親子の日 エッセイコンテスト 2018 入賞作品

親子の日エッセイコンテスト:グランプリ

岩手県釜石市特産品

中学2年の夏、私はクラスメイトと喧嘩をして怪我を負わせた。第二次反抗期のときのことだ。彼にいじめられていた友だちを庇う行動、それは正義だと信じて疑わなかった。職員室で喧嘩の経緯を尋ねられることなく彼に怪我を負わせたことを責められた。友だちをいじめていた彼は責められないのかと喰らいついた。父が学校に呼び出された。

父と一緒に学校を出た。父に無言のまま促されてタクシーに乗り込み、彼の家に向かった。徐ろに「おまえはどう思う?」と父が語りかけてきた。ことの経緯と自分の行動の正当性を興奮気味に語った。それには「そうか…わかった。」と呟いた後、父は沈黙した。わずか5分、これほど5分を長いと感じたことはなかった。

彼の家に着き、インターフォンを押した。扉が勢いよく開き、彼の父がわが子の負った傷の大きさ、それを負わせたことを責め立てた。そこに彼の姿はなかった。

彼の父が浴びせる私への非難を一頻り受け止め、父は彼の父に「息子は喧嘩したこと、そこに至った行動は悪くないと言っています。親としてそれを信じています。ただ親として息子があなたのご子息に怪我を負わせたこと、大変申し訳ないと思っています。必要な治療費は全てお支払いします。」と語って黙礼した。父は私に「帰るぞ」と小さく声を掛け、彼の家を後にした。帰りのタクシーの中で私に向けられた父の眼差しは優しかった。何一つ私を責める言葉はなかった。父の背中がいつも以上に大きく感じた。父は親として子を信じ、親として子の責任を取った。この瞬間、私の第二次反抗期は終わった。

12年前に腎臓がんで他界した父の十三回忌法要で焼香のときに遺影を見つめそんな記憶が蘇った。今では私も息子を持つ父だ。いずれ訪れるだろう息子の第二次反抗期を思い、私は亡き父に語りかけた。「私は父のようになれるだろうか。」と。そこには細い目をさらに細めて笑う父の遺影があった。

オーティコン賞

ゼンハイザー ヘッドホン HD 4.40 BT

君はもうすぐ6歳だね。絵を上手に描けるようになった君が、時々保育園から持ち帰る絵で一番好きなのは、私たちが手をつないで、微笑んでいる絵。とても嬉しくて、ホッとする。

パパとママが、どうして別々に暮らすようになったのか、賢い君は、もう理解しているね。みんなで暮らした家を出る前の事を、シェルターから出て間もない4歳の頃、よく話していたね。あまりによく覚えているので、とても驚いたよ。とても辛かったと思うけど、ママについて来てくれてありがとう。絶対幸せにしていくよ。

人生には、楽しいことも辛いこともある。楽しいときは、太陽の光に照らされたように、明るく元気な気持ちになる。辛いときは闇の中のように、暗くて不安な気持ちになる。私たちはあの家で、いつの間にか、ほとんど太陽の光が当たらない生活をしていたね。ママは恥ずかしながら、よく泣いていたと思う。そんな時、タオルを持って来て励ましてくれたり、おもちゃで遊んでくれたりしたよね。あの生活で、君はいじらしいほど、大人びてしまった。

世界はもっと広くて、楽しいことがたくさんある。子どもらしく、無邪気に笑って、多くの素晴らしいものに触れてほしい。そう思ったから、あの日、ママは君を連れて、陽の当たらない、小さな世界から逃げ出した。

ママは君に、させなくても良い経験をさせてしまった。だから、これからの人生は、2人でめいっぱい楽しもうと思っている。

花や虫を見て、どんな小さな植物や動物にも、命があること、もしかしたら、心があるかもしれないこと、年下のクラスのお友達と遊んで、自分より小さな弱い子には、特に優しい気持ちで接することなど、たくさんのことを学び、笑顔ですくすくと育つ君を見て、ママは本当に良かったと思っているよ。

