑い声も
ぜんぶ愛しい 我が子よ
いつまでもこの時間を忘れないで
 
トリニティーライン賞スキンケアベーシックセット
泣き笑いの思い出華ちゃん
もう20年も前の事ですが、娘がまだ2才の夏、私は二人目の妊娠で流産の兆候があったため、絶対安静を指示され、2ヶ月近く入院していたことがありました。主人の母に預けた娘は、健気にも「おりこうさん」だったようで、祖父母にもわがままひとつ言わずじっと私の帰りを待っていたと聞きました。入院中、何度か義母に掛けた電話に、一度だけ娘が受話器を取ってしまった事がありました。
思わず「もしもし・・・」と言ってしまい、娘だとわかると黙ってしまった私に、
「あっ、お母さんだ! 元気ですかー?」と答えた娘。
「元気だよ~。」とだけ言ったあとは、涙が溢れて来てしゃべれなかった私でした。
待ちに待った退院の日、主人の実家に娘を迎えに行き、玄関のドアを開けたとたん、
「うわ~ん!」と泣きながら抱きついてきた娘に、感極まってもらい泣きの私でした。
今では家を出て社会人として働く娘ですが、あの時の事ははっきりと覚えているらしく、
「私も幼いころから苦労をしていたのね。」なんて笑って話します。
母として、幼い娘に切ない思いをさせてしまった「泣き笑いの思い出」ではあります。
 
トリニティーライン賞スキンケアベーシックセット
岡田 雅美
我が家は母子家庭。10年前に離婚し、娘2人と3人で暮らしている。
上は13歳、下は10歳。多感な時期を向かえている。
そんな我が家では、最近こんな事があった。私が家事と育児・仕事をこなす中、いろんなストレスが溜まっていた。子供の前で自然と不機嫌になることも、八つ当たりをしてしまうことも度々あった。
そんな時、上の子にこう言われた。
「ママ、何かあったんならちゃんと話して!」
いつもと違う私の様子に気づいたのだろう。私は、ハッとした。
“子供”なんだからと思い、親の威厳を保つ為に、必死で弱みを見せないようにしてきた。
それが当たり前だと思っていた。
でも、娘の感覚は違っていた。
「しんどいことは3人で分ければ少なくなるし、嬉しいことは3人で3倍にできると思うよ。」
こんな事言われるなんて、思ってもなかった。「親」と「子」、確かに線を引く所は引かないといけないと思う。
でも、1人の人間として対等に接する時は接しなければいけないんじゃないかと気づかされた。親だって辛い事はある。しんどい事も・・・。それを主人が居ない分、娘が支えてくれようとしているのだと分かった時、涙が出た。
「親の背中を見て子は育つ」とは、この事なのかなって。
「話しても理解できないはず」じゃなくて、「まずは、話して見ないと!」と思い、これからは3人で、3人の家族のスタイルを作って行こうと思った。
今では、1日の出来事を互いに話し、家族の絆を深めている。時には喧嘩もあるけど。子供なりの、子供だからこそのアドバイス、「痛いところをつくなぁ~」と内心思いつつ、でも確実に私の宝物のような時間になっている。
いつまでもこの時間が続きますように。
 
トリニティーライン賞スキンケアベーシックセット
お守り袋の中身横田 佳保里
 たしか4、5歳の頃。お守り袋の中に何が入っているのか気になってしかたなく、こっそり開けてみたことがある。こっそり、というのは、自分がいけないことをしていると思ったからである。結局、中身が何だったのか、今となってははっきり想い出せないが、何か・・・小さな、金色の仏様のようなものが入っていたような・・・気もする。ともかく、 その後しばらく「お守り作り」が「マイブーム」となり、紙で作った袋の中に金色の折り紙で折った小さな兜(私は鶴が折れなかった)を入れて、お守りだと言っては家族に「プレゼント」していた。
 それから10年以上の時が経ち、わたしは高校生になった。当然、昔、自己満足で作ったお守り(?)のことなど記憶の彼方に消えていた。が、ある日、母から、これを覚えているかと、ホッチキスでグチャグチャになった紙きれを見せられた。父は「これを持っていると事故に遭わない」とか言って、その「自称お守り」をずっと財布に入れ続けているという。父の性格からして、単に財布に入れっ放しだったということも考えられるが、それを差し引いても、高校生のわたしに何やらじわ~っと感じ入るところがあった。しかし、父には自分が少々感激してしまったことはもちろん、お守り(?)の存在を知ったこと
すら言わなかった。父と会話が出来なかったわけではない。ただただ、思いも寄らなかっただけである。
 更にまた時は過ぎ、父は他界した。最後の財布の中には、お守りもどきは無くなっていた。結局、父とはお守りがどうこう、という話はしないままだった。でも、それで良かったとも思う。お守り袋の中身同様、たいせつなものは、その存在の手触りを時々確認できるくらいで良いと思う。
 
