大賞
私の両親は鹿児島出身で、父は絵に描いたような昔気質の薩摩隼人だ。良い意味でも悪い意味でも男尊女卑。親は子供に対して絶対的な存在で、手をつないでくれるくらいのことはあっても、親子でべたべた甘えたり甘やかしたりといったことはまったくなかった。いつもどこかに親と子の「線引き」のような感覚があって、子供の頃はそれがたまらなく寂しいときがあった。
私が3歳のある日、近所に女の子が越してきた。歳が同じだったため、すぐにお友達になったのだが、なんとその子は両親のことを「パパ、ママ」と呼んでいたのだ。そんな呼び方はお人形遊びの時くらいしか知らなかった私は、本当に驚いた。と同時に、そう呼んでいるその子とご両親がとても仲よさそうに見えたのだった。
その夜私は、帰宅した父に勇気を振り絞って「お帰りなさい・・・パパ!」と言ってみた。するととたんに父の顔が険しくなり耳がじんじんするほどの大声で怒鳴られた——「日本の子供がパパなんて呼ぶな!うちではそんな呼び方は許さん!」
今になって思うと、子供に向かってそこまでむきになって怒らなくても・・・と苦笑してしまうのだが、幼かった私にはトラウマになるほど怖い思い出である。あの日から30数年経ち、私にも娘がうまれた。折々の休みに娘を実家に連れて帰るたびに、面食らうことがある。なんとあの鬼のように怖かった父が、孫娘にはメロメロなのだ。抱っこしたり、頭をなでたり、まさに目の中に入れても痛くないとはこういうことか。
「お喉渇いたら、ママにジュースもらいなさいねー」
なんて娘に話しかけている。思わず「日本の子供がママなんて呼ぶな!じゃなかったの?」と突っ込みを入れたくなるほどだ。
私の甘えたかった気持ち、父の甘やかしたかった気持ちが、孫娘を通してひとつにつながったように思える今日この頃である。
レックスマーク賞
当時の私は、とある都市の大きな企業に勤め、マンションに1人暮らし。もともと田舎ものであるが故、その生活にとてもこだわっていた。ごく稀に母が田舎から私のもとを訪ねることがあった。おいしいものを食べに行こうという私に、母は親子ふたり、のんびり部屋で過ごしたいとわざわざ重たい野菜を抱えてやってきた。ある日、仕事から帰った私は、オートロックのロビーから部屋いる母に「ただいま。あけてー。」インターホン越しに呼びかけた。ところが、母からの返事はなく、代わりに聞こえてきたのは、マンション中に響き渡る非常ベルの音だった。一瞬で私は何が起こったのかを悟った。母が部屋の開錠ボタンと非常ボタンを押し間違えたのである。ベルの鳴り響くロビーで頭を抱える私のもとへ、青ざめた母がやってきた。そのあとの騒動は言わずもがなである。私は恥ずかしさのあまり母をひどく責めた。騒動の後、部屋には母が作った夕飯のにおいが立ち込めていた。田舎から持ってきた野菜の和え物、帰るタイミングにあわせて焼かれたであろう焼き魚、細かく刻まれた葱の浮かんだ味噌汁に、揃えられた二人分の箸。ショックの余り俯いて手をつけない母をよそに、気まずい中、冷めた料理を私は黙って食べた。あれから私は2児の母になり、7〜8年たった今になってあの出来事を頻繁に思い出すようになった。恥ずかしいのは母ではなく、つまらない見栄でかけがえの無い時間を台無しにした自分だった。今さらと思いつつ思い切って母に言った。「お母さん、あの時ごめんね。」意に反し、母はその時の恐怖を、近くにいた義姉と笑い話のネタにしてカラカラ笑っていた。私が責めたことなど忘れているようにみえた。それでも、母を思う時、私は真っ先にあの出来事を思い出す。そして、「大したことないよ。」そう言えなかった自分を悔やみ続けると思う。あの日の冷めてしまった母の手料理の味とともに。
子供は四歳、何にでも興味がある男の子。
快活でいつもお喋りばかりしてる。
しかし、反面よく『ぼー』っとしていることも多い。
親としては心配のタネだ。
ご飯の手を休めては、『ぼー』っと。
着替えをしながら。『ぼー』っと。
テレビを観ながら、『ぼー』っと。
なんで、この子『ぼー』っとしているんだろ?
もっとシャキシャキできないものなの?
このまま大っきくなっちゃうの?
親の心配をよそに、隣ではいつもの『ぼー』っが始まった。
ん?…その『ぼー』っと半開きになっている口から、小さな声で
歌が聞こえてくる。
「ゴマがふってきたぁ〜 おそとはまっくろだぁ」
え?…それって
「ゆきがふってきたぁ〜 おそとはまっしろだぁ」の歌じゃなかった?