これからも、仲良く、一緒に人生を楽しもう。世界は無限大に広がっているよ。

俺は犯罪を犯した。
生活の為にとはいえ、それは余りにも手痛い失敗だった。
俺はそして多くのものを失った。余りに多くのものを失ったのに比べ、俺が得たものはあまりにも少なかったように思う。あるいは、俺は何も得なかったのかもしれない。どちらにせよ、何を得たのかを、俺はもう思い出すことができない。
留置場で、俺は竜神雷神の描かれた背中をマッサージし、塀の中では運動会をやってコーラを飲み、毎日毎日じゃがいもの皮を剥いて過ごしていた。
気付けば俺の二十代は終わった。
俺は、俺が莫迦なのだということを知った。
それでも、俺の父と母は、莫迦なはずの俺のことを見捨てなかった。
こんな俺なのに、だ。
こんな俺であっても、俺は祝福されて誕生した命を持っている存在なのだった。
俺が良いとか悪いとか、そういうことの前に、大前提として、俺は両親にとってのすべてだった。
両親との関係は一切変わっていない。
つまりは十八歳だった頃の俺と両親の関係性と同じだ。ただの親と子で、普通の関係で、べたべたもしていないが、仲が悪いわけでもない。
今の俺が普通に仕事をして、普通の生活をして、普通の会話を普通に親とできているのも、全てはそういった両親の理解のおかげだと思う。
両親は、俺を信頼している。
両親は、俺を無条件に許している。
両親にとって俺は、欠け替えのない存在だった。
そういうものを、俺はこの十年の内 に学んだ。
それはありがとうでもなく、ごめんなさいでもない。
頭の悪い俺は、それでもまだ生きようと思う。
死ぬ気はない。さらさらない。
俺にはまだやるべきことがある。
それは両親の為に、ではなくあくまでも俺自身の為。
その為の努力。
その為の挫折。
その為の挑戦。
しかしながら、それを俺がもし成した時には、一番に
「どうだ」と報告したいのは、父と母だった。
俺はまだ生きていく。
俺の父と母の子として。
二人が今、何も言わずに、俺の好きにさせてくれているのは、本当にありがたいことだと思う。
いつかこの夢を成し、父と母に「どうだ」と報告をしたい。

冬休みに帰省し、大掃除に巻き込まれる形で納屋を掃除することになった。
棚を整理していると、ふと一冊のアルバムが目に入った。
不思議な引力に誘われるように、埃を被った重たい表紙をめくる。
病院で祖母に抱きかかえられた瞬間の写真、
セーラ服姿で恥ずかしそうに校門の前で立つ写真、
バブル真只中、大学卒業旅行で海外にいった時の写真。
どれも私が生まれるずっと前の母の姿だった。
しばらく母の歴史をこっそり覗き見ることに夢中になっていたが、
背表紙を重ね合わせようとしたとき、私はハッとした。
私が物心ついた時には、すっかり「母親」であった母も、「赤子であり、少女であり、若者であった。」 このごく当たり前の事実の前に、静かに立ち尽くした。
私をお腹に宿した瞬間に、私が生まれた瞬間に、母は「母親」になったのだ。
仕事がうまくいかなかった時、
祖母の介護で疲れ果てていた時、
進路で悩み鋭い言葉で傷つけた時。
母は私の前でいつでも強く、優しい「母親」であり続けようとしていた。
私にいつか、そんなことができるのだろうか。 絶え間ない日々の中で、「母親」であり続けることは途方もないことのように思 えた。
言いようのない不安に駆られ、納屋から飛び出し、懐かしいカレーの香りが立ち 込めるキッチンに走る。
「お母さん、ずっとずっとお母さんでいてくれてありがとう。 私もいつか、お母さんみたな母親になれるのかな。」
昔より少し小さくなった背中を、堪らなくなってぎゅっと抱きしめた。
母はキョトンとした顔で振り返り、でも何かを悟ったように
「子供と一緒に泣いて笑って、少しずつ母親になっていくのよ。
私もまだ、あなたのおばあちゃんには敵わないけどね。」と笑った。