トリニティーライン賞スキンケアベーシックセット
続いていく親子の約束ミミたん
母はお腹が出ている、
しかし、姿勢は良い。
その母がバイクに乗るところを見て
幼いころ同級生が、
「おまえのかあちゃん直角にスクーターに乗ってる!」と
揶揄してくれたものだ。

そのスクーターの前後にいつもたくさんのスーパーのビニール袋を乗せて
母は仕事から家に帰ってきていた。

ブロロォンとスクーターの音がしたら、
妹と二人で玄関に走り出て待っていた。

「お帰りなさい!なんかいいものある?」
と、そのビニール袋をガサガサと開けて「いいもの探し」
をするのが私達の楽しみだった。

三連のヨーグルトやりんごが出てくると、とても嬉しかった。

「ご飯の前には食べちゃダメよ」
そう言いながらも喜ぶ私達を見る母は笑顔だった。

ある日いつもの時間に母が帰ってこない、
夕日がとても綺麗な日だった。
携帯電話など無い時代
沈んでいく夕日とともに私達の心も騒ぎ出した
「お母さん、スクーターで転んじゃったんだろうか?」
「もしかして帰ってこなかったらどうしよう」
二人でべそをかき始めたころ、
母はいつもよりたくさんの袋をバイクに乗せて帰ってきた。
私達の「いいもの」を探していて遅くなったのだろう。

母のおなかに抱きついて
「どうしてこんなに遅いのよ、いなくなっちゃうのかと思った!」
そう言ってワンワン泣いた。

「いなくなったりしないわ、大丈夫よ」と抱きしめてくれた。
「絶対いなくならないで!」
「あなたたちが大きくなるまで必ず側に居るよ」
「大きくなってもダメ!」
泣きながら何度も指切りをさせた。
小指だけじゃ心もとなくて薬指も中指も人差し指も親指も使って。

あの時いつもの時間に帰ってこないことをきっかけに
いつか母が死んでしまっていなくなってしまうと
子供心にそのことに気づいてしまった。
だから怖くて仕方なくなった。
でも、母の柔らかなお腹の感触と体温が
その日が来るのはずっとずっと先のことだと
安心させてくれた。

今、その母もおばあちゃんになりスクーターには乗らなくなったものの、
あの頃のようにたくさんの食べ物やおもちゃを両脇にたくさん抱えて孫に会いに来る。

2歳の娘は
「オイシいっぱい!」と大喜びする。
11ヶ月の息子は
何だか分からないけど周りが喜んでいるので喜んでいる。

母はあの時と変わらない嬉しそうな顔で孫を見ている。

私達が新しく暖かな居場所を見つけられる大人になるまで
側にいてくれたお母さん、ありがとう。

私の子供が同じ不安に泣くことがあったら、
同じように大きくなるまで必ず側に居るねと言おう。
そして力いっぱい抱きしめてあげよう。
でも、似たようなお腹になるのは気をつけたいところなのです。
 
エプソン賞プリンタ カラリオ ミー E-520
親父が買ってくれた鍬(くわ)藤井 正男
 半世紀前、高校二年の二学期早々に、学習意欲喪失、成績不振から登校拒否を起こした。朝、「行ってきます」と出て、図書館で一日を過ごし、夕方帰った。不登校四日目、自分なりに考え抜いて退学を決意した。その夜、兄弟が寝静まるのを待ち、親父に言った。困惑した表情をわずかに見せた親父は多くは語らず、強く叱ることもしなかったが、こう言った。「いいだろう。ただし、もう一ヶ月だけ学校に行け。そして、学校生活に全力で取り組んでみろ。それでも決意が変わらなければ、退学して家の仕事を手伝うがいい。自分には七人の子どもに分けるほどの財産はない。ただお前たちが勉強したいんなら、どんなことをしてでも大学に行かせてやろう。それが、おまえたちに残すことができる財産だ」
 一ヵ月後、あの決意をすっかり忘れて、学校生活にのめり込んでいる自分がいた。この言葉は、働きながら夜学に通い、二十六歳で会社を立ち上げ、叩き上げの商売人だった親父が自分に残した遺産だ。
 西郷隆盛に、「児孫のために美田を買はず」という遺訓がある。「財産を残すと、子孫の精神が安逸に流れやすいからそのようなことはしない」という戒めである。
 親父は、「児孫のために美田を買えず」であったのだろうが、鍬だけは買ってやるから、後は自分の力で荒地を切り開き、田畑を耕せと教えてくれたのであろう。その鍬のおかげで、自分は今日までともかくも生きてこられたような気がする。そして、自分もまた、相変わらず美田を買えないままに、使い古したその鍬を二人の坊主に譲り渡した。今彼らがその鍬で汗を掻きながら田畑を耕している。
 
