親子の日 エッセイコンテスト2007 入賞作品

オリンパス賞
・μ770SW
・olio Photo Coupon
レックスマーク賞
・ワイヤレスプリンタ X9350
・ワイヤレスプリンタ Z1420
トリニティーライン賞
・スキンケアベーシックセット
 
オリンパス賞 μ770SW
青い日記帳 田中 真子
 昨年の末、入院中の母に、一冊の日記帳をプレゼントした。この日記帳のページをすべて埋めて欲しいという願いを込めて。でも、その願いは叶わなかった。母の日記帳は二月二十六日で終わっている。母が亡くなったのは、その六日後のことだった。
 私は幼い頃から母と二人で暮らしてきた。母が五回目の入院をしたのは、おととしの六月のことだった。
『明日から真子ちゃん、お仕事スタートです。風邪を引かぬように』
『真子ちゃんありがとう!! 又一日楽しい思い出をありがとう』
 母の日記には、退院がしたいとか、ここが痛いとか、どこが苦しいとか、そんなことは一言も書かれていない。私へのありがとうと、私への心配で溢れている。自分の体のことよりも、風邪なんか引いてもどうせすぐに治ってしまう健康な私への心配と、ただ病院に毎日会いに行っていただけで、痛みを代わってあげられた訳でも、病気を治してあげられた訳でもない私へのありがとうで溢れている。
 親はどうしてこんなにも子供を愛してくれるんだろう。子供は親に心配をかけて、ワガママを言って困らせるのに、それなのに他の誰よりも、私を一番愛してくれる。
 母がくれた沢山の愛を、もっと母に返したかった。母が言ってくれた「ありがとう」の回数に見合うだけのことを母にしたかった。
 母が亡くなって四カ月が経った。痛み、代わってあげられなくてごめん。産んでくれて、育ててくれて、愛してくれてありがとう。きっと何年経っても変わらない「ごめんね」と「ありがとう」と「大好き」を胸に、私は今日も生きていく。母がくれたこの体で。母がくれたこの命で──。
 
オリンパス賞 olio Photo Coupon
仰げば懐かし・・・ 凹田連三
 戦後生まれの、団塊の世代の一員である私を筆頭に、男ばかりの四人兄弟と両親が暮らす平屋建ての家。
 しかし、酒好きな大工職人である父親と、二つ年上で勝気な性格の母親との間に、夫婦喧嘩は絶えず、我ら兄弟は、夫婦喧嘩の中で育てられたようなもの。従って、父親というものに対して、特に親しみは感じていなかったと記憶している。
 そんな父親だが、毎年、台風の季節になると思い出すことがある。
 それは、私が小学校六年生の夏休みのことだった。
 大型の台風七号が関東地方に上陸。我らが山梨もその渦中に巻き込まれた。家がつぶれるかも知れないという恐れから、母親と我ら兄弟は、隣家に緊急避難して一夜を明かすことに。だが、あの嵐の最中、我らの心配をよそに、父親だけは我家に止まり、釘とカナヅチと板を手にして、必死に台風と戦っていたのだった。
 一夜明けて台風一過。関東一を誇る甲斐善光寺の本堂は西に大きく傾き、山門は崩れ落ちてガレキの山と化していた。
 山門のすぐ脇にある我家は、本堂と同様に西に傾きはしたものの、倒壊は免れていた。しかし土壁ははがれ落ち、畳は水浸し、家の中から青空が見える有り様だった。
 その後、父親の手によって傾きが直され、壁や屋根の修理がなされたが、そのとき程、父親の逞しさ、頼もしさを感じたことはなかった。
 あれから四十九年が経過。今や老いて病床に伏す父親に、若かりし頃の面影はない。
 昨年春、一足先に母が他界して以来、めっきりと、気力体力共に衰えてしまった老いた父。毎日病院を訪れては、励ましの言葉をかけるのだが、返事は首を振って応えるのみ。
(もうちょっと長生きしようよ!!)
 心の中で呟く私であった。
 