暗黒ゴマの世界??
この子の周りでは、今、何かが起こっているんだ!
僕にもあった、突然何かが起こること。
それが起こっている時は、親の言葉なんか耳に入らない。
目の前では、楽しい世界が繰り広げられてる時だから。
僕は、今でも突然何かが起こる。
それを形にするデザインの仕事をしている。
多分、僕の親も僕の『ぼー』っを見守っていてくれたに違いない。
(もしかしたら、諦めていたのかもしれないけど)
ぼくもこの子の『ぼー』っを見守ることにした。
一人前の『ぼー』っになるように。
それは、ある休日の昼ごはん。ちょっと、のんびり、楽しい気分だった。ドリームジャンボ宝くじの話題になって、もし三億円当たったらどうする?と言う話になった。
「車も欲しいし、広いところに越したいね」
「書斎もほしいね!」 「庭付き一戸建て!」
「富士山の見える温泉つきの別荘」
「海に近い所もいいね〜」 「田舎でのんびり暮らそうか」
「いや、都会のセキュリティのしっかりしたマンションだ!」
だんだんと盛り上がり、意見が分かれ収拾がつかなくなって
「だったら、三億円を分けて、みんな好きなように暮らそう!!」と夫
「えーっ!!」 一瞬、みんなの思考が止まる。
すると、息子が、「三億円なんか要らない!!僕は今のままがいい!!」
この一声で我に返る私。
我が家は三億円で分解してしまう。そう、三億円なんていらない!
あれから、七年。息子は17歳。成長してバイトをし、早く一人暮らしがしたいと言っている。
三人の子供達を連れて、盆暮れは実家に遊び
に行く。両親は、孫に会えはしゃぎ、そして
私には決まってこう言う。
「痩せたんじゃないの?ちゃんとご飯食べている?」
どう考えても、結婚前より一回り太ったし、子供達の
ご飯を毎日作っているのは私。
ちゃんと、食べていますとも。
実家にいる間中、そんなに痩せていては大変と、御馳走の嵐。
というよりも、お腹いっぱいと言っても許してもらえず、
どんどんおかわりを催促される。
3食以外にも、あれやこれやと食べ物が。
そして、帰宅の時にはやっぱり、「もっと食べなきゃだめよと」言われる。
どれだけ太ったら、親は安心するのか不思議である。
昭和三十一年四月一日、私は埼玉の北の果てから千葉県の南端の町に就職した。給料は手取り八千円余。下宿代を払うと残り三千円位。本を買うとネクタイや靴下も買えなかった。ワイシャツも一枚しかなくて、自分で洗濯してアイロンもかけた。
その年の暮れに初めて実家へ帰ることにした。この時、靴下に穴が開いているのに気がつかなかった。これを母にみつかってしまった。
三日後に職場に帰ろうとした日の午前、父がどこかへ出かけた。間もなく帰ってきて、或る包みを差し出して「持って帰れ」と言う。私は「はい」と返事をして無造作にボストンに入れようとしたら、母が「開けてみればいいのに」という。開けてみたら財布だった。どんな具合かと思い開いてみたら現金二千円が入っていた。私は「何!これは?」と叫んでしまった。父は「帰りの汽車賃だ。とっておけ」と言った。そして、更に「中のお金は種銭だ。財布を誰かに買ってもらうと、お金が早くたまると言われており、種銭が入っていれば効果は更に高まると言うからな。お前も早くお金に苦労しなくて済む生活ができれば親も嬉しいのに」とも言った。
就職のため任地へ出発するときに「絶対に親を頼るな。自分一人で生きていけ」と言って戸籍を抜いてまで自立を促した父がこの言動である。これを世の人は『親ばか』と言うに違いない。しかし、これが親子の愛情・絆と言うものなのだろう。親ばかと言われるほど有り難い親はいないのじゃないかと思う。
この父もすでに亡いが、約五十年前の二千円の嬉しかったことと親の恩は忘れることができない。生まれ変わることができるならば、再び同じ父の子供になりたいものだ。
リブロン賞
「お兄ちゃん、聞いてよ、お父さんたらねえ、、、」
母が逝ってから父とわたしは二人暮し。父と母と兄とわたしの四人家族のうち、父とわたしの仲はすこぶる悪い。兄が結婚を機に家を出て、母が急逝して、一番仲の悪い二人が残されて暮らすことになってしまった。四人で暮らしていたうちは母や兄が緩衝作用をしてくれて摩擦は避けられていたが、二人きりになってからというもの険悪さは赤裸々になっていった。お互い、物静かな性格だから取っ組み合いや言い争いなどはしない。ひたすら無視しあうばかりの冷戦となる、陰湿なこと、この上ない。どうしても伝達が必要な場合は筆談いや、メモを置くということになる。