毎日新聞社賞風呂敷 「もったいない風呂敷」
ベストフレンド!斉藤 潤子
 大学生になった娘が ある日突然私の古いコートが欲しいと言ってきた。“まだだめ。お母さんが着るから。”と言うと“死んだら頂戴ネ”とかわいげの無いことを言い出す。“まあその内に差し上げまーす”と改まった口調で娘の襲撃をかわした。
 “お母さん今年も元気にこうやって桜が見られたことうれしいとおもう?”と腕を組んで歩いていた娘が前を向いたままわたしに尋ねた。毎年恒例になっている近くの公園での夜桜見物。“そうね、お母さんの人生で残されたお花見の回数は75歳の寿命としてあと25回位かな、そう思うと寂しい気もするけれどまあ貴方には分からないだろうな”と言うと“そりゃ分らないよ。”と娘は笑った。
 連日夜遅く帰宅する娘に“いい加減にしなさい”と叱ると“自分の尺度だけであれこれわたしに指図するのはもうやめてよ!”と言い返してきた。そして“もう社会人なのだから自分でキチンと考え行動してます”と言われてしまった。わたしは“分かったわ”と言うだけであとは黙った。
 癌検診でひっかかってしまった。再検査の結果を聞きにいく朝、先に職場に出掛けた娘は玄関のドアにyou'll be all right!の貼り紙をして行った。グリーンの鮮やかな蛍光ペンで書かれたメッセージ、思いがけない娘の優しい心遣いとカッコ良さにthank you!と言って家を出た。あなたは本当にいい娘だね。
 “来年結婚しようかな。”仕事が忙しくてイライラしている最近の娘の口癖。“もう少しお金溜まってからにすれば?”と言うと“お母さん達だって貧乏生活からスタートしたんでしょ。お母さんよりもっと幸せになる自信はあるから大丈夫。”と真面目な顔で説得されてしまった。“分かったわ”しか返せなかった。
 娘現在25歳。随分厳しく育ててきたと反省もしている。最後に頬をぶったのが中学3年生の時で 息子に比べると3年も延長した事になる。最近はすっかり素直になり親子喧嘩をする事も無くなってしまった。親が我が子を自分の理想に向かって必至に育てることが良いのか悪いのか分からない。でもどう頑張ったって20数年間もの間ずっと順風満帆なんて有り得ないと思う。ただ最近の二人の関係はベストだと感じている。娘の言うことに“分かったわ”とすんなり言えるのも その証拠かもしれない。娘とわたし 親子関係を卒業した親子と言ったところだろうか。そして一緒にいて妙に心地良いのは私だけだろうか、、、、。
 