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娘と叔母 岩尾 邦彦
 妻が旅行先で転び、左足を捻挫した。翌日から私は会社を休み、妻の車椅子を押して通院することになった。このことは、世田谷にいる娘には内緒にすることにしていたが、母の日に娘から外食の誘いがあった。そこですべてバレてしまった。
 翌朝、娘が子猫を連れてやってきた。私は玄関で迎えたが、一瞬別人かと思った。二十年近く外国におり、ごく最近帰国していた。電話でのやりとりはしていたが、久しぶりに見る娘であった。
「元気だったか。」私がそう言うと、「元気だわ。それよりも、ママはどう。」と、無遠慮に上がり込んできた。妻は何度か外遊し、娘とよく会っていた。
娘は、叔母の若い頃に似ていた。色白のふっくらとした顔で愛嬌がよく、子供の私とよく話し合う機会があった。姉のような感覚を起こさせた。
 早速介護する娘の顔を、私は何度も横目で見ていた。
「パパ、早く濡れタオル持ってきて。それから、お昼が近いから、何か買ってきてよ。」
 私は急に、召使になった。少々腹が立ったが、老いては子に従え、と考えてみれば理解できた。娘には、生活力がみなぎっていた。
 簡単な昼食後、テレビを見ていたが、娘が先程から私を注視していることに気付いた。
「ねえパパ、白髪が殖えたわね。横の方、耳の上のあたり、真っ白よ。」
 なんだ、そんなことかと思った。そして娘を見て、娘もおばさんになっていた。
「今夜、外食しない。」
 子猫を抱いた娘が、晴れやかな顔をした。私は子供のように、手を挙げて賛成した。
「パパ、ズボンぐらい、取り替えなさいよ。」
 妻はブラシで、髪をとかしている。その妻の後ろに、叔母が立っていた。
 
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誕生日おめでとう 石田 亘
 お母さん、元気で迎えた九十五歳の誕生日、おめでとうございます。先日、小学3年生になった孫、康祐の文化祭を参観に行きましたが、康祐の発表した「僕の夢」は何と、「曾おばあちゃん、が百歳になったら、誕生祝いに、大きなケーキを贈ること」、でした。
「僕の曾おばあちゃん、は、耳が悪いけど僕にとって、大切な人です、大好きな、お爺ちゃんや、僕が生まれたのも、曾おばあちゃん、のお陰だから、恩返しに、小遣いを貯めて、百歳の誕生日に、百本のローソクを立てた、大きなケーキを贈って喜ばしてあげたい」、との真剣な説明に大きな拍手が会場から起きました。
 考えてみると、確かに康祐の言うように、お母さんは私を含む五人の子供と、十三人の孫、そして、二十七人の曾孫にとって大切な人だと思います、何故ならもし、お母さんが生まれていなければ、誰もこの世に生まれなかったからです。
 核家族化により、親族を敬う気持ちが希薄になりがちですが、文化祭を通じ、改めて幼い孫にその大切さを教えられた気持ちでした。
 五年後の誕生日、その時は、康祐は中学生になります。
 どうかお母さんも、身体を大切にして、康祐の楽しい夢を叶えさしてください。
 