三菱地所・サイモン賞

お買い物券10,000円分

「お前、目ぇ腫れてない?泣いた?」
同級生の寺田が悪びれもせずに大声で言った。高校三年の冬。私たちは間も無く卒業式を迎える。

中学受験で中高一貫校に入学した私は、六年間、母にお弁当を作ってもらっていた。二段重ねで、両の手のひらに乗っかるほどのお弁当箱。
下の段には敷き詰められた白いごはんに、梅干し一粒。上の段は毎日違うおかず。朝ごはんにも晩ごはんにも被ることのないメニューだ。
電子レンジなんて学校にないから、毎日冷たいお弁当。それでも毎日おいしいお弁当。
しかし、思春期は、なんて残酷なのだろう。私はたまに訪れる「買い弁」を喜んでいた。
母が寝坊をしたとき、私は500円を握らされ、コンビニでパンやカロリーメイトを買った。珍しい買い弁の日を、ワクワクして過ごした。お弁当が嫌いだったわけではないのに。
さて、私が目を腫らした高校三年の冬のある日。それは、お弁当を持つ最後の日だった。
お弁当より買い弁にワクワクしたはずの私は家を出る前、泣いた。毎日手渡され、当たり前に手元にあった母のお弁当は、これが最後だった。1566回分の「ありがとう」を言葉にしてこなかったことを、突然後悔した。
手渡す母も、泣いていた。
学校で包みを開いて、私はまた泣きそうになる。特別豪華なわけじゃない。だけど、伝わる。アスパラの肉巻きがあって、おねぎの入った卵焼きがある。私の好きなおかずオールスターなメニューだった。

十三年が過ぎた今も、あの日の心臓がキュッとつねられるような胸の痛みを忘れられずにいる。母は今、毎日自分のためにお弁当をつくり、仕事に向かう。彼女が定年を迎える日には、私がお弁当を作ろう。

母親の終活は一年前、私の結婚式が終わった翌週からはじまった。新婚旅行を終えた私は早速実家に呼び出され、母親から直接その宣言を聞いた。ようやく親元を離れた子に安心したのかもしれない。父親はすでに他界していた。高齢出産で私を産んだ母親は当時すでに七十歳を越えていて、これからの人生を自分なりに再設計した結果としては十分に考えられることだった。しかし、終活という聞き慣れない言葉を、まさか本人の口から発せられるとは、やはり寝耳に水の出来事だった。私は返す言葉も見つからず、年老いた母親の顔をじっと眺めるほかなかった。
その日から一ヶ月の準備期間を経て、母親はそれを行動に移しはじめた。はじめに土地と持ち家の売却を決めてしまうと、駐車場付きの賃貸物件に移り住んだ。不動産の売却金と遺族年金を併せたら、自身の葬儀代を勘定しても十分に生活できる額に違いなかった。身のまわりを整理した母親はこれまでの軽自動車を燃費の良いハイブリッド車に買い替え、頻繁に旅に出るようになった。長年暮らしている九州の各県をはじめ、山陰地方や四国まで遠出することもあった。母親はその道程をひとりで運転し、私はそのお供として母親の終活に付き添った。
自動車を運転する母親の姿は案外元気そうに見えた。助手席に座って何か持病があるのかと尋ねると、今のところはない、と前方の車に視線を向けたまま答えた。高速道路の追い越し車線に何度も車線変更をしながら軽快に運転する母親はやはり健康体に違いなかった。
「あたしはもうすぐ足腰が立たんごつなるけん、いまのうち好きなとこ行っとかな」
母親はそう言って、くつくつと笑った。そして、目的地ではほかの観光客に負けないくらい写真を撮り、まるで子どものように活発に動きまわった。
母親の終活はいまも続いている。先日は鹿児島から航路で沖縄に渡った。免許を返納してからは私が運転を引き受けている。私はついに母親の行動に慣れることはできなかった。しかし、旅先で楽しそうに笑う母親の姿を見るのは、何か恩返しをしているようで心が晴れるのも確かなのだった。(了)