毎日新聞社賞風呂敷 「もったいない風呂敷」
手紙橋本 望
母から手紙が届いた。

久しぶりの母の手紙。
なんでもない時に届いた、母の手紙。


山の蒼蒼とした様子やばあちゃんの具合、
あいかわらずばたばた忙しいって事、

我が家の近況が頭の中に浮かんでくる。



のぞみが笑顔で毎日を過ごせますように。

母の手紙の締めは、いつもこんな感じ。


専門学校で初めて大阪に来たときから、
母がくれた手紙は一通も捨てずに大事にしまってある。

ちっちゃいバケツくらいある、赤いスヌーピーの入れ物は
母の手紙でもうパンパンだ。



母の手紙は、
いつもおんなじ。笑顔、楽しく、のぞみらしく。


もう6年近く、同じ事を願ってくれているんだと、
昔の手紙を読み返して思った。



そして、手紙からポロンと一万円。
両手で拝んでしまった・・・


母がくれる手紙は、
便箋2枚なのに、やたらと重たくって、
紙なのにやたらとあったかい。



ありがとうとごめんね、
手紙を読み終えていつも思う気持ちと一緒に


パンパンの手紙入れに、また一通封筒を押し込んだ。
 
毎日新聞社賞風呂敷 「もったいない風呂敷」
ミイラ取りが…北條 弥生
夕飯が出来た。
子供達が大好きなビーフシチュー
リビングには1、2、3…。
あれ?一人足りない?(笑)
さては、子供部屋で勉強か?漫画か?(大抵は後者)
次男に頼む
「お兄ちゃんにご飯できたよって呼んで来て」
「は~い!がって~ん!」
(がってんは余計だって…)
………10分後…来ない。
子供部屋からダイニングまで10分かかるほどの大豪邸じゃないよなぁ(汗)
仕方ない次の手!
次女に言う
「お兄ちゃん達、呼んで来て」
「了解でござる」(だから普通に「はい」でいいって…)
……5分後…来ない。子供部屋から笑い声。
おーい!ごはん冷めちゃうよ(怒)
見かねて長女が立ち上がる!
お~!さすが長女!頼みますよ(笑)
「ご飯できてるって言ってんじゃん!」
さすが長女の貫禄(笑)
……が、しかし、一緒に笑ってる声がする…

どういうこと?ママのシチューより
魅力的なものっていったい何者?(笑)

結局、最初から私が行けば良かったのか…と
思いつつ、子供部屋に向かう。
子供たち4人が笑うものの正体は
さしずめゲームあたりだろうと思って
子供部屋を覗くと……。
…アルバム?…そうだ。アルバムだ。
しかも私が若い頃の写真が貼ってある赤表紙のアルバム。

「ねね!これ、ママだよね?」
「どれどれ?あ~そうそう!22才のときかな」
「何で前髪がニワトリのトサカみたいなの?」
「これね、当時流行っていたの」
「へぇ~変なの。。」(たしかに…笑)

子供達と一緒になってアルバム見て笑っていたら
すっかり私の方が、夕飯を忘れてた。。

「ママ、お腹すいた」次女の一言で
ハッとして、、大笑い。。

ミイラ取りが、全員ミイラになった。
我が家の、ある日の出来事(笑)
 
「親馬鹿力」賞新刊 「親馬鹿力」
父の涙山市 旬
「笑顔が素敵な子になったね」
 お婆ちゃんは少しどもりながら、僕にそう声をかけた。
 祖母が最初に倒れたのが去年の暮れで、それから二月とたたないうちに二度目、病名は脳梗塞だった。医者からは二度目はないといわれていたが、それでも両親と見舞いに行った僕に向けて、祖母はやつれた顔で微笑んでくれた。
 倒れたのは父方の祖母で、つまり僕の親父の母親になるわけだが、当の親父は少しだけ病室に顔を出すと、すぐにまた廊下に置いてあるソファーに戻ってしまう。母親は少し呆れていたが、僕には親父の気持ちが良くわかった。僕もそう、本当はここには来たくなかったのだ。
 祖母は大変元気な人で、脳梗塞で倒れるまでは毎日畑仕事に精を出していた。お正月などに顔を出しに行くと、こっちが困ってしまうくらいの笑顔を向けてくれる。僕の中で、祖母はずっとそういう人だった。だからこそ、僕は嫌だった。やせ細り、言葉を詰まらせ、家族の名前も思い出せない、そんな祖母を見るのがなんだか申し訳なかった。それではまるで病人じゃないか。祖母は病人であってほしくなかったのだ。
 廊下のソファーに座っていた親父は僕に手招きすると、病院内の中庭へと歩いていった。親父は何も言わなかったが、それは僕が親父の気持ちが分かるように、親父も僕の気持ちを察してのことだったかもしれない。あるいは、自分の母親のそんな姿を僕に見せたくはなかったからだろうか。中庭にでた親父と僕は、ただ黙って同じベンチに腰掛けていた。とても暑い日で、僕らがその暑さに耐えられなくなるまで僕らはそこにいた。そして親父は腰を上げると、またさっきと同じ場所に戻っていった。
 病室に戻った僕は、相変わらず居心地の悪さを感じていた。それを隠すために僕はずっと微笑んでいようと決めた。祖母になにも出来ない僕は、それくらいしかできなかった。祖母はそんな僕を見ていてくれたのだろう、帰りがけに一言だけ「笑顔が素敵な子になったね」そう僕に言って笑った。僕はただただ申し訳なくて、やはり微笑むことしかできなかった。
 祖母が亡くなった日、父が夜中泣いていた。いつも寡黙で何も動じないかのように見えた父が、大声で泣いていた。それを僕は部屋で聞きながら人が死ぬということの意味を知り、そして家族というものを思った。
 僕の母が父が、家族が死んだとき、親父に似た僕もまた夜中大声で泣くのだろうか。