レックスマーク賞 ワイヤレスプリンタ X9350
おしり みゃーらん
 「今日から学校のプールが始まる!」いってきます、の声を玄関に残したまま娘は走り去った。重いランドセルを背負いながらも踊るように出かけよほどプールを楽しみにしていたのだろう。
しかし帰って来たときのただいまは蚊の鳴くような声だった。
どうしたのか聞くと、どうやら着替えの時、両方のおしりの中央にあるえくぼのようなくぼみを友達に笑われたらしい。
親子の遺伝子は変なところまで類似を作る。
何を隠そう、私のおしりにもそのえくぼがある。
私自身はそのえくぼを気にしたこともなかったのだが、娘は今にも泣き出しそうな様子だった。
「おしりにえくぼがあるなんて笑っているみたいでかわいいじゃない。」「ママとおそろいよ」などなだめすかしてようやく少しごまかしたが、「他は全部ママと同じがいい。だけどおしりだけはいや!」と強情だ。その話は娘は納得しないままだったが、少したつと、私のほうはすっかり忘れてしまった。
 そのまま夏休みに入り、祖父母のいる実家に泊まりに行った。あの厳格な父親が孫の顔を見ると顔中をしわくちゃにして喜ぶ。娘は「おじいちゃんとお風呂に入る」、と肌かんぼうで風呂場へ駆け出した。しばらくすると、風呂場から二人の大きな笑い声が聞こえてきた。
のぞいてみると、二人は泡だらけで互いのおしりを見比べている。
「ママ、おじいちゃんにもあった、あった!」
なんと、生まれて初めて見た父親のおしりにえくぼが二つ行儀よくならんでいるではないか。娘は「おじいちゃんとママとわたしが繋がってる証拠なんだね。」なんて嬉しそうに父の尻のえくぼを触っていた。娘の発見で三人で大笑いするとともに、私は確かにこの年老いた父の娘だったんだと、なんだか少しほろりとしてしまった。
 
レックスマーク賞 ワイヤレスプリンタ Z1420
救いの手 宮本裕志
 「あー、肺に穴があいてますね」と、初老の医師は僕に告げた。
いやいやいや、そんなあっけらかんと言われても。と、通常ならツッコミを入れたい場面だ。
初めての激痛に耐えながら自分の肺に穴なんてあいていないと信じたい気持ちとは裏腹に、足も手も震えていた。
「故郷のご両親にも連絡を」
すべてが初体験だった。
故郷を離れ、大学に入学して二ヶ月。早くも緊急事態だった。
数時間後、両親がかけつけてくれた。
僕は泣いた。初めての手術が決まり、数本の管が体に刺さり、不安が脳に刺さった状態だったから。
「病気なんだから、しょうがないだろう。頑張れ。大丈夫、手術すればすぐに治る」と、父親は何度も頷いた。まるで自分にも大丈夫だと暗示をかけているかのように。
手術が終わり、両親は仕事があるので故郷へ戻っていった。散々、これでもかというほど励ましの言葉を浴びせられた。
「もう大丈夫だから。早く帰りなよ」そんな強気な言葉を僕は最後に投げた。
本当はまだまだ不安だらけで。誰でもいいから早く助けてくれ。と願っていた。
何とか退院となり、一人でアパートまで帰った。
久し振りのワンルームの部屋はひっそりとしていた。
「あれ」
一歩、中へ踏みこんで、僕は思わず声を漏らした。
入院前とはテレビの大きさが違っていた。
残されていた一枚のメモには、「退院おめでとう。目が悪くならないようにテレビを買っておきました。古いテレビは持って帰りますね。母より」
心臓に穴があきそうなくらい嬉しくて、感謝をした。僕は医者に救われたのでなく、両親に救われたのだと思った。
 
レックスマーク賞 ワイヤレスプリンタ Z1420
母の背中 星野惠美
 「お母さんみたいになりたくない」
小さい頃から、漠然とそう思っていた。
無口で、格好なんて全然気にしなくて、不器用な母。
母のことを、なんとなく苦手に感じていた。
家で自営業を営む父のかわりに、外へ働きに出ていたからかもしれない。
同じ家の中にいるのに、あまりにも関わりが少なくて、まるで他人のようだった。

大学入学とともに、私は家を出た。
実家に帰省することは殆ど無くなり、たまに帰っても一日中寝るか、テレビを見るか
だった。
 帰りの遅い母と会話をする機会も、必然的に減っていった。
「疲れたなぁ」「最近頭が痛いの」たまに顔を合わせると、愚痴や弱音を呟く母。
「薬でも飲んどけば」と、ついつい素っ気無く返事をしてしまう私。
こんな調子だから、私達の関係は深まることは無く、平行線のように、交わることも
ない。
21年という時をともにしてきた筈なのに、母の生きてきた軌跡についてちっとも知
らないことに気付いて、なんだかぞっとした。