「あのさ、お前の言い分もわかるけれど、お前の半分、お父さんなんだよ」
兄がぽつりと電話越しに言った。
「お前がののしっているお父さんはお前の『半分』なんだよ。それにおれの『半分』でもあるんだよ。自分の『半分』をののしって嫌って気持良いか?おれの『半分』は嫌いか?」
わたしの『半分』はお父さん。大好きなお兄ちゃんの『半分』はお父さん。お父さんを厭うことは自分の『半分』を厭うこと。お父さんをぞんざいにすること大好きな兄の『半分』をぞんざいにすること。
「お父さんをもっと優しくしてやれよ。おれのお父さんでもあるんだからさ」。
心のうんと奥で凝り固まっていた何かがすっと溶けた。父に優しく言葉をかけたらわたしの『半分』も優しくされたようで気持良い。わたしの『半分』が喜んでいる。父を大切にすることは自分自身を大切にするにすること、大好きな家族を大切にすること。
親子、この不思議なつながりを大切にしたいと思う。そうして父との暮らしを丁寧に重ねていきたい。
コドモの言葉は、偶然掘り出した宝物。
コドモと親はおんなじ言葉を使っているようで、たまに全く別の言葉を使っている。
コドモの『言い間違い』は、自分が生活している世界とは違う、異次元からの言葉。
コドモの『言い間違い』は、親を想定外の楽しい気分にさせてくれる。
…例えば、こんな感じ。
■今日は待ちに待ってた「いちご湯沢で、どてん風呂」→越後湯沢で、露天風呂。
■ごはんを食べ終わったら、両手を合わせて、「おじぞう様〜」→ごちそうさま〜。
■さあ、夜のカブトムシ捕り! 夜道をてらす「かいじゅうベントウ」→懐中電灯。
■空を飛んでるのは何? イベリコ豚? じゃなくて「ヘリコ豚」→ヘリコプター。
最初から、そうやって覚えちゃってる言葉もあれば、一回限りの言い間違いってのもあるが、とにかく、奇想天外で面白い。「間違ってるまんま、直さないでおこうか」なんて、よからぬ事を考えてしまう事もある。コドモの限られた宇宙(ボキャブラリー)の中で発せられる『たどたどしい言い間違い』は、思いっきり可愛くて、思いっきり楽しい。この楽しさは、いつもコドモと一緒にいて、コドモの成長を手助けしている親だけに与えられる『ご褒美』みたいなもの。いつまでこの『ご褒美』を貰えるか分からないけど、できるだけコドモから離れないように心掛けて、この『ご褒美』を聞き逃さないようにしたい。
私は、小さい頃、よく寝ボケて珍事を繰り返したらしい。らしいというのは、寝ている間は、全く無意識というか、まさしく夢見心地なのである。その頃のことで、なぜか覚えているのは、空を飛ぶ夢を見て、「あっ、不時着だ」と思った瞬間、ベッドから落ちていたり、「火事だ!」と思ったとたん、おねしょをしたり。そんな私であるが、一度も母からイヤな顔をされたことがない。もう一人、家に寝ボケの大御所がいたからである。そう、寝言の王様、父が君臨していたのだ。
父は、新聞記者という仕事がら、夜討ち朝駆けの生活は、いつ帰宅して寝ているのかわからないどころか、夕食など一緒に食べたことがなかった。たまに早朝、学校へ行くときに、夕べはいなかったはずの父の寝姿を見るとほっと安心したものである。しかしながら、みごとな寝言であった。九割がた、部下への叱咤激励であり、寝言とは思えないほど、リアルなのである。私は、よく面白がって「ハイ、ハイ、それで?」とか相づちを打っていた。そんな日々の中で、あるとき、父の究極の寝ボケに遭遇した。それは、父と久々に映画を見に行ったときのことであった。忘れもしない、タイトルは「かぐや姫」である。家族サービスのつもりであろうが、日々の疲れからか、最初から父は、すでに舟をこいでいた。映画も後半になって、かぐや姫を連れに月からの使いの者が「おともの者が参りました。」という名場面のその時であった。寝ているはずの父が「おう、今行く。」と答えたのである。もちろん、まわりの客は驚くとともに爆笑の嵐であった。そのときの私は、というと、これがまた、人々に交り大笑いしていたのである。
本当に救いがたい、寝ボケ親子だなあと思う昨今である。