私は父のことを「おとう」と呼ぶ。おとうは、「お父さん」といった威厳がある感じもしなければ、「パパ」というほどフレンドリーでもない。そんな雰囲気からか、私は物心ついたときから父をそう呼んでいる。おとうから怒られたことはないし、習い事や進路について 私から相談することも、おとうから聞かれることもなかった。私が挑戦したいことに対して賛同するわけでもなく、反対することもない。基本的に、他愛もないことを私が一方的に話す。おとうは聞いているのかいないのか、分からないぐらいの相槌を打つ程度だが、一緒にいて居心地は良かった。ひとつだけ思っていたことは、おとうは私がすることに対しては興味がないものだと思っていた。
私が初めて親元を長く離れることになったのは大学3年生の夏。1 年間の海外留学を決めた時だ。空港へのお見送りには家族全員で来てくれた。私が搭乗ゲートをくぐった後、母と妹はもう帰ろうと言ったそうだ。だが、おとうは私の乗った飛行機が見えなくなるまでいる、 と言い張りずっと見送っていた、と留学から帰ってきて母から聞かされた。おとうは父親らしい言葉を私に直接かけることはないけれど、実は娘を心配しているのだと初めて知った。
今、私は社会人となり地元を離れ東京で暮らしている。長期休暇の度に帰省するのだが、東京に帰る時は実家の最寄り駅まで必ずおとうが車で送ってくれる。最初のうちは、踏切の外から私が乗った電車を見えなくなるまで見送り続けてくれた。最近は、改札を一緒に通りホームまで来てお見送りをしてくれる。搭乗ゲートや車中でのお別れでは泣くことなんてなかった。なのに、ホームで交わす最後の「またね」には、距離が近いからなのかおとうの語らない言葉が聞こえる気がして、私は涙をこらえきれずに困っている。

毎日新聞社賞

MOTTAINAIオーガニックタオルハンカチ3種セット

私は父親という存在を最近も知ることができませんでした。父と子の関係性があまりうまくいかなかったのです。
両親は健在で父は私が生まれた時代から考えると少し遅めの結婚をしたのでしょう、およそ40程の年の差があります。父は学者でした。
学者の父は非常に論理的でありそして勤勉でした。また正義感にも溢れた人物なので子供のいたずらというものが深いに感じたのでしょうか、それとも研究の妨げになったのが煩わしかったのでしょうか、叱られ、そして遠ざけられていたそうです。私は幼い頃からほとんど母の手だけで育てられました。
ほんの数年前、私が人生で大きな障害にぶつかったときがあります。それは大凡の人が体験することではない非常識な事件だと思います。その時です、初めて父親が激怒しました。私に対してではなく、その大きな障害に対して激怒したのです。
私はその父の姿勢、熱意、そして優しさに触発され、私もまた心身を奮い立たせ立ち向かう勇気を父からもらったのです。
その障害がどうなったかはもうどうでもよく、只々父が必死になって障害に対峙するその志に私はもっと素直に、もっと早くから父と会話ができていたらどれほどまでに充実した幼少期をおくれたのではないかと後悔しました。
そしてそのことをそっと父に打ち明けた時のことです。定年をすぎた父から驚きの言葉が返ってきました。
「お父さんもそう思う、でも遅くはない、今からできる、今だからこそできる、遅すぎることなんてことはどこにもない、それよりもこれからもっとたくさんのことを話そう。」
今までどれほどの父からの愛情を注がれていたのかを今になって漸くほんの少し知れたのかもしれません、親と子はいつどんなことがあってどんな風になったとしても、ほんの少しの照れ臭さだけが間にあって、その照れ臭さがどれだけの溝であっても絆であっても大切に包み込んでくれる優しいものなのだと知れたのではないかと今になってそう思います。

母子家庭で育てられた私は中学3年の夏、拒食症になった。過度な運動と食事制限で身体はガリガリで高校もそれが原因で中退。入院もした。しかし、母は一度も私を責めず沢山の手の込んだ料理を作り続けてくれた。
四年が経った頃。
ついに身体が悲鳴をあげ自室で横になる私の側へ来て母は初めて私を殴った。
母は言った。
「恵まれいてる今の環境に気付きなさい。生きている事は当たり前じゃないよ。家族がいる事も家がある事も。ご先祖様が命を繋いでくれたから今、生かされているの。あなたは生きていていいの!」
そう言って去って行く母の後ろ姿を見ながら私は、今まで自分の事をどれだけ卑下してきたか考えた。
自分なんか消えちゃえばいいとか弱いとか。何度思った事だろう。あの人の方が頭が良くて偉いから私は…。と何度人と比べただろう。周りの人がすごく強く見えたのは当然だ。胸張って一人一人頑張って生きていたからだ。私は見下すばかりでちっとも努力していなかった。それだけだ。
「私は生きていてもいい。弱くてもちっぽけでも、胸張って生きていていい!」
そう自分に言い聞かせてみた時、私の心がやっと笑ってくれた気がする。
拒食症だった私に一発の拳とその時の母の言葉。
私は一生忘れないだろう。
何故なら、この言葉が私を拒食症の泥沼から救い出してくれたから。
そして伝えたい。同じ摂食障害で苦しむ人たちにも「あなたは生きていてもいいんだよ」と。
今ではそんな長かった拒食症も母とは笑い話だ。
長かったけれど、今生きててよかったね。
生きているから、今がうんと楽しいね。と。