そんな私も就職活動を迎えて、色々と将来のことを考えるようになった。
会社を選ぶ際に、無意識に気にしていたのが『出産後も働ける環境か』ということ
だった。
「ああ、私はやっぱりお母さんの子なんだ。」
ずっと母の背中を見てきた私には、そういう働き方以外思い浮かばなかったのだ。
実際に自分が育児と仕事の両立をすることを考えると、その負担の大きさが身にしみ
た。
母は、毎日そういう生活を送っていたのだ。
この間、久しぶりに家族で銭湯に行くことになった。
何年ぶりだろうか。母と久しぶりに一緒にお風呂に入った。
二人とも、手足は痩せているのにお腹だけぽっこりと出ている体型で、
「遺伝なんだね」と笑いあった。久しぶりに、母と一緒に笑った。

これから私は母と同じような道を歩いていくことになるだろう。
大人になって、母がどれだけ偉大な存在だったかわかるようになってきた。
「わたしは、お母さんのようになりたい。」
今では、強くそう思う。
 
レックスマーク賞 ワイヤレスプリンタ Z1420
お墓参り 窪田和夫
 娘は十九歳のとき、私との激しい口げんかがもとで家出をしてしまいました。神奈川の親友の家に厄介になりながら仕事を見つけ、二十六歳の現在まで真面目に暮らしてきたようです。以後、娘とは七年間で三度しか会っていません。その一人娘の優子が今秋結婚することになったのです。
「おやっ、優子か?」
 先日、庭に娘の姿を見かけました。いつ帰ってきたのかと思いながら二階の窓から眺めていると、庭の隅に置いてある十センチほどの石の前にしゃがみこみ、花と小袋に入ったスナック菓子を供えているではありませんか。
まるで小さなお墓のように。

「お義父さん、お邪魔しています」
 振り向くと、婚約者の利文君が立っていました。娘と一緒に来ていたのです。
「優子さん、あのお墓のことを話してくれたことがあります。四、五歳の頃、死んだペットを自分で埋葬したそうですね。もっとも小さい頃だから、ハムスターなのか金魚なのか、どんな動物だったかも覚えていないらしくて。とにかく埋めたという記憶だけが残っているから、毎年お墓参りを続けていると言っていました。僕はそんなやさしい優子さんが大好きなんです」
「----私の知らないうちに、こっそり帰ってきていたのか」
利文君の話を聞いて、なにかグッとくるものがありました。

 すると妻が近寄ってきて、こう言ったのです。
「ううん、あれね、ペットじゃないのよ。あの子、おもらししたパンツを埋めて隠したの。私、この窓からずーっと見ていたんだから」

三人は、涙が出るほど大笑いしました。
娘は私たちに見られていることも知らず、パンツのお墓に向かって十字を切っています。
私はこの話を披露宴で話そうか、迷っているのです。
 
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涙のミルク 清水俊明
 まだ新米パパママだった私たちが、抱っこすれば筋肉痛、泣く度にあたふた、オムツ替えの時、緑色のうんこがウニョウニョと出てきただけで大騒ぎしていた頃の話----。
 長男が生まれて一週間が経ち、退院の日となった。一応、入院中に、ミルクの飲ませ方、入浴方法等、基本的事項は伝授されていたが、こんなに小さくてか弱い存在を、果たして自分たちだけで育てていけるのか、私は心中穏やかではないどころか嵐が吹き荒れていた。
 家に帰って、我が家で初めてのミルクの時間となった。妻がおっぱいを飲ませた後、哺乳瓶でミルクを飲ませるのが私の役目だ。吸い口を息子の口に当てると、息子は吸い口にかぶりつき、勢いよく飲み出した。小さいながらも、一生懸命ミルクを飲む姿に、思わず目頭が熱くなる。ましてや、自分のおっぱいを飲ませる母親にしてみれば、何よりも愛しい存在に思えるだろう。
 ほっとしたのも束の間、息子は飲まなければいけない量の半分で飲むのをやめた。鼻と口の間を、吸い口の先でちょんちょんと刺激しても何の反応も示さない。病院では、これぐらいの量を楽勝で飲んでいたのに----。
 私は何度も呼びかけ、体を揺すったりしてみたが、やはり息子は無反応である。私の体中から、変な汗が噴き出してきた。
 妻が慌てて駆け寄り、息子を抱えあげ何度も呼びかける。二人して、大声で何度も呼びかけた。もう涙が出てきそうだ。
 私は動転している頭の中で、病院でのやり方と何か違った点がなかったか必死に考えた。
 いや、何も違ったところはない。完璧だ。
 私は、息子の鼻先に耳を当ててみた。
 スースー。
 息子の気持ちよさそうな寝息。おなかがいっぱいになり息子はただ寝ていただけだった。
 それはまだ、私たちが新米パパママだった頃の話。
 