この日、小学6年生の僕は、初めて不合格というものを経験した。
中学受験の発表の帰りだ。
「違う駅まで歩きたい」
僕は、隣にいる父に言った。咄嗟にでた言葉に、現実の厳しさを感じていた。本当は、そこが最寄り駅なのに、すぐに電車
には乗りたくなかった。

1時間ぐらい歩いてから、もう誰にも顔を会わせなくてすむ駅から電車に乗り、僕たちは家に帰って来た。
ドアを開けたら、いい匂いがしていた。
これは僕の大好物、唐揚げカレーライスだ。
ダイニングテーブルには、唐揚げにトンカツまで!カレーライスにのっていた。

好きだけど…さすがにこれはのせすぎだ
母は、いつもの手際のよさで、僕の好きな料理を次々とテーブルに並べていく。
いつも通りの母の背中に、鼻の奥がツーンとなるのを感じた。

僕は、夢中で食べた。
スプーンでカレーをすくえるだけすくって、唐揚げやトンカツをのせてスペシャルにして、ガツガツ食べた。
食べても食べてもなくならない。
僕の好きなものは、目の前にいっぱいある。

そうだ、考えてみれば、小さいころからずっとそうだった。
友達と喧嘩をした時、逆上がりができなくて泣いて帰って来た時、何かあるたびに母は、僕の好きな料理をたっぷりと作って
いた。

「そんなことで、簡単に元気になるもんか!」
いつもそう思いながら食べ始めるのだが、いつの間にか、まんまと大好物にやられてしまう。
母の魂胆はまるわかりなのに、毎回僕は同じ手に負けてしまうのだ。
もう絶対立ち直れないと感じた、この不合格の夜も、僕は唐揚げとトンカツとカレーライスを見事にたいらげて、いつの間にかグーグー眠っていた。

どんな時も食べたら元気になる。
母が僕に教えてくれた、史上最強の作戦だ。

円谷賞

劇場版 ウルトラマンジード つなぐぜ! 願い!!』 Blu-ray 特装限定版

うまくいかないものだ。つくづくそう思う。
闘病を始めて、もう十年近い。自力で歩行できた時期もあったが、浮き沈みがありながらも症状はじわりじわりと完全な寝たきり生活へと向かっている。
回復しようと進む度、それ以上に強く病に押し返される“一進二退”の日々。

肉体と精神、ともに疾患を抱えている私にとって、リハビリは計画的に進むものではなかった。突然襲いかかる体の不調や痛み…。何かしらの症状が壁となり、病床に戻されて病苦と闘うことになる。そして、再びリハビリを始める頃には無慈悲にも時が経過し、体は以前より衰えていた。結局、以前より負担を下げたリハビリにもう一度挑戦するという悪循環がずっと続いている。

「何でこうも報われないのかな…」
夜中につい吐露した独り言を自分の耳が聞く。すると、幾度となく泣いて枯れたはずの瞼から、再び涙が溢れ出す。「辛すぎる…」私は悲嘆の樹海へ迷い込み、体力が切れるまで暗闇の中でもがき、やがて意識が途切れてゆく。

ハッと意識が戻ると、空が白みはじめている。周囲を見渡すと、カーテンの隙間から朝日が射し、病床から二人の写真がふと目に映る。
一人は七歳の長男。誠実で大柄な長男は、ニコニコと七福神の恵比寿様のように優しく微笑みかけている。「パパ、元気を出して」と励ます声が心に響いてくる。
もう一人は四歳になるひょうきんな次男坊。一歳から覚えたハンコのような笑顔は、何回撮っても同じ顔だ。私の具合など露ほど知らず「ジュワ!」と、ヒーローになりきっている様子が目に浮かぶ。
二人の対照的な写真をしばらく眺めていると、なぜだろうか、思わず吹き出してしまう。

子供とは不思議な力だ。二人の愛くるしい写真に癒しをもらっている内に、私の病んだ心の中にも一条の光が射している。
そしていつの間にか、「今日もいっちょ運命に抗ってみようか」、そう思えている自分がいるのだ。

TSUTAYA賞

世界に1冊だけのオリジナルフォトエッセイブック

タイトルは「神さまの手紙」だった。
たどたどしい鉛筆の字を覚えている。
九歳の娘が作文を書いたらしい。
学校の宿題ではなかった。神さまが女の子に話しかけている内容だった。挿絵の ない、文字だけで綴られた約十頁の物語。
読み終えて、「これは絵本かテレビを見て書いたの?」 と僕は娘に聞いた。
自分で考えた、と娘は小さな声で答えた。
僕はそうかと答えて、コピー用紙を 手に取って読み直した。
原稿を失くしたけれど、内容は忘れない。

「神さまはね、いつも、あなたを見ているよ」、「どこにいるの?雲の上かな」、「ちがうよ。あなたの心にいるんだよ」、「心の中にいる?」、「あなたがつらい時、うれしい時、わからない時、神さまっているのかなと考えるでしょう。強く思う、あなたの心に私がいるの」

「神さまの手紙」が生まれた三ヶ月前、娘たちの母親は家を出た。
正確に言えば、僕が妻だった人を家庭から追い出した。
子供たちに理由は説明していない。
二歳半の次女は毎晩ひどく泣いたけれど、長女は母親が家を離れる前夜以来、一度も泣いていなかった。
それが僕への気遣いだということは気づいていた。
自制心の強さが良いのか、良くないのか判断できなかった。
不憫にも思えた。
そんな娘が何かを伝えようとしている。
意図を読み解こうと試みたけれど、わからなかった。

永遠のような夜泣きさえ、五年も経てば懐かしい。時々、娘が伝えたかったことを考える。
変えることのできない現実、受け入れざる得ない状況、誰も答えるのことできない疑問。
必要性によって創り出した、運命を司る神さまとの対話。
父親として、離婚を決断した責任者として、共に暮らす者として、僕は自分にできることが何かと悩んだ。
しばらくして、考えることをやめた。
子供を導くこと、教えること、諭すことは、おこがましい。
親子であっても、娘と僕は人格が異なる。人智を超えた尊い存在を安易に盲信できない 。
でも彼女の中に存在する、屈しない楽天性と、伝えようとする強さと、家族への思いやりを併せ持つ彼女の力を信じることはできる。
その導く力に寄り添い、従い、支えることが親の役割だと今ならわかる。
教えてくれて、ありがとう。

親子の日賞

「親子の日」オリジナルグッズ

私は、母に毛布を掛けてもらうことが好きな子どもだった。わざと毛布をはだけてみたり、時には寝たふりをするほどだ。
「おやすみ」の言葉とともに、掛けてもらったふんわりとした肌触りや、うたた寝から目覚めたときに掛けられていたブランケットの柔らかさ。さらには、寝返りをうったときに掛け直してくれるあのぬくもりが好きだった。何故好きだったか。おそらくは、毛布の暖かさだけでなく、そこから微かに伝わる母の愛情を無意識にも感じ取っていたからだろう。
大人になった今では、母に毛布を掛けてもらうことはないが、眠りに就く時ふいに思い出してしまう。
「寝冷えして風邪をひかないように」「またはだけて寝てる」などと、母は幼き私にこんな感情を抱いていたのではないかと思い巡らせる度、親から子への無償の愛を感じる。どこかくすぐったくて、気を抜くと涙が溢れてしまいそうな懐かしさは、心がほっこりすると同時に、もう戻らない日々だと気付くと胸がぎゅっとなって寂しさが込み上げてくる。
掛けてもらった毛布の感覚や暖かさは、はっきりとは憶えていないが、ほっと安らぎ眠りに就いたことは、母からかけてもらった愛情の証として心に記憶している。
これは私の子どもの頃に抱いた感情だから、いつの日か、母の気持ちも知ってみたい。そこからは、また違う見え方があるはずだから。