レックスマーク賞 ワイヤレスプリンタ Z1420
おびえるほどです 吉村金一
 大好きな母さん。僕が大学受験で上京する時、三十センチ四方もある巨大な弁当を持たせてくれました。それは弁当の百科事典のような華やかさでした。
 僕は巨大な弁当に注がれる周囲の客の視線を気にしながら、フタを少しだけ持ち上げ箸を突っ込み、わずか三口か四口食べただけで網棚に仕舞い込んだのでした。恥ずかしさのあまり東京駅で風呂敷ごと捨ててしまった僕は、今になって、あの巨大な弁当に込められた母さんの計り知れない大きな愛を感じています。

父さんが始めた商売がなかなか軌道に乗らず、どんな辛い苦しい思いをしたか、当時の僕には想像もつきませんでした。
 生意気盛りの反抗期の僕は、母さんが風呂の燃料用にと魚屋からもらった古い魚箱をリヤカーで運ぶこともせず、斧で割ることもしませんでした。滞納した授業料を催促する僕に、どんな思いで「もう少し待ちなさい」と言ったことでしょう。
 千円の通学定期も満足に買えなかった貧乏の中で、独立する、新聞奨学生となって大学に行くと宣言した僕を、金銭的援助の出来なかった母さんは、どんな思いで駅のホームから見送ったことでしょう。
 僕が上京してから服やお菓子を送ってくれた時、一緒に入れてあった五千円札が思い出されます。毎回判で押したような母さんの生活上の注意の手紙が思い出されます。
 母さんの愛を僕はずいぶん裏切りました。でも、それでもなお、母さんは僕を愛し続けてくれました。その愛情の深さに、僕はおびえるほどです。
 
 そして三人の子供の父親となった四十九歳の息子が今、泣きながら、鼻をかみながら、この手紙を書いていることで、親不孝の何分の一かでも許して欲しいと思っているのです。
 
トリニティーライン賞 スキンケアベーシックセット
にんぎょひめ 裕美
むかし、最愛の妻を若くして失くし絶望のどん底にいた男がいました。
悲しみのあまり、夜は眠れない、食事は喉を通らない日々でした。
ただ幸い、その男には1人の小さな娘がいて、その娘が『お話読んで』といつも同じ絵本を
持ってきてはせがみました。
『にんぎょひめ』のお話が大好きで1日に何度も何度も持ってきました。
男は毎日何をするにも億劫でしたが、ある日同じように絵本を読んでいて気がつきました。
声を出して娘に絵本を読んでいる時だけは、死んだ妻のことが頭になかったのです。
そして、男は少しずつ元に戻っていきました。
それから数十年という月日が経ち、男は老人となり、思い出も、娘や自分の名前さえも頭からポロポロとこぼれ出ていかないように毎日必死に生きるようになりました。
お父さん、
もう絵本はないけれど、今もまだ、『にんぎょひめ』のお話は覚えていますか?
そして、また昔のように私に読んでくれますか?
お父さん、もし思い出せなかったら今度は私が読む番です。
何度でも何度でも私の読むのを聞いてくださいね。
そして読み続けている間は生きていてくださいね。
もし約束破ったら、来世まで絵本を持ってお父さんを追いかけますよ。
でも本当にしんどくなったら、又いつかどこかで会いましょう。
その時の目印は、『にんぎょひめ』で。
 
トリニティーライン賞 スキンケアベーシックセット
 新庄すが江
 都会の真ん中で子育てするカルガモ一家が最初に話題になったちょうどその頃、我が家は子育ての真っただ中にあった。
 当時、長女は幼稚園の年長組。しかし、僅か五歳という若さで、すでに彼女の下には、四歳、三歳、一歳の妹達と生後間もない弟、合計四人がいた。
 ところが五人の幼い子がいながら、母親である私は車の免許を持っていなかったので、当然、長女の登園には下の四人の妹弟たちも引き連れて行かなければならなかった。
 そこで毎朝、私は長男を背負い、四女と三女をベビーカーに乗せると、長女と二女をベビーカの両側に立たせ、しっかりと手押しの棒を握らせ、それからゆっくりとベビーカーを押し幼稚園に向かった。
 大人の足なら十分もかからぬ距離であったが、この状態での歩行である。優に二~三十分は掛かっていたように思う。
 母親を中心に、幼子達がヨチヨチ、テクテク。その光景はまさにニュースで放映されていたカルガモ一家のお散歩風景さながら。
 少子化が進む近年、このスタイルで街並みを歩いていれば、人目につかぬはずがない。行き交う人々からよく声を掛けられた。その中で、特に多かったのが、
「えっ?! この子たち、みんなあなたのお子さん?」
「あら、たいへんね」
「お母さん、よく頑張ったわね」
という驚きの声。
それでも別れ際に、
「今は、たいへんだけど、将来は楽しみよ」
「皆、きっと親孝行してくれますよ」
「子どもは宝。子育て頑張ってね」
と笑顔とともに励ましのエールを沢山戴いた。
正直、自分の時間も無い程忙しく育児に明け暮れていた時は、一日も早くこの子ども達から解放されたいと願うこともあった。
しかしあれから十数年の月日が流れ、子ども達も親の手を必要としなくなった今、その当時を振り返るとなぜか妙に懐かしく感じられる。
思えば、子ども達に囲まれて過ごす日々、それは何と贅沢で幸せな時間(とき)であったか──。後になって悟るその恵み----。その価値の大きさ----。
さて、子育てもいよいよ終盤戦。これからは、未来に向かって羽ばたいていく五人の子ども達の後ろ姿を見守りながら生きていく人生となるのだろう。
それでも私は、あの頃の子ども達との絆が今も、またこれからもずっとずっと変わることなく結ばれていくことを心から祈っている。
 
トリニティーライン賞 スキンケアベーシックセット
十二歳のお父さん? 奥田優希
 私が小学六年生。父と緑地に遊びに行った時のことです。
 その緑地は、人通りも少なく大きな池などもあり、子供達だけで行くことは、地元の学校で禁止されていました。PTAの役員さんが、定期的に見回りをされていたようです。
 父と二人でバトミントンをしていたその時です。
「子供達だけで、ここに来てはダメでしょう」
と少し離れたところから女性の大きな声が聞こえてきました。
事情が飲み込めず“ポカン”としていた私達(特に父)。
「あれだけ何度も注意しているのに! 何年生かな? 担任の先生は?」
 と、三~四人のおばさんが近づいてこられました。顔がはっきりと識別できる所まで来られたその時、
「あっ!子供じゃない。お父さんだ」
「すみません。失礼しました」
 四十二歳でありながら小学生に間違えられた父は、恥ずかしさを押し隠し、憮然としてそこに立ち尽くしていました。
 笑い転げていた私。でも実はね、お父さん。本当は、とても嬉しかったのですよ。だってそんなに若く見えてかっこいい父だ、とみんなが認めてくれたことになるのだから。
 今度は一緒に、十七歳になった私と腕でも組んで歩きましょうよ。必ず恋人どうしに間違ってもらえますよ。ねぇ、お父さん。