私は下手な短歌を詠むが、自ずと家族のことを詠んだ歌も出来る。そんな中で、全国的に著明な短歌大会で、特選に選んで貰った歌がある。それは、
頼まれもせぬ孫の名をあれこれと日がな一日考えておる
である。長女には、結婚後直ぐに子供(初孫)が生まれたが、長男にはなかなか出来なかった。下手をすれば、我が家の名字「赤松」の継承も終わりかなと思っていた。本人達も随分と苦労したようで、最後は人工授精に頼ることにしたが、その甲斐あって、同い年の夫婦がアラフォーに近付いた時に、やっと男児を授かったのである。
先の短歌は、その孫が生まれる直前に詠んだものである。頼まれてもいないのに、もし自分だったらどう命名するかと、落ち着きのない状態を詠んだ。結局、命名は夫婦二人で、『蓮太郎』となった。本籍のある大分県の偉人、「瀧廉太郎」を意識した命名である。暫く後にお祝いに訪れた際の、私のお祝いの歌は、
命名は蓮太郎なりふるさとの偉人に似たる佳き名と思う
である。
我が赤松家は、男ばかり五人の兄弟がおり、それぞれ二人ずつの子供を設けたが、その内男子は六人いるのに、孫の男児は僅か三人である。一人は養子なので実質二人である。辛うじて二人が、「赤松」の家系を繋いだ。その内の一人が我が家だ。
わが子を詠んだ最初の歌は、
諭吉をば二分の一にしたる程なればいいぞと諭と名付く
である。後に、故郷中津市の賢人、「福沢諭吉」の人物の大きさを知るに付け、二分の一でも誠に恐れ多い命名であったかと、思った次第である。長女に関する思い出深い歌の一つは、
爪摘めと詰め寄り来たる幼子の爪摘むことは危うかりけり
である。二人の子供を同時に詠んだ歌もある。
父の観る銭形平次にチャンネルを合わせて子等は飛び出して来る
毎日8時過ぎに帰宅する私の車の音を聞き分けて、迎えに飛び出して来ていた。そんな健気な時期のあった子供達も、今はもう40代。当時の私の年代を越えてしまった。

わたしが大学3年生の時、父はある日突然家を出て行った。父が家を出てからしばらくして1度だけ、父と2人で夜ご飯を食べに出掛けたのを覚えている。帰り道。わたしが先に電車を降りる時、父はわたしに向かってこう言った。「またご飯食べに行こう」と。わたしは「そうだね」と大きく手を振って別れた。無口で不器用な父と交わした約束だった。その日を境に父との連絡は途絶えていった。いつの間にか、父との約束も忘れてしまっていた。またなにかの機会に会えばいいかと思っていたのだ。それからわたしは無事に大学を卒業し、就職した。父に会わずに8年が経った。わたしは28歳になっていた。
父が癌で入院したことを知ったのは、2017年、年が明けてすぐだった。手術すれば治るだろうと信じていたのだが、最終的に癌以外にもいろんな病気を併発してしまい、父はもう戻ってこなかった。こんな再会は当然望んでいなかった。後悔で涙がいっぱいになった。父が亡くなった翌日、父の夢を見た。父が現れる夢は、生前も何度か見たが、この時見た夢は本当にいい夢だった。録画してデータ保存しておきたいくらいに。父と向かい合わせで一緒にご飯を食べていた。お店の名前は、「福屋」というところだった。天国にあるお店なのだろうか。お店はこじんまりしていて昭和っぽさを感じさせる趣のある感じだ。こういうお店好き、そう感じた。料理は家庭的なものが多く、どれも美味しかった。父が嬉しそうにご飯を頬張っていたのが印象的だった。わたしが父に「また絶対来よう」と言いかけたところで目が覚めた。父はちゃんと覚えていてくれたみたいだ。父と最後に会ったあの日のように、一緒にご飯に出かけられた。こちらの世界ではもう父に会うことはできないが、夢の中でなら何度でも会える。父はそう教えてくれた。父が亡くなるまで、悲しんでいることが多かったが、夢から覚めたわたしは少しだけ笑顔になれた。

「暑くてやってらんないよ、もう」会社から帰るなり父が言う。連日気温が30℃を越え、外回りが多い父の体には特にこの酷暑がこたえるだろう。だが私は、その言葉を一種の意外性を持って聞いていた。
「みーんみんみんみん…りょうじくん、あーそーびーましょ」4つ離れた妹と、いつも父のしてくれる「お話」に胸を躍らせていたのは何年前のことだろう。夜寝る前に読み聞かせをせがむと、いつも父は絵本ではなく自分で作った話を聞かせてくれた。幼少期を山梨の盆地で過ごした父は暑さに強く、親友の“りょうじくん”とセミを追いかけ、照り付ける日差しのもと自転車で少し離れたプールに向かった夏休みを、キラキラとした「お話」にして私たちに話してくれた。それがたとえ冬でもおかまいなし。一年中いつだって父の物語は、夏だ。父にとってきっと、小学生の夏休みは何にも代え難い思い出なのだ。話を聞かせてくれるだけでなく、週末になるとよく私と妹を近所の公園に連れて行ってくれた。引率の父は誰よりも楽しそうに走り、ときにはしゃぎすぎだと母に怒られていた。
思い返せば私が小学校高学年に上がったころから今日まで、父の夏休みの話を聞いていない。よく話すのは受験や就職、そんな目の前の現実的なことばかりだ。夏は暑いからといって、公園やプールに行くよりも家で過ごすことの方が増えた。私たち娘2人は歳を重ね、父も外の太陽より家のクーラーが好きになってしまったのだろうか。
大学4年生になった私は来春、就職のため家を離れる。もう、現実を離れ物語の世界を楽しんでいられる年齢でもなさそうだ。次の日曜日、父に「夏のお話」をせがんでみよう。今でもまだ、りょうじくんととったセミの話を聞かせてくれるだろうか。暑く過ごしにくい夏が、楽しい夏に変わってくれるといい。
少し照れくさいけれど。

「あなたが生まれた日は、実家でカレーを食べながらサザエさんを見ていた。」
これは私が生まれてから今日に至るまでに何度か母から聞かされてきたエピソードだ。
なんの因果か私はカレーが大好きで、サザエさんを毎回録画してまで見る大人に育った。
母はこの話の続きを、いつもこんな風に締めくくる。
「だからあなたは間違いなく日曜日生まれなの。日曜日生まれの子は運がいいんだよ。」
この話のおかげもあり、私も自分の強運ぶりに自信を持って生きてきた。
受験のときも、就活のときも、この言葉はどこかで私を勇気づけていた。
ちなみに受験は落ちた。
しかしある日、暇を持て余してスマートフォンで自分の生まれた年のカレンダーを見ていたら、驚くべき事実に気づいた。
私の誕生日は土曜日だったのだ。
これでは受験の失敗も就活の連敗も仕方ない。
すぐさま母に、真実を隠しつつ生まれた日のことを訪ねた。
するとやはり、「カレーを食べて、サザエさんを見ていた」と言う。
カレーはともかく、サザエさんのように強烈な記憶を取り違えることがあるだろうか。
もちろん昔サザエさんが火曜日にもやっていたことは知っている。
しかし問題なのは「土曜日」なのだ。
録画の線も考えたが、あいにく私の親戚に録画してまでサザエさんを観たがるサザエさんファンはいなかった。
こうなりゃ書類の書き間違いすら疑う始末である。
サザエさんが急に土曜日に放送されるよりは、多忙なお医者さんが日にちを書き間違える方が有り得るだろう。
それともあのサザエさんは母が陣痛にうなされて見た走馬灯だとでも言うのだろうか。
これまでの二十年あまり私を勇気づけたこのエピソードは、今後、隙をついては私の頭を悩ませる、なんとも言えない話題になるだろう。
こんなことを考えて悶々としていると、取るものも手につかない。
とりあえず、今日の夕飯はカレーにしようと思う。

Your